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護誓散華  作者: くじゃく
晴れの行方
56/220

十八 訪れた客(3)

 秦雪玲の叫び声が聞こえてその場へ着いた頃には、彼女は秦麗孝の前で、それもこめかみに血を流しながら倒れていた。

 「てめぇ……」

 秦麗孝は剣を持つ手に力を強く込める。倒れている秦雪玲の隣に細っていて薄気味悪い笑みを浮かべる男が立ち、彼女の襟首を掴んで上げる。

 「ハハッ、このお嬢ちゃん。いい面してんなぁ? こめかみに怪我なんてしちまって。ごめんごめん」

 男は持っている腰刀を秦雪玲の頬に添わせる。それに宁麗文と漢沐熙は顔を青ざめ、秦麗孝は黒くする。

 「姉ちゃんに何するつもりだ?」

 「姉ちゃん? へえ、あんたの姉か。えらいべっぴんさんだな。俺にくれないか?」

 「何するつもりかって聞いてんだよ!」

 秦麗孝が強く一歩踏み出す。それに男は秦雪玲の頬に刃を突き立てる!

 「おいおい、そんなカッカすんなって! これ以上動くとこいつの命はねえぞ」

 宁麗文と漢沐熙も剣を構えたが、確かにこれ以上動いてしまえば彼女は殺されてしまうだろう。眉を顰めて下唇を噛みながら打開策を考えている間、秦麗孝はつり上がっている目を更に吊り上げ、こめかみに青筋を一本、二本と立てながら息を荒らげている。

 「俺たちの要望は肉だよ。肉って言っても……羊肉だな。膳無にしか味わえない最高の肉が欲しいんだ」

 それに宁麗文が答える。

 「それなら普通に買えばいいんじゃないのか? なんでここに来るんだよ」

 男は鼻で笑う。

 「普通に買う? そんな野暮なことはしない。俺たちはここで羊を狩って売りさばくんだよ。膳無で獲れた羊です〜ってな!」

 一つ笑い、そして睨むように目を細める。

 「……だがなぁ、まさかすぐにバレちまうとはな。先にあの男を殺せばよかったぜ」

 「……もしかして、昨日あの路地裏で話してた奴か?」

 今度は漢沐熙の上げた声に男の目元がぴくりと動く。顔も徐々に黒くなり、声の調子も低くなる。

 「おい、それをどこで見た?」

 次に答えたのは宁麗文だ。

 「どこでって。路地裏からちょっと離れたところから見かけたんだよ。怪しいと思ってたけど普通に談笑してたし、遊郭に行く話でもしてるのかなって思ってたんだ」

 『遊郭』という言葉に漢沐熙は噴き出しそうになった。「今ここで言わなくてもよくないか?」と抗議するように宁麗文を見るが、悲しいかな、彼はその視線に気付かない。

 「ハッ。あの琳玩にか? あそこはダメだ。女ばっかりで楽しいけどよお、女だけだ。身体を売るだけで他には何も取り柄もない。飯はそんなに美味かねえ」

 男は掴む襟首に力を入れて片方の口端を上げる。

 「それに比べてここはどうだ? 新鮮な肉もあればここにしかない肉もある。なんならこの嬢ちゃんもいるときた! なあ、あんた。このお姉ちゃんとやらは頭はいいか? 科挙に受けたことは? なんてな、冗談だよ」

 秦雪玲の後ろにも数人の男がいる。彼らは歪んだ顔で笑い、彼女を掴んでいた男は襟首を離して落とした。それに秦麗孝は目を見開く。

 男は彼に薄目で「こいつか?」と挑発めいた口を開く。

 「あんたんとこのこの嬢ちゃん。えらくべっぴんさんだから俺たちにくれよ。なあに、悪いことには使わないさ」

 漢沐熙はそれに目元を顰める。彼の剣を握る手の力が強くなる。秦麗孝の口からは冷たい声が放たれた。

 「離れろよ」

 「じゃあ羊肉をよこせ。そうしたらこの嬢ちゃんを返すよ」

 男はニタニタと笑う。秦麗孝にとっては秦雪玲も羊たちもどちらも大切に想っている。どちらを天秤に量るなんてことはできない。だからこそ、この男たちに憤りを見せているのだ。

