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護誓散華  作者: くじゃく
始まりの君
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一 宁麗文という男(3)

 世長会が終わった夕餉はとても静かだった。本来は家僕も弟子も含めて江陵での世間話や少しの議題を持ち込んでは賑やかに食卓を囲むのだが、この日は全くそうではなかった。いや、そうせざるを得なかったというべきだろう。たった一つの問題によってこうなってしまったのだ。

 (きっ……気まずい……!)

 宁麗文は肉団子を乗せた湯匙タンチー【レンゲ】を口元に運びながら背中に冷や汗をかいていた。宁浩然も深緑も宁雲嵐も誰一人何も言わない。家僕と門弟、そして養子である青鈴チンリンは何も知らずに一族の空気を読みながら無言で食べている。しかし、世長会に参加もしておらず何が起こったのか理解ができない彼女が黒の二つに輪に結んだ髪を揺らしながらそれぞれの顔を見て、怪訝そうに眉を顰めながら隣の席の宁麗文にこっそりと身体を寄せる。

 「ねえ麗文。何かあった?」

 「い、いや……あの……」

 冷や汗をたらたらと流しながら回答に困り果てている宁麗文に深緑が名前を呼んだ。

 「本当に行くつもりなの?」

 「行く?」

 青鈴は首を傾げた。

 「こいつ、あの洛陽肖氏の三男と凶鶏の調査に行きたいんだと」

 次に答えたのは宁雲嵐だった。青鈴は「行く」の意味の理解をして驚きながら席を立った。

 「あああああんた、麗文、本気で言ってるの⁉︎ 家から一歩も出たことすらないのに調査に⁉︎」

 「あ、阿鈴アーリン。落ち着いて座りなさい」

 深緑が青鈴を落ち着かせ、青鈴は我に返って座る。それでもなお、彼女は顔を青くし、宁麗文を見つめながら箸を手に取って食べていた。宁麗文はいたたまれない気持ちで食べ進め、食事が終わった後も顔を中々上げる勇気がなかった。

 「阿麗。本当に凶鶏の調査に行くつもりなのか」

 「……はい」

 「お前はまだ修練の一つもしていない。病に罹りづらくなったとはいえ、危険な目に遭わせるわけにはいかない。阿雲アーウンが出向かうからお前はここにいなさい」

 宁浩然は家僕に食器を下げられるのを見ながら宁麗文に釘を刺す。宁麗文は親と言えど、上から目線の言い方に眉間に皺を寄せた。

 「お言葉ですが。私はもう十七の身です。親なら子の無事を祈って送り出すのは当たり前なのでは? それに兄上が私の代わりに調査に向かうことは聞いていません」

 「阿雲が自ら申した」

 宁麗文は宁雲嵐に顔を向ける。宁雲嵐は彼の目を見て顔を逆側に逸らした。

 「兄上、本当に行くつもりで?」

 「……」

 「どうしてでも私を外に出さないつもりですか?」

 「阿麗」

 「嫌です」

 深緑が宁麗文に声を掛けたと同時に宁麗文は席を立つ。強く立ったからか彼を乗せていた椅子が音を立てて転がり落ちた。彼以外の誰もがその行動に面食らう。宁麗文はその目を一切見ることもせずに身を翻してその場を去った。

 彼が食間を後にした頃の家族と青鈴は互いに顔を見合わせて項垂れたり、手で顔を覆ったり、溜息をついたりと呆れを表に出す。

 「分かっていたけど……あの子は怒るとすぐに違う場所に向かうわね」

 深緑は困ったように言って食後に出されていた茶を啜る。宁浩然も彼女に同意するように頷いた。宁雲嵐も腕を組んで前を向かない。青鈴は彼らを前にして視線をあちらこちらへと動かした。

 「あたし、麗文の所へ行ってきます」

 「場所は分かるのか?」

 宁浩然の問いに青鈴は大きく頷き、「行ってきます」とだけ言って宁麗文と同様に食間を後にした。


 一人になった宁麗文は少し薄暗い邸宅の裏庭で一本の大樹の下で座り込んでいた。ここは彼のお気に入りの場所で、嫌なことから逃げたり、一人になりたい時に訪れて、下で身を隠すように顔を膝に埋めて座るのだ。

(なんで皆、私を外に出してくれないんだ? 絶対ここにいるより楽しいことが見つかるのに)

 宁麗文は深く溜息をついて顔を更に埋める。そうしてしばらく熟考して目頭が熱くなった頃に青鈴の声が飛び込んだ。

 「ほら。やっぱりいた」

 「青鈴……」

 青鈴は微笑んで宁麗文の隣に座る。宁麗文は顔を上げて顔を顰めた。

 「……慰めにきたの。それか説教?」

 「どっちも不正解。探しにきたのは合ってるよ」

 「なんだそれ」と宁麗文は心の中で少しの悪態をつく。しかし彼女の肩が彼の肩に触れた時の温もりに涙が出そうになった。

 「……ねえ、青鈴」

 「ん?」

 「なんで私だけ外に出るのはダメなのかな」

 疑問を一音ずつ声に出す毎に一瞬冷めた目頭がまた熱くなり始める。慌てて瞼を閉じて自身の膝に額を擦りつけた。

 「私だって、外に出たい。本だけの世界じゃもの足りないよ。皆からは身体はまだ弱いって思われてる。それがすごく、すごく……辛いし苦しい。本当は、本当にもう一回も風邪も何もひいてないんだ。だから……だから、少しだけでも家から離れて……外の景色を眺めたい。家で食べたもの以外のいろんな食べものも食べたい。たとえ行く途中で何かがあったとしても……私の行く道なんだから、誰にも止めてほしくない。そういうのはわがままなのか? 私だけ願っちゃダメなのかよ」

