一 宁麗文という男(2)
最後の板が音を立てた頃に宁浩然は息を吸った。
「近頃、とうの昔に絶滅したと思われた凶鶏の目撃情報が多発している」
また客間の中が騒がしくなる。宁浩然は「静粛に」とただ一言、低く場を制した。
「最初の目撃情報は半年前。ここから数里離れた、百五十人程の村で耕作している村人からの情報だ。しかし、影は一瞬のもので本当に凶鶏であるかは不明。村人たちは熊やイノシシだろうと決めつけていて特に気にしてはいないらしいが、安全のために現在は江陵宁氏が警備をしている」
邪祟には三つの分類にまとめられている。第一に『魔』、第二に『妖』、そして第三に『獄』。妖は魔より強く、獄は妖に強い。ただ、今の時点で獄に関する話題はなく、ほとんどは魔でありたまに妖の報告が出る。
凶鶏という邪祟は魔にあたり、いわゆる低級邪祟だ。凶鶏は知識に飢えた怨念が集合し、知識を得るために鶏の姿へと変化した。そして、珍しく繁殖する邪祟であり、人目につかない渓谷で生活をする。今回の村で発見されたのは、まだ見ぬ渓谷からのものだろう。
凶鶏は全身が黒く、目玉は紫色だ。雛鳥の時点の体長は成人男性の平均的身長とほぼ同じで、成鳥はその二、三倍もなる大きさになる。もし村で影を見かけたというのなら、それは雛鳥だ。仮に親だとすると規格外の大きさなのですぐに気付くだろう。
「これに関しての世長会を開いた理由は五つ目の報告に当たる」
これに神呉湯氏の宗主である湯連杰が口を開く。
「なぜ五つ目の報告で動くことになったんだ?」
「それについては後で話す。質問は後ほどまとめて答えるので、今は報告に集中するように」
宁浩然は湯連杰に向けて威圧のある、冷たい言葉を吐き捨てて巻物に目を向ける。湯連杰は決まりの悪い顔をして腕を組んで顔を顰めた。
(父上……珍しく不機嫌だな……)
宁麗文は江陵宁氏の座席でまだ苦笑を浮かべる。その隣にいる宁雲嵐は彼を横目で見て自身の肩で彼の肩を小突いた。
「なんて顔してるんだ」
「だって父上があんな顔してるの初めてだからさ」
「いつもああいう顔してるぞ。俺たちの前ではあんな顔しない」
「そうなの?」
宁雲嵐は腕を組みながら頷き、顎で宁麗文を前に向かせた。宁麗文も肩をすくめて仕方なく前を向く。宁浩然の眉間に皺を寄せた横顔を見ながら目撃情報について頭の中で整理をしていた。
「三つ目の目撃情報では、犠牲者が数人多発している。場所は埜湖森で頭部がない遺体があった。凶鶏は自身の能力を高めるために頭部を捕食する習性がある。それにより調査結果は凶鶏と判明した。しかし、足跡はなく行方は分からないので、こちらも併せて調査中である」
「四つ目の目撃情報では狩人と狩猟犬が行方不明となり、彼の親族が楠塔森にて遺体を発見した。その際に捕食していた雛鳥も発見したため、すぐに森を出てこちらへ報告した。雛鳥は森から出ていないので現在は立ち入り禁止区域として楠塔森を封鎖している」
宁浩然は一息ついて再び口を開く。
「そして最後の目撃情報だが──」
「失礼」
声を高らかに上げて起立した男を、宁浩然を含め全員が彼に顔を向けた。その男は全身黒づくめであり、所々に金や臙脂が見える。髪を臙脂色の厚い髪紐で高く結い上げており、全体的に凛々しく見える。宁麗文は彼のそのまっすぐな姿勢に見とれていたと同時に二つの不思議な感覚がした。
(父上が言うには世長会では若者のみの出席はない……じゃあ、あの人はどこかの宗主なのか?)
