三十六 酒の乾酪割り(3)
休み休み歩いて数刻経った頃に村に着く。今年の雪は少ないようで、地面が見えていた。宁麗文は肖子涵の外衣から出て共に歩く。万燈実と亞夢がいた民家の戸を叩くと亞夢が出た。
「亞夢。久しぶり」
しかし、彼の顔はもの憂げなものだった。肖子涵と宁麗文は首を傾げていると、彼が泣きそうな顔で「助けてください」と呟いた。それに只事ではないと勘づいた二人は亞夢と一緒に中に入る。
炉には炭が置かれていて、火で部屋が暖まっている。見回してみると彼の隣にいるはずの万燈実がいない。亞夢は震える身体で茶を取りに厨房へ向かおうとして、肖子涵がそれを止めた。
「茶はいらない。何があったか話せるか」
彼の言葉に亞夢は眉を顰めて口を噤む。瞼を震わせてから頷いて、三人共に席に着いた。
「……燈実が、来ないんです」
「万燈実が?」
宁麗文が声を出して、そして肖子涵に目配せをする。次に肖子涵が「いつもはどのぐらいの時期に来るんだ」と問う。
「いつもは、風が強くなりかけた頃に来るんです。先週ぐらいから天気が悪くなるくらいで、大体そのぐらいに。でも、先週から待っても一向に来なくて。僕が外に出たら入れ違いになっちゃうから、出られなくて……」
「雪が積もるとかは関係ないの?」
亞夢は首を横に振る。どうやら万燈実は自分で天候を読んでから来るらしい。それが雪が降っていない日でも関係ないのだろう。亞夢は卓の上で指を震わせながら重ねる。
「燈実、どうしたんだろう。どこかで怪我でもしたのかな」
段々と青ざめるその顔に宁麗文も神妙な顔をした。この頃は怨詛浄化の依頼もなく、邪祟も出ない。なのに万燈実が来ないとなれば、秋頃までに彼の身に何かがあった可能性が高い。
肖子涵は懐から札を取り出して卓に置いた。瞼を閉じてそれに指を這わせて霊力を注ぐ。宁麗文はそれが伝達術だと分かった。少し待って、札が塵となっても指を離さない。肖子涵は眉を顰めてゆっくりと瞼を開けた。
「……返事がない」
それに亞夢は息を詰まらせ、青ざめた顔は一気に黒くなって頭の中が凍えてしまって何も言えなくなってしまった。やはり、万燈実の身に何かがあってしまったのだ。彼の様子に気付いた宁麗文が席を立って気分を落ち着かせるために彼の傍に片膝を立てて背中を擦る。亞夢は過呼吸を起こしていて、胸元を握り締めながら背中を丸くしていた。。肩から髪を落としてしまっても直す余裕がなかった。
「亞夢。亞夢、ゆっくり息を吸って」
亞夢は隣にいる彼の言う通りにゆっくりと息を吸い、そして吐く。それを数回繰り返してようやく落ち着いた。
「伝達術は送る人が生きていればすぐに届くし、死んでいたらそもそも届かない。肖寧、使った時の感覚は?」
「少なくとも、生きてはいる」
「そっか、それならいいんだ」
宁麗文は亞夢の背中を擦るのをやめて立ち上がる。
「今から唐厭に行こう。万燈実がどうしてるかも分からないし、亞夢はずっと心配してる」
肖子涵はそれに賛同するように頷いて席を立つ。二人で外に出る戸の前に立つと、亞夢が急に立ち上がった。
「ま、待って! 僕も、僕も行きます」
「え」
それに思わず声を漏らしたのは肖子涵だった。宁麗文は頭にはてなを浮かべており、彼に亞夢が妖だと言っていない肖子涵はすぐに口を噤む。
「わ、分かってます。ここから燈実がいるところまで、結構距離があるってことは。お二人のようにそんなに身体が丈夫でもないし、多分、どこかで倒れると思います。……けど、けど。燈実が心配なんです。このまま待ってたら、どうしようもできなくなる。だから、だから連れてってください! お願いします!」
亞夢は目尻に涙を溜めながら二人の前で頭を下げる。宁麗文は慌てて頭を上げ、隣にいる彼を見上げる。声を上げてしまった肖子涵は瞼を閉じて息を吐いて、少し息を吸った。
「分かった。御剣で行けばそれほど時間は掛からない」
「本当ですか!?」
彼を見た亞夢は顔を明るくする。肖子涵は頷いて、戸に手を掛けた。宁麗文は亞夢に身支度をさせて、そして手を繋いで外に出る。
亞夢を乗せた肖子涵と宁麗文は御剣で唐厭へ向かう。風は強くはなっていたが、二人が村に着く時よりかは収まっていた。半時辰ほどして唐厭の門の下に辿り着いてそれぞれ剣から降りる。初めて世家の門の前に来た亞夢は酷く怯えていた。
「亞夢、大丈夫だ。万燈実は必ずいるはずだよ」
亞夢が怯えている本来の意味を知らない宁麗文は彼を落ち着かせる。彼の震えが少し止まった頃に三人は門の下をくぐり抜けた。
町の中は至って普通だ。誰もが日常を過ごしていて、ちっとも焦りや戸惑いを見せていない。しかし、それが亞夢の焦りを際立たせている。宁麗文と肖子涵は急いで彼と邸宅へと向かう。
その途中で人々は悲鳴を上げ始めていた。宁麗文は辺りを見回してみると、どうやらその悲鳴の向き先には亞夢がいる。どういうことか肖子涵を見ても、彼は気にせず向かっている。亞夢は顔を引き攣らせながら二人に着いていくばかりだ。
(なんだ? 何が起こってるんだ?)
