十六 双子(1)
初めて羊の肉を食べた宁麗文はその美味さに驚き、食べ終えて店を出た後も羊を見ては口の中で唾液が出まくっていた。「こんなに美味しい食べものは初めてだ!」と同時に「なんで江陵で食べられないんだ……」と肩を落としながら秦麗孝たちのいる草原に向かう。あまり目立つような場所にいては見つかって仕事の手伝いをさせられるのがオチなので、そろそろと隠れられる場所で見ようと思いながら大木の陰に隠れる。漢沐熙は隣に彼がいないと気付いて周りを見ると、嫌そうな顔をしながら木の幹に引っついて隠れているのを見つけた。
「そんなに警戒しなくてもいいって。秦麗孝は俺たちに気付かないんだから」
「いや、気付くかもしれないだろ。そうしたら私に手伝いをさせてくるんだ」
「しないしない。あいつは自分のやることは全部自分でやるタチなんだ。だからこっちに来いよ」
漢沐熙に腕を引っ張られて陽の当たる場所に立たされる。広い草原の上に秦麗孝が牛の背中を軽く叩きながら話している姿が見える。その顔はとても優しく、話している雰囲気も柔らかく見えた。
(あいつ、あんな顔もするんだ。本当にこの仕事が好きなんだな)
宁麗文が呆然とその姿を見ていると、それに気付いた秦麗孝が振り返って手を大きく振った。
「おーい、お二人さん! 来てたんなら言ってくれよ。分かんねえじゃねえだろ!」
漢沐熙も彼に手を振り返すと秦麗孝が走って二人の元へ来た。秦麗孝は牛たちと触れ合っていたからか、獣の臭いがついていた。
「もう飯は済んだのか?」
秦麗孝が二人に聞くと漢沐熙が頷いた。秦麗孝はにっこりと笑って宁麗文に顔を向ける。
「今の時間帯は牛と羊の乳搾りがあるんだ。といってももうあの牛で終わりなんだけど。お前もやってみないか? 体験だよ体験」
「乳搾り?」
秦麗孝は頷いて一頭の、先程まで彼が話しかけていた牛を指す。その牛は尻尾を横に振りながら草を食べていた。
「いいんじゃないか。どうせ一度きりの人生なんだし、せっかくなら乳搾りの体験でもしてみな」
漢沐熙が宁麗文の背中を叩く。宁麗文は呆気に取られるばかりで、だが体験というならと興味が湧いていた。
「いつでもいいぜ。牛たちは逃げねえよ」
「……なら、やってみようかな」
宁麗文の言葉に秦麗孝は思いきり笑顔を見せた。
「そうこなくっちゃな!」
秦麗孝に連れられた宁麗文と漢沐熙は一頭の牛の近くへ来る。その牛は秦麗孝を見て「モゥ」と鳴いた。
「よしよし。今から乳を搾るからな。宁麗文、まずは手本を見せるからちゃんと見てろよ」
「分かってるって」
秦麗孝は一つの桶を牛の下に置いてその場でしゃがみ込む。浅黒い手がぶら下がっている牛の乳を掴んでそれぞれの指を笛を奏でるように動かす。それに刺激を受けたのか、牛は桶に向かって勢いよく母乳を出す。秦麗孝はそれを幾度かして立ち上がる。振り返って宁麗文と漢沐熙を見て「やってみな」と笑う。
宁麗文は秦麗孝と場所を代わってしゃがみ込む。この手でやっていいのかと心配をして振り返ったが、秦麗孝は首を傾げるだけだった。つまり牛を傷つけなければなんでもいいのだろう。宁麗文はまた牛に顔を向けて乳に触れる。それはとても柔らかくて強く握ってしまえばちぎれてしまいそうだった。宁麗文はおそるおそる秦麗孝がやっていたように搾り始める。途端に勢いをつけた母乳が桶に注がれ、少し飛んで彼の膝を軽く濡らした。宁麗文は呆気に取られてまた驚く。
(こ、こんなに勢いよく出るものなのか!? ていうか握られても痛くないのか?)