 青鈴は何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。彼女の視線は目の前にある草花を向いていて、一向に彼を見なかった。宁麗文は次第に泣き始め、嗚咽を漏らしながら小さく恨み言を呟く。そしてその恨み言が小さくなっていった頃に鼻をすすりながら頭を上げた。

 「青鈴」

 「何?」

 「君は……わた、私を外に出し、……っず、てくれる?」

 青鈴は眉を上げながら宁麗文に顔を向ける。すぐに顔を身体の向く方に正して首を傾げた。

 「さあ。どうだろうね」

 「君も皆み、……たいなことを、言うのか?」

 「あたしの気分次第よ。あたしがいじわるなの、麗文は知ってるでしょ」

 「……うん。母上たちの前では、猫被ってる」

 「ちょっと! そんな嫌なこと言わないでよ。心外なんだけど」

 青鈴は肩を揺らして宁麗文を小突く。宁麗文は肩を揺らされて一度鼻をすすった。

 「事実だろ。それに、先生に嘘をついて屋根の上で昼寝もしてた」

 「いつの話よ! あれはいつもより早く授業が終わって暇だったから昼寝してただけ! あんただって嫌になったらここに来るくせに。……いや、今来てるんだった」

 青鈴は暗い空を見上げて息を吐く。宁麗文も続けて空を仰ぐ。視界の端には大樹の葉も映っていた。宁麗文は赤くなった鼻で息を思いきり吸って口で吐いた。そんな様子を見ていた青鈴が彼に顔を向ける。

 「落ち着いた?」

 「うん」

 青鈴は口角を上げ、目を細めながら「そっか」とだけ呟き肩をまた揺らして小突く。何度も小突かれた宁麗文は眉を下げながらも彼女と同じ行動を起こした。

 「でも、あたしも麗文が外に出られたらいいなって思ってる。うん、出て、いろんな景色とか、ここじゃ味わえない美味しいご飯とか。……麗文が気に入るような、そんなものがあるといいな」

 青鈴は視線を遠い邸宅に向けながら風に願いを浮かべる。宁麗文も一緒に邸宅を見つめた。

 「……さっき、皆みたいにケチつけてなかった?」

 「してた。けど、よくよく考えたら自分の思いは人に押しつけちゃダメだって分かったの。ダメよね、そういうの。ごめんね」

 宁麗文は首を横に振る。彼らより少し離れた邸宅は柔らかい灯りを暗闇の中で所々に浮かべている。昔から見慣れているその灯りは何があっても安心できるようにと術で張り巡らされている。宁麗文はそれを聞いた当時はなんて素晴らしいものなんだと感嘆していたが、今の彼にとってはある一種の呪いだと嫌忌している。

 「麗文はさ、ここから出たら何をしたいの?」

 「私は……」

 青鈴の言葉を紡ぐように口を開いた瞬間、一つの水滴が彼の頬に当たった。二人で空を見上げるとその水滴はやがて多くなり、雨が降り始めた。宁麗文と青鈴は慌ててその場から離れ邸宅の中へ入った。

 既に湿っていた草花の上を走っていたせいで少し濡れてしまった裾を手拭いで水分を拭き取る。丁度通りがかった家僕が宁麗文と青鈴を見て踵を返し、戻ってきた頃には一人分の大きい布を二枚畳んだ状態で持ってきていた。宁麗文と青鈴は互いに顔を見合わせて噴き出し、家僕から布を貰って肩に掛けて廊下に足を伸ばす。二人並んで歩く彼らは何も言葉を発さず、しかしどちらも前を向いている。宁麗文は足音だけが聴こえる道の中でぼうっともの思いにふけていた。

 そして宁麗文の部屋──『無名むめい』に着き、青鈴が彼の背中を軽く叩く。

 「いつか出られるわよ。あたしも手伝う」

 肩に大きな布を羽織った彼女は目を細め、宁麗文に言葉を投げる。彼も息を深く吸い、浅く吐いてから頷いた。

 「ありがとう」

 「お礼はいいわ」

 彼女と軽く言葉を交わした宁麗文が無名に入ろうと戸を開けて足を一歩踏み入れる。その時に一瞬だけ目線を青鈴に向けた。彼女は背中を向けたまま自身の部屋に戻ろうとしていて、浅葱色の布を頭まですっぽりと被っている。それを見た宁麗文はつい微笑んで、青鈴を廊下の曲がり角まで見送ってから視線をつま先の向く方へ見上げて中に入った。

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