宁麗文は半ば混乱しながらも目的地に急ぎ、三人はようやくその門の前へ辿り着いた。
門は閉ざされており中の様子は分からない。肖子涵が門の輪を取って数回叩くと、中から家僕が迎え入れた。しかし、亞夢を見た瞬間に宁麗文と肖子涵だけを入れて彼だけを外に突き放した。
宁麗文は驚いて振り返る。家僕は平然とした顔で門に閂を差してどこかへ行った。慌てて閂を取って亞夢を中に入れる。
「なんで亞夢だけ酷い態度ばっかり取られるんだ?」
宁麗文の疑問に亞夢は俯いて何も言えない。肖子涵はその真実を知っているが、今はそれどころではないと判断して何も言わなかった。宁麗文だけ怪訝な顔をするしかなく、とりあえずと万燈実を探しに向かっていく。
どこに行っても万燈実は見つからず、家僕がいれば亞夢を徹底的に排除しようとする。宁麗文はその度に彼らを押さえて亞夢を守りながら進む。亞夢は段々といたたまれなくなり、今にも死にそうな顔をしていた。肖子涵は彼の顔を見ても尚、何も言わない。二人は万燈実を呼びながら歩いて、一部屋一部屋と確かめる。
そして残り少ない部屋と書室と客室まで足を進めると、書室から怒号が鳴り響いた。三人は互いに顔を見合せて近くの壁に耳を寄せる。
「な……や……! お……!」
「なんて言ってるんだ?」
小声で宁麗文は肖子涵に問う。肖子涵も「分からない」と答えて目を細めながら集中する。何を言っているか分からなくても、その声の持ち主は万燈実だとは分かっていた。亞夢は下唇を噛み締めて、今にも泣きそうな目で急に飛び出す。二人は驚いて手を伸ばそうとも、亞夢はその手たちを振り払って書室の戸を開けた。
「……亞夢!? おま、お前!」
そこにいたのは唐厭万氏の宗主である万克勤と剣を佩いている万燈実だった。しかし、万燈実は酷く青ざめた顔で亞夢を見ている。万克勤は彼を見て心底軽蔑するような目つきをしていた。
「お前が亞夢と言うのか」
亞夢はその目に怯えてしまうがすぐに万燈実を連れて外へ逃げ出す。引っ張られた万燈実は目を丸くして、ただただ彼の行く先に着いていくしかなかった。宁麗文と肖子涵は呆気に取られ、万克勤を見てから二人を追う。四人の背に万克勤が高らかに声を上げた。
「総員! 妖を浄化せよ!」
宁麗文はそれに驚き、亞夢を見る。
「亞夢が、妖!?」
「そうだ」
彼の隣を走る肖子涵が頷く。宁麗文は先に知っていたことに衝撃を受けた。
「いつから知ってたんだ?」
「あの家に来て一目見てから」
「妖なんてすぐに分かるわけないだろ!? 人間に擬態してたら、害がある時以外に見破られるなんて無理だろ。なんで分かったんだ?」
「今はそれどころではない。二人を守るぞ」
気付けば宁麗文と肖子涵の後ろには唐厭万氏の門弟が走ってきていた。二人は後ろを振り返って足で急停止し、それぞれの剣を抜く。
「殺すなよ」
「言われなくとも」
宁麗文と肖子涵は共に一歩踏み出し、真っ向から向かってくる門弟たちへと立ち向かった。
それを背にした万燈実と亞夢は、互いに顔を青くしている。
「や、亞夢、なんでお前、ここに来たんだよ!?」
「だって、燈実が心配だったから! いつまで経っても来ないから!」
亞夢は目に涙を浮かべながら、拭おうともせずに邸宅の門の下をくぐり抜ける。町は亞夢を見て恐れおののいて道を開いた。万燈実は周りを見て信じられないと顔を引き攣らせる。
「亞夢。お前だけ帰れ。俺は、俺は後で行くから」
「嫌だ! 燈実と帰る。僕は、僕はその為だけに来たんだ!」
万燈実はその言葉に強く胸を締めつけられた。奥歯を噛み締めて、頭を強く振ってから共に走り出す。佩いた剣を鳴らしながら、防寒具も着ないで亞夢の掴んでいる手をしっかりと握って脚を進める。
そして、唐厭の門の下をくぐり抜け、吹き荒れる強風の中を駆け抜けていった。