「なんだ。まだ報告は済んでいない」
男は宁浩然の言葉に拱手をする。
「話の腰を折るようで申し訳ありません。私は洛陽の三男、姓は肖、名は寧、字は子涵です。その最後の情報提供については私めから発言してもよろしいでしょうか」
(三男だって⁈)
宁麗文を含めた他の宗主やその子供たちがどよめく。世長会では宗主とその長男を連れて出席するもの。宁麗文も参加するにあたって予め宁浩然から聞かされた。しかし、この男──肖子涵は例外だった。洛陽肖氏からの出席者は珍しく宗主である肖関羽はおらず、肖子涵しかいない。彼はその戸惑いと困惑の渦の中心にいながらも、涼しい顔をして宁浩然をまっすぐと見つめていた。
宁浩然は瞼を閉じて木の巻物を片付ける。目を開いて席を立ち、肖子涵に拱手した。
「それもそうだ。最後の報告はそちら、洛陽肖氏が担当したもの。申しなさい」
「ありがとうございます。では本題に入らせていただきます」
肖子涵は自分の席から離れて宁浩然の前──客間の中心に立つ。宁麗文は彼のその立ち振る舞いをただ見つめるだけ。彼は突然宁麗文に顔を向け、宁麗文は驚いて咄嗟に顔を背けて愛用している扇子で隠した。
(なんで急にこっちを向いたんだ!?)
扇子から少しだけ目を彼に向けると、肖子涵は宁浩然の方に向き直していた。宁麗文は安堵の息をついて傾けかけた扇子を閉じる。急に扇子を広げた様子に他の宗主たちは怪訝な顔をしていないかと確認すると、誰もが肖子涵に夢中になっているようで胸を撫で下ろした。
「最後の目撃者は洛陽に住む者でした。彼女は商品のために天河へ仕入れをする際に、凶鶏が魚を捕食していたところを目撃しました。それを私たち肖氏に報告を届け、現場へ出向かうと百を超えた魚の頭のみ捕食された状態で見つかりました。彼女曰く体長は約一里であり、黒い羽毛に紫眼、そして人の声を真似ていたと」
「人の声!?」
宁麗文は驚いて声を出してしまい、宗主らの興味は今回が初めての出席になる彼に向けられた。宁麗文は「やば」と心の中で青ざめながら苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて扇子で顔を隠す。
「はい。人の声です」
肖子涵はそれを気にもとめない様子で返答する。宁麗文は仕方なく扇子を閉じて軽く咳払いをした。
「……本来、凶鶏はものを真似る習性はなかったはずです。それは過去の、それこそ絶滅した直前も前例はありませんでした。これまでの目撃情報に関しても一言も人を真似る声を聴いた者がいないということは、その女性は嘘をついている可能性はありませんか?」
「おい、麗文」
思わぬ弟の言動に苦い顔をする宁雲嵐の肘がまた彼の二の腕を突いて、頭を後ろから押し倒して二人で頭を下げる。
「すまない、俺の弟が失礼なもの言いを申した」
宁麗文は後ろから襲われる彼の手に頭にきながらも下げられ、二人して顔を上げる。肖子涵はそれに小さく返事をして首を横に振った。
「確かにどの書物を照合してもそのような事例は全くありませんでした。彼女のうわ言の可能性もありえますが、問題はそこからです」
「というと?」
「天河を捜索している際に弟子の一人が声を聴いたと報告をしました」
その事実に客間はどよめいた。何度もどよめくのは世長会では珍しいらしく、宁浩然は指で眉間を揉んでいる。宁麗文と肖子涵だけは周りを気にせずに淡々と問答を進める。
「それはなんと?」
「『助けて』と『殺さないでくれ』。この二つの言葉が何度も繰り返し叫ぶように鳴いていました。私も聴いて確かめたところ、巳の方角から聴こえたので、恐らく天河の近くの瑚雀森に親がいるのだと思われます。この件は続けて洛陽肖氏が担当いたします」
「助けて、殺さないでくれ……」
(これはきっと、今まで被害に遭った彼らの遺言だろう)
宁麗文は閉じた扇子で顎を軽く擦って「父上」と宁浩然に声を掛ける。彼も声を掛けた息子に顔を向けた。
「私も彼と調査をします」
「は」
宁麗文の父、兄、母は皆、口を開けて唖然とした表情で彼を見た。肖子涵と他の宗主らは彼らのその行動と表情に理解が追いつかず、客間はしばしの静寂が訪れた。
(あれ?)
宁麗文は家族の信じられないといった表情をそれぞれ見て、そして肖子涵を見た。肖子涵は首を少し傾げながら彼を見つめ返す。
(……なんか、やな予感がするんだけど)
これから起こってしまいそうな、めんどくさい予感に、彼は口元をひくつかせながらそう思った。