十五 膳無秦氏(3)
それからしばらく歩いて広場まで行く。そこには人だかりができていて、宁麗文たちも後ろからつま先を立たせたりと工夫をして人だかりの前を見る。
そこには猿と芸達者が芸を披露していた。その猿は相当の躾をされていたからか、芸達者の持つ輪をくぐり抜けたり綺麗な一回転をこなしたりと、芸を一つこなす度に観客を湧かす。宁麗文もその光景に思わず拍手をする。と同時に前に見た猿の邪祟を思い出して複雑な気持ちになっていた。
「ここに芸達者が来るのは珍しいですね。いつもなら牛や羊の休憩所として使われるのに……」
唐秀英が気になって漢沐熙に聞くと、彼も「確かにな」と答えた。
「俺も初めて見た。あいつなら分かるかな」
「きっと秦兄さんも知らないと思いますけど……」
二人が話していても宁麗文はまだ見続けている。漢沐熙は次の場所に進むために宁麗文の肩に手を置いた。
「ほら、行くぞ」
「ちょっと待って、今いいところ……」
宁麗文が一瞬だけ漢沐熙を見てから前を向くと、その「いいところ」が既に終わってしまい、観客が拍手をしている途中だった。宁麗文は悲しい声を出して漢沐熙に手首を掴まれてからその場を離れた。
次に歩いて着いたのは店から遠く離れた場所だった。そこは奥に壁が見えていても、広大な草原があり、その上に牛と羊……家畜が自由気ままに歩いていたり、草を食べたり、寝転がったりしていた。
「ここは?」
「秦麗孝たちの仕事場だよ。ここで牛たちの健康状態を見たり飯を食わせたり、牛や羊の乳搾りなんかもしてる」
宁麗文は秦麗孝が仕事をすることに驚いた。世長会で言われるような任務が嫌なのだろう。その分、自分の管轄内のこういった酪農業には精を出せる。秦麗孝は自由奔放だと思っていたが、その実牛や羊といった動物に優しく、そして世話をするのが好きなのだろう。宁麗文は辺りを見渡して牛たちの数を数えた。手前に見えるものだけでも軽く五頭以上いるのだから、この広さではもっといるだろう。
「宁麗文くんもやるか?」
漢沐熙はからかうように宁麗文に声を掛ける。宁麗文はあの桂城での大変さを身をもって知っているので「い、いいよ……」と乾いた笑みを浮かべながら断った。
しばらくのんびりと過ごす動物を眺めていると唐秀英が急に声を上げた。宁麗文と漢沐熙が揃って顔を見ると驚いた彼は我に返って片手で顔を隠した。
「どうしたんだ?」
「……父が、今すぐ帰ってこいと。多分、任務です……」
宁麗文は遠い目をした。あの宗主のことだ、また復興だのなんだのと息子の経験になりうるものを押しつける気だろう。唐秀英もきっとそう思っている。漢沐熙は苦笑しながら「そうか、じゃあ帰らなきゃな」と返した。
「はい。本当はもっと過ごしたかったのですが。それでは、僕はこれで」
唐秀英は二人に向けて拱手をして、二人も彼に拱手をする。そうして彼はその場で御剣をして桂城へと帰っていった。見送った後に漢沐熙が宁麗文に「秦麗孝たちのところに帰ろう」と言った。
来た道を戻っていると一つの店の前で陽気な声が聞こえた。漢沐熙と顔を見合わせてその場へ行くと、秦麗孝と秦雪玲が先程漢沐熙が撫でていた犬のいる店でお喋りをしているところだった。二人は先程の服とは違ったものを身にまとっていて、秦麗孝に関しては三つ編みにぶら下げていた髪を上にまとめていた。漢沐熙は「ああ」と声を漏らして二人の元へ行く。宁麗文はよく分かっていない表情をしながらも彼に続いた。
「秦麗孝、姉さん。これから仕事か?」
「沐沐。そうよ、その前に交渉をしていたの」
「交渉?」
秦雪玲の後に声を出したのは宁麗文だ。秦氏の仕事に交渉とはどういうことだろう。漢沐熙は声を上げた宁麗文に顔を向けて答えた。
「膳無秦氏は全ての酪農家と店主の橋渡しをしているんだ。個人同士だと何か齟齬があってからは遅い。そうなれば下手しりゃ喧嘩になって本来の生業も疎かになってしまう。だから秦氏が代わりにこいつらの橋渡しになって、何かがあればすぐに報告してもらうようになっているんだ」
「そうなんだ。大変なんだな」
それに今度は秦麗孝は答える。
「いや、そうでもないぜ。人の言い分をちゃんと聞いて理解するのとそれをきっちりと伝える。例えどっちかが皮肉だか嫌味だかを俺たちに伝えても本質をもう片方にちゃんと伝えるんだ。そりゃあ大変な時もあるけどさ、こうやってお喋りするってのも悪くないぞ」
秦麗孝は秦雪玲の手を取ってブンブンと振る。秦雪玲は優しく笑いながら彼のなすがままだった。宁麗文は彼の行動に感心した。彼は膳無秦氏の息子だ。親の背中を見て育っているし、それを理解している。それに気付いた宁麗文は、自分はどうだろうと考え始めてしまった。