 秦雪玲の両腕を後ろにいた恰幅のいい二人の男が引き上げる。ぶらりと彼女がぶら下がる。まだ気絶をしているようだ。だが、むしろその方がいいのかもしれない。

 (どうすればいい? また動けば秦雪玲さんに何かされてしまう)

 宁麗文は視線を惑わせながら考える。剣を握ったまま、瞼を揺らがして、漢沐熙や秦麗孝、そして秦雪玲を見る。

 (どうにかこいつらを黙らせないと……何か、何か……)

 細身の男は秦雪玲の頬を乱暴に掴む。それに彼女は目覚めてしまった。深い青色の双眸は酷く動揺したまま揺らいでいて、息も霞んだままだ。

 「おっと。起こしてしまったみたいだ」

 「……あ……ぅ……」

 秦雪玲は恐怖と動揺のあまり何も言葉にできない。眉を顰めたまま男から視線を流す。そこにいたのは憤りに顔を黒くする秦麗孝だ。

 「し……小麗……」

 「姉ちゃん!」

 彼女の目から涙が零れた。掴まれたまま首を横に小さく振る。その身体は震えていた。

 「なあ、どうする? このお嬢ちゃんか羊か。選べよ」

 細身の男は彼女から手を離して、今度は腰刀を彼女の首筋に近付ける。秦雪玲はそれを見てしまって更に涙を流す。秦麗孝はまた顔を顰める。

 「ダメ……小麗、ダメ……」

 「……っ」

 宁麗文は固唾を飲む。あの男の腰刀を見た。眉を顰めながら策を練る。

 (あの腰刀。確か、ほとんどの奴らが持ってた。なら、さっきのところにもたくさんあるはず。あの鞘を……)

 宁麗文は小さく頷いて漢沐熙に目配せをする。それに気付いた漢沐熙は彼を見た。

 「どうした?」

 「いいことを思いついた。手伝ってくれないか?」

 漢沐熙は眉を少し顰めて瞬く。しかし、今の現状はこの有様だ。何もしないよりかはマシだろう。漢沐熙は頷いて「分かった」と答え、秦麗孝に声を掛ける。振り向いた彼はまだ黒い顔をしていて、こちらにも睨みつけている。漢沐熙は慣れたように剣を鞘に納めて彼に近付く。男は漢沐熙の行動に、秦雪玲の首筋に更に刃を突きつける。彼女は息を荒らげていて、まだ涙を止まらせることなどできない。

 漢沐熙の手が秦麗孝の肩を叩く。耳に口を寄せて、男と秦雪玲たちを見てから小声で開く。

 「落ち着け。俺たちは一旦離れる。その間にあいつら……特に、姉さんに刃を突きつけている奴に隙ができたらブッ叩け。いいか?」

 秦麗孝は漢沐熙を睨み、そして目を細めてから前を向く。下唇を噛んでから「ああ」と頷いた。そして漢沐熙が離れたと同時に自分も剣を鞘に仕舞う。息を一つ吐いて表情を戻した。その深い青の双眸は男たちを睨み、そして秦雪玲を見れば優しく笑う。

 秦雪玲は彼がどうして自分に微笑みかけたのかが分からなかった。眉を顰めたまま泣いていて、ぐちゃぐちゃの頭の中が整理できない。

 「分かった。羊をやるよ」

 「小麗!」

 「姉ちゃん。大丈夫だ」

 秦雪玲は下唇を噛んでまた大粒の涙を零す。それが顎に流れて滴り落ちた。

 男たちは大いに喜んで更に笑う。秦雪玲の首筋から腰刀が離れ、彼女を掴んでいる二人の力も抜けていく。しかし彼女はそれに気付かない。

 「ッハハ! そう来なくっちゃなぁ!? なんだあんた、話が分かる奴じゃないか! いいぜ、じゃあお嬢ちゃんを返すよ。その後にお話しようぜ。利益とかな。楽しみにしておけよ?」

 秦麗孝は浅く笑う。その深い青の双眸は男の隙を探している。

 「……そうだな」

 それは完全に油断した獲物を捕らえようとする、獣の目だった。

 