「宁麗文? 何をそんなにぼーってしてるんだ?」
驚きすぎて固まっている宁麗文に首を傾げる秦麗孝は声を掛ける。我に返ってまた搾っていき、桶の中は瞬く間に母乳で満たんになっていた。宁麗文は立ち上がって牛の背中を優しく叩いてから撫でる。
「搾らせてくれてありがとうな」
牛はまた「モゥ」と言って尻尾を振った。振り返ると秦麗孝が牛の下に置いた桶を回収して、漢沐熙は腕を組みながら彼のやることに目を向ける。宁麗文も牛から離れて秦麗孝の行動に目を向けていた。
「漢沐熙はやらないのか?」
宁麗文は小声で漢沐熙にそう聞くと、彼が苦笑した。
「不器用だからやらないんだ。前にやったら牛に死ぬほど追いかけられたからもうやらない」
「そ、そんなに……」
口元をぴくぴくと動かしながら呆れている宁麗文をよそに、秦麗孝は乳でいっぱいになったその桶を抱えて少し歩いた木箱に入れる。それの蓋を閉めてまた牛の元へ来てから何かを優しく話しかけて背中を叩く。
「なんで桶を木箱の中に入れるんだ?」
「日に当てたら状態が悪くなるだろ。それにこれから工房に届けるんだ。木箱に入れて衝撃を与えないようにして運ぶんだよ。ちなみにこれは他の奴が回収するから、俺は搾乳と健康状態の確認ぐらいかな。他のは全部他の奴らがやるから実のところ俺がやることはない」
秦麗孝は牛を他のところに行かせるのを見送って振り返る。腰に手を当てながら口角を上げて「姉ちゃんのところに行こうぜ」と言った。
秦雪玲は羊たちのいる場所に立っていた。彼女の手にははさみがあり、これから仕事をするところだった。
「姉ちゃん!」
秦麗孝が大声を出して秦雪玲に手を振る。彼女は振り向いて彼と同じように手を振った。宁麗文たちは彼女の元へ寄ると秦雪玲は微笑みながら羊を撫でる。
「今から毛を刈るとこなのか?」
「そうよ。もうそろそろやらないとこの子たちが苦しそうだからね」
宁麗文は羊の観察をする。先程の食べた羊肉を思い出してまた口の中の唾液が増えた。このままではかぶりついてしまいそうだと顔を手で覆う。漢沐熙が不思議そうに彼の顔を覗いていた。
「じゃあ、それも宁麗文にやってもらおう。こいつ、さっきは牛の乳搾りもやったんだ」
宁麗文は手を顔から離して驚く。「またやるのか!?」と驚愕を顔に出すとちょうど振り向いた秦麗孝がニヤリと笑った。そのまま彼の隣に立って肩に肘を乗せる。その笑顔に宁麗文は心底嫌そうな顔を浮かべていた。
「なぁに、経験の一つや二つぐらいしたっていいだろ。江陵に戻った時に宁の兄貴に言えばいいじゃないか!」
「本当は秦雪玲さんの手を煩わせたくないからだろ……」
「そんなことねえって。確かに姉ちゃんの手を空かせるのもあるけど、お前の人生が豊かになる手伝いをしてるんだぜ? そう考えたら一石二鳥だろ!」
かつて三年前に宁雲嵐が宁麗文に怨詛浄化を共にすることを思い出してはやや呆れていた。
(なんでもかんでも一石二鳥って言葉を使いたがるよな、皆……そんなに私が暇そうに見えるのか? やっぱりそう見えるのか?)
宁麗文は肩から秦麗孝の肘を退かして助けを求めるように漢沐熙を見る。彼は片目を閉じて腕を組みながら片手の親指を立てた。宁麗文はそれに溜息をつくしかなかった。
宁麗文は袖を捲って長く垂れ下がっている袖を袖口に仕舞い込む。ある程度動きやすくしてから秦雪玲の隣に立った。秦雪玲は彼の手に一つのはさみを渡す。
「羊はね。結構毛量があるから、切るのが大変なの。先に手を突っ込んで毛と皮膚の境目を探すのよ。……ああ、一回私がやればいいわね。ごめんね、一旦返してもらえるかな?」
宁麗文は彼女から受け取ったはさみを返すと、秦雪玲はそのまま彼から数歩離れた。それを不思議に思った瞬間、秦雪玲は羊を器用に自分の足元に座らせる。宁麗文は思わず声を漏らして自分に顔を向けている羊とその上でしっかりと足で固定している彼女を交互に見る。
「最初は外側じゃなくて中側から刈るのよ。胸とお腹を一方向にはさみを動かして……」
秦雪玲は宁麗文に目もくれずに羊の毛を奥深くから刈っていく。羊はその間動かずに、ずっと呑気に草を食べていた。
「次は内股ね。あまり下を刈りすぎるとこの子が痛い思いをしちゃうからなるべく慎重にね。こうやって刈って、この子を寝かします。寝かすときは右でも左でもどっちでも構わないわ。その代わり、この子が苦しくないように肩の下に手を入れてね」
説明をしながら次々と毛を羊から離す。あまりにも鮮やかに刈っていくので、宁麗文は心配になってきていた。
(あまりにも速すぎてよく分からない……これをしている人って相当技術力が高いんじゃないか? これは私でもできるのか? 無理じゃないか?)
「宁麗文。姉ちゃんの話聞いてるか?」
秦麗孝は頭が動かなくなって固まっている彼の背中を叩きながら顔を覗く。彼のような初心者に秦雪玲のような熟練者のやり方はかなりの高難易度だろう。秦雪玲は全て刈り終えたあとで、羊毛は一枚の毛皮のように繋がっていた。軽くなった羊が軽やかにその場から離れていったのを見送った秦雪玲も宁麗文の前に寄って少し笑った。
「難しいみたい。宁麗文さんには荷が重いのかも」
「え、い、いや。そうではないんですけど。不器用なので上手くできるか不安で……」
宁麗文は胸の前で手を横に振って言い訳を述べる。それを聞いた秦姉弟は少しの間唖然として、そして噴き出した。宁麗文は段々と恥ずかしくなって顔を手で覆う。秦麗孝は背中をバンバンと叩きながら笑った。
「いいんだよ。最初は誰しも慣れないことはあるんだから。さっきだって、最初は驚いてたろ? でもそのあとにすぐに慣れて桶いっぱいに母乳を出してくれた。だから羊の毛を刈るのだってすぐに慣れるさ。漢沐熙はてんでダメだったけどな!」
「おい。俺を話題に乗せるな」
漢沐熙は不満そうに眉を顰めて口を出す。秦麗孝はまたそれに笑って今度は彼の肩に腕を回した。宁麗文は瞬きをして、秦雪玲の顔を見る。彼女はずっと微笑んだままではさみを彼に差し出していた。
「とりあえず、やってみましょうか」