(皆はこんなにちゃんとしているのに、私だけは全然だな……)
頭を小さく振って三人に顔を向ける。秦雪玲は店主に話をつけてから手を繋いだまま秦麗孝と奥の草原へ向かった。漢沐熙と宁麗文はそれを見送ってから顔を見合せる。
「飯でも食いに行く?」
漢沐熙がそう聞くと宁麗文も頷いた。姉弟二人の酪農の仕事の見学に行ってもいいが、秦麗孝から「お前もやるか?」と聞かれるのが嫌だったのだ。
漢沐熙が膳無一の食事処があると言うので、宁麗文は彼に着いていってそこへ行く。中に入ると年季が入っているのか、どこもかしこも柱は脆く見え、床は日焼け跡が見られる。卓と椅子は使い古されているからか所々欠けや小さな汚れが見受けられた。けれども桂城でのあの半年間の任務をこなしていた宁麗文にとってはもう慣れっこで、まだ土にまみれすぎて沐浴をしたいと強く願っていた時期よりかはマシかと考えていた。
漢沐熙は空いている席を一発で見つけてそのまま着く。宁麗文も着いたところでこれまた文字がかすみかけている品書きを手に取って眺めていた。
「宁麗文くんは何にする? 俺はキジの汁物にしようかな」
「えっと、私は……なんだこれ、ひ、羊の蒸しもの? 見たことないよ」
「ああ、それか? 確かに江陵にはないよな」
漢沐熙は目を弧に描く。どうやら彼はその理由を知っているらしい。「ここの人じゃないのに流石だな……」と感心しながらも話を聞いていく。
「羊の肉はな、膳無しか食べられないんだ。もちろん他の世家に行って一生懸命探せばあるかもしれないけど、鮮度は落ちてると思う。ここは鮮度がいいまま飯として提供できるから、そのうち名物になったんだ」
「へえ、そうなんだ。まだ知らないことだらけだな。勉強になるよ」
「そうか? まあ、知るってことはいいことだ。詳しいことは秦麗孝か姉さんに聞いてみてくれ。姉さんは羊の世話もしているからもっと教えてくれると思うぞ」
「そうしようかな。とりあえず、羊の蒸しものにするよ」
宁麗文も料理を選んで漢沐熙が店員を呼んだ。肉を調理するのでしばらく時間が掛かるが、宁麗文は大して気にはならなかった。その間も漢沐熙は簡単に膳無の話を続ける。
「膳無秦氏の先祖は遊牧民族だって、さっきは唐秀英が話していたよな。初代はなんの変哲もないただの遊牧民族だったらしくて、よく牛と羊の世話をしながら地を転々としていたらしい。それで初代宗主の霊力と共鳴した場所がここ。最初は名前なんてつけてなかったんだけど、まあ、初代宗主が『飯がなければ羊たちの世話ができない。羊たちの飯がなければ出る乳もない』っていう理由で膳無ってつけたらしい。それで彼と強く結びついている霊力を拡げていくうちに今のような地形になって、それから膳無秦氏としてここまで発展していったんだと」
漢沐熙の話の途中に届いた料理を頬張りながらも、宁麗文は彼の話を聞いていた。桂城唐氏の場合は村にいた農民からで、膳無秦氏の場合は住居を転々としていた遊牧民族。宁麗文は情報を整理していくうちに、秋都漢氏にも興味が湧いた。
「それじゃ、君の先祖はなんだ?」
「俺の先祖か? 建築士だな。まあ、建築士って言っても整備をする人や建物を建てる人、住民の要望を聞いてつけ足す人……色々いるよ。初代はそれはもう村一番の建築士だったらしい。彼は元から霊力を持っていなかったんだけど、彼の持つ工具が持ってたらしくて。次第に自分の身体に霊力が宿り始めてから地域を発展させていくようになって、それで今に至る。うん、まあ、うちのは膳無秦氏や桂城唐氏みたいな特別なものはないよ。パッとしない人間が頑張ってここまで来ただけだ」
漢沐熙は湯匙を持って旨みのある汁を啜りながら眉を上げる。宁麗文もまた、蒸した羊肉を咀嚼して飲み込んでいた。
「それでもすごいよ。皆、何かしらの功績を挙げているんだろ? 聞けば聞くほど偉いと思うよ」
宁麗文の言葉に漢沐熙は瞬きをして、それから噴き出してから笑った。宁麗文は彼の噴き出した理由が分からずに呆然とする。漢沐熙は目尻に溜まった涙を指で拭いながら笑いを抑えた。
「いや、変な意味じゃない。ただ、あんたにそう言われるのは恥ずかしいんだ。俺たちは自分の世家のことで精一杯だったからさ、これが当たり前だと思ってたんだ。……でも、あんたに言われて初めて気付いたよ。確かに俺たちは偉いな」
「特別に分けてやるよ」と漢沐熙は宁麗文の器に一つのキジの肉を置いた。宁麗文は礼を述べてそれを頬張る。……いつも食べている鶏よりとても美味かった。