 秦麗孝と男が話しているその頃、後ろへ駆けた宁麗文はすぐに落ちている腰刀を手に取って刃を捨てて鞘だけを持つ。鞘をぐるりと見回して確認する宁麗文に漢沐熙は眉を顰めながら「何をするんだ?」と問う。

 「秦雪玲さんを掴んでたあの二人いるだろ。そいつらに向かってこれを投げる」

 「なっ……」

 「バカだと思うか? 今はこれしかないんだ。一か八かになるけど、よろしく頼むよ」

 漢沐熙は唖然として我に返ってから別の腰刀を探して鞘だけを持つ。二人で並んで秦雪玲を掴んでいる男二人に標的を合わせる。

 「君、投擲とうてきの経験は?」

 「ふふん。言ってなかったけど、俺、実は弓技が得意なんだ。これくらいどうってことはないよ。あんたは?」

 宁麗文は困りながら笑う。

 「やったことないんだ。実は不安だけど、まあなんとかなるだろ」

 二人で口角を上げてから顔を引き締める。鞘をしっかりと握って奥の男に向ける。宁麗文が息を吸った。

 「せぇー……のっ!」

 言い終わった瞬間に二人は力強く平行に鞘を投げる!

 修練を重ねた修士による投擲は当然一般人には敵わず、秦雪玲を掴んでいた二人はそれを額にぶつけられ彼女から完全に腕を離し、後方へと白目を向いて背中から倒れた。驚いて瞬きをする秦雪玲と彼女に腰刀を添えていた男は呆気に取られていて固まっていた。秦麗孝はその男の隙を見て一歩踏み出して左に男の顔を一度殴り込む!

 男はそこから飛ばされて少し遠い地面に転がり落ち、ぐるぐると目を回していた。秦麗孝はすぐさま秦雪玲を抱き締めて怪我の確認をする。秦雪玲は涙を零しながら瞬きをして秦麗孝の顔を見る。

 「小麗、私は大丈夫よ。大した怪我なんてしてないわ」

 それに秦麗孝は辛そうな表情を浮かべながら彼女の顔を覗き込む。

 「そんなわけねえだろ! 血が出てる。それに泣いてるだろ」

 「それは怖かったからよ。でも今は本当に大丈夫、ここもそんなに深くない。助けてくれてありがとう」

 秦雪玲は微笑みながら秦麗孝を安心させる。秦麗孝も胸を撫で下ろして安堵の溜息をついてからまた抱き締めた。後ろから宁麗文と漢沐熙が駆けつけてくる。

 「あー、よかった。当たってたみたいだ」

 宁麗文は投げた方の腕を回しながら口角を上げて安心する。漢沐熙は隣で浅く笑っていた。

 (やっぱり敵に回さないようにしよう……)

 秦麗孝は秦雪玲を抱き締めながら辺りを見回す。漢沐熙に「応援を呼んできてくれ」と頼み、彼は頷いてその場から離れた。

 「宁麗文、助かったよ。まさか鞘を投げるなんてな。あれはこいつらのだろ? よく全員持ってるだなんて分かったな」

 「嫌でも大勢の相手をしてりゃ分かるよ。投げるのは一か八かだったんだ。漢沐熙はともかく、私は投擲なんてしたことがなかったから。才能でもあるのかな?」

 宁麗文は頬を掻きながら少し笑う。秦麗孝も口角を上げた瞬間、彼の背後に別の男が立っていた。その男は先程秦雪玲を掴まえていた片方で、宁麗文が当てた一人でもあった。彼は当てられた額から血を流しながら激昂しており、鞘から抜いた太い腰刀を構えていた。

 「えっ!?」

 驚く宁麗文の目の先に振り向く秦麗孝と秦雪玲は見てしまった。その男は二人の間合いに入り込み、秦麗孝の腹を刺さんと振りかざす。秦麗孝は彼女を引き寄せようと手に力を込める直前に、秦雪玲が先に彼を庇うように突き飛ばした!

 「姉ちゃ──」

 秦麗孝の深い青色の双眸が揺らぐ。その中には、優しく笑う秦雪玲の顔が映っていた。

 そして、彼女の胸の上に、刃が入った。

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