三 華伝投(3)
戸を閉めた肖子涵は彼の顔をよく見ては首元に手の甲を押しつける。宁麗文は突然の行動に身を硬くしたが、熱を確認しているのだと分かった。
「大丈夫。熱は出てない。ただ、緊張しすぎただけなんだ。君のせいじゃない」
彼に添えられた手の甲を優しく剥がす。肖子涵は心配そうに眉を顰めながら「あの夜に俺一人で台所に行けばよかった」と自身に憤りと後悔を感じている。
「君だけで台所に行ったら迷子になっちゃうだろ。ここに住んでる私か、それともここに仕えてる他の人に聞かなきゃ。……あ、それだったら私たち以外の人に渡せばよかったな」
先程の自分のようだと宁麗文は少し笑う。理由は違えど、自分に感じる怒りの度合いは同じらしい。そのまま二人は前夜のように卓を囲んで座った。
「ところで肖寧。君はいつ華伝投の会場に来たんだ? 舞台の上に乗ってから探したんだけど、どこにもいなくて」
「ここの者から時刻を聞いた。客室にいると呼んでくれたんだ」
「まだ家に人がいたんだ」
肖子涵は頷く。
「でも私が自己紹介をして始まった頃にはもういたよな。すぐには辿り着かないと思うんだけど。走ってきたのか?」
「御剣で来た」
「御剣? 御剣って、あの剣に乗るやつだよな?」
「ああ」
宁麗文は修士ではあるが、今までに一度も御剣をしたことがなかった。それは遠くへ行く機会がないだけで、家の中でやっても仕方がないだろうと諦めていたのだ。肖子涵は彼の呆然とした顔に首を傾げる。
「……御剣をしたことは?」
「ないよ。一度もない。いつかできたらいいなって思ってるだけで、一回もやってないんだ」
肖子涵は顔をやや俯かせて黙る。この程度のものはできないなんて修士として恥ずべきものなのだろう、と宁麗文は少し落ち込む。肖子涵は顔を上げて「なら」と口を開いた。
「あなたの体調が回復したら、練習に付き合おう」
「え?」
宁麗文は思いがけない言葉に思わず声が漏れる。肖子涵は彼の返答に眉を下げた。
「ダメだったか?」
「あ、ああ、いや、違うんだ。まさか兄上とか父上とか、家族以外に練習を見てくれる人がいるとは思わなかったから……うん、よろしく頼むよ。君に見てもらえるなら頑張って治す」
宁麗文は意気込みを見せるように両手で拳を作る。その頃に戸が叩かれ、「阿麗」と深緑の声が飛び込んだ。
「母上」
肖子涵は彼の顔を見て「俺はしばらく江陵に滞在する。竹桐という宿で待っているから、治ったら来てほしい」とだけ残し、席を立つ。宁麗文も彼に続いて立ち、肖子涵が戸を開ける手を見ていた。
戸を開けられ、中から息子ではない人間が出てきたことに深緑は驚いたが「すみません」と肖子涵が拱手をして脇を通って行くのを見届けた。彼女は入れ違うように無名に入って卓に粥を置いた。
「あの方が、確か……」
「洛陽肖氏の肖子涵殿です」
深緑は溜息混じりに「そう」とだけ返し、宁麗文を呼んで卓の前に座らせる。彼に椀に入れられた粥を渡す。
「ありがとうございます」
「おかわりがいるなら言ってね。余分に作ってしまったからまだ余ってるの」
「はい」
粥を湯匙で掬って一口食べる。昔から風邪や何かしらの軽い病に罹ったときに必ず食べるものだ。宁麗文は一つ息をついて身の中心から温かくなるのを感じる。一口、また一口と食べ進めて深緑におかわりを告げた。彼女はにっこりと微笑んで空になった椀を持っていく。帰ってきた頃にはまた粥が入っていて、宁麗文はそれを食べるの繰り返しを数回した。
「これだけ食べられるなら、明日には治るわね」
「はい」
「それはそうと、さっきは彼と何を話していたの?」
急に肖子涵との質問を投げかけられ、食べかけていた粥を少し噴き出す。幸い椀の中に散っただけなので周りを汚すことはなかった。宁麗文は咳を数回して動揺しながら椀と湯匙を置く。
「……彼が見舞いに来てくれたので、少し世間話をしていただけです」
「そう。二日前の華伝投のときにもいたわね」
「はい」
(なんだ? 母上は肖寧のことを私の友人だって認めてないのか?)
背中に冷や汗を途切れなく流しながら深緑の口から紡がれる言葉を待つ。しかし、彼女は口を開くことなく視線を横にずらした。宁麗文はその態度に驚き、また椀と湯匙を手に取って最後の一口まで食べきる。
「もうお腹いっぱい?」
「は、はい」
「そう。なら後は片付けておくわ。しばらく休んでいてちょうだい」
深緑は宁麗文の頬を掌で撫でて、椀と湯匙を回収して無名を立ち去った。宁麗文は彼女が去った後も疑問に満ちた顔をしていた。
(母上は何を聞きたかったんだろう)
「まあいいか」
寝台に寝転んで布団を身体に掛ける。温かい粥のお陰でか身体はまだ温かった。しばらくすると睡魔が宁麗文を襲い、為す術なく瞼が閉じられた。
それから数日経った頃、宁麗文は肖子涵のいる竹桐という宿を目指した。そこは他の宿よりも大きくて目立つらしい。
歩く道先で彼は様々な人に興味津々、好奇心に駆られた視線に包まれていた。華伝投でのあの光景を思い出して今更ながら歩くこと自体が恥ずかしく思う。なるべくその視線から逃げるように足早に宿へ向かった。店内に入れば向こうの卓に肖子涵の背中が見えた。宁麗文は彼の元へ歩を進めると、あと一、二歩のところで肖子涵が後ろを振り返った。彼は数日前に羽織っていたはずの赤くて分厚い外衣を肩に掛けていなかった。こうした姿の彼は髪も目も合わさって全体的に黒く、金と臙脂がなければ暗闇に浮かび上がることも困難だろう。
「肖寧。遅くなってごめん」
「構わない」
肖子涵は席を立って卓に銀貨を置いて二人で外へ出る。相変わらず人々は宁麗文をちらちらと顔を輝かせたり赤らめたりと様々な表情で見ていた。宁麗文は懐から扇子を取り出して開いてから口元を隠す。やや伏し目がちになりながら顔を真っ赤にしつつ、肖子涵の隣で歩いていた。
「なぜ顔を隠すんだ?」
「恥ずかしいからだよ……華伝投での私の言ったことを聞いただろ。今思えばあんな恥ずかしいもの言いは初めてだ。何も打ち合わせなんてしないであんなことを言ったのは……なんていうか……自分でもすごいなって思ってるんだよ」
口元を隠しながら肖子涵の顔と地面を交互に見る。肖子涵は「そうか」とだけ返して歩く方に前を向いた。
「そういえばどこで練習を見てくれるんだ?」
宁麗文は顔を扇子で隠したまま、肖子涵に行き先を聞く。
「江陵から出た森の中に。少し歩くが、開けた場所がある」
「そっか。今日はずっと晴れそうだから、早く行こう」
町を端まで歩けば門が見える。そこから外へ踏み出した宁麗文は扇子を閉じて懐に入れた。整備されている道とそうでない道の境目ははっきりと分かれており、その先からは森や河などの自然が姿を現していた。宁麗文は胸を高鳴らせながら息を吸う。
「すごく綺麗だ」
肖子涵はそんな彼を見てからまた前を進む。宁麗文も彼に続いて歩き出し、森の中へと入っていった。




