三十三 噂(2)
「わあっ!?」
ほぼ空になった嚢を片手で握り締めながら身ごと肖子涵に乗ってしまった宁麗文は顔を上げる。すぐ近くに彼の顔があって不意に唇を見てしまった。瞬く間に熱くなって引っ張られている手を振りほどこうとするが、肖子涵は更に力を入れて固く握った。
「ご、ごめんなさい! わざとやりました! だから離して!!」
目をぐるぐると回して懇願する宁麗文に肖子涵は頬をぴくぴくと動かすだけで何も言わない。宁麗文の嚢を持った手は彼の太ももに乗ったままで、引っ張られているもう片手は疲れて力が入らなくなり始めた。いくら振ろうとしても無駄で次第に泣きそうになる。
(な、なんでまたこうなるんだよお!)
次第に嗚咽が漏れ始めて宁麗文はそのまま俯く。その上で肖子涵は息を吐いて引っ張っていた方の腕を下ろす。宁麗文はもう力をなくしたようで、山査子の砂糖漬けを持ったままその場で寝そべった。
「もうやらないか?」
「やりません! もう二度とやりません!!」
「ならよし」
肖子涵は宁麗文の手から砂糖漬けを取って自分の口の中に入れ、彼を抱き起こしてそのままあぐらの中に入れる。入れられた宁麗文はまた近くなった彼の唇を見て耳まで赤くなった。慌ててそっぽを向いてもそれでも赤みは取れずに嚢を近くに置いて俯いたまま瞼を閉じた。
「……少し前から疑問だったんだが」
肖子涵は彼を見下ろしながら続ける。
「なぜ近くなった時に顔を逸らすんだ?」
「……」
宁麗文は正直に言いたくなった。
だって君の口を見たら口付けのこと思い出しちゃうんだもん! 近付いてまともに見られるわけないだろ!!
しかし、これを肖子涵に言ってしまえばどうか。彼のことなのだから、きっと「そんなことで」だの「しょうもない」などと返すだろう。それはそれでありがたいとは思うが、反面では悲しいなどと思ってしまう。
肖子涵はいつまで経っても答えない宁麗文に痺れを切らして眉を顰めながら彼の顎を掴んで上げる。急に上げられた宁麗文はその真っ赤な顔で瞼を開けてしまって彼の双眸を見る。力の戻った両手で彼の腕を掴んで離そうとするが、肖子涵はそれに応えずに更に力を込める。
「宁巴」
「うっ……」
顎を引くこともできず、逸らすこともできない。視線をなるべく合わせないようにもできるが、なぜかそうすることもできなかった。宁麗文は徐々に大きくなる心臓の鼓動に死んでしまいたくなってきていた。肖子涵の手が顎から両頬へと滑らせて指で掴む。少し開いた口で宁麗文は小さく呟いた。
「あ、あとで、後で言うからっ……顔近い……」
「今言って」
「む、無理っ! 死にたくなるから!」
その言葉に肖子涵は微かに身体を強ばらせた。次第に眉を下げていき、終いには怒られて反省している犬のような顔になる。
宁麗文は自分の目を疑った。先程までは怒りを表していた肖子涵が、今では悲しみに暮れている。いつもは大勢に混じっていてもほとんど平然としている彼が、宁麗文の前だけでは感情を露わにしている。そんな彼に宁麗文はわけが分からなくなって両手で顔を覆った。そのまま彼とは逆の方向へ身体を向けて彼の頬を掴んでいる手を解く。肖子涵はそれを見て瞼を伏せて口をへの字にした。宁麗文は起き上がることもせずにそっと両手の隙間から彼を見上げた。月の光を半分ほど遮っている肖子涵の顔はまだ淋しそうな顔をしている。
「あ、あのさ……」
宁麗文は地面に手をつけて起き上がってまたあぐらの中で座る。地面の砂利を払って気まずそうな顔をした。
「ね、寝よう……?」
「……ああ」
肖子涵は彼をあぐらから下ろす。名残惜しそうな手で下ろされた宁麗文もまた、少し淋しいと感じてしまった。
それから二人は火が消えるまで菓子をある程度食べ、寝る支度をして肖子涵の外衣で暖を取りながら寝る。二人は互いに背中を向けてはいたが、それも淋しくなった宁麗文は寝返りを打って彼の背中に額を押しつけた。
肖子涵と顔を合わせれば嬉しいと恥ずかしさが入り混じるが、顔を合わせなければ淋しさが募る。宁麗文はこのもやもやする気持ちが何なのかが分からなかった。
(もっと触れたいと思うのは、なんなんだろうな)
彼の外衣を少し掴んでまた近付いて、そのまま瞼をゆっくりと閉じた。
少し薄明るくなった頃に肖子涵の瞼が上がる。背中に温もりを感じて寝返りを打てば、宁麗文がこちらに身体を向けていた。小さく寝息を立てながら眠っている彼に躊躇いがちに手を伸ばす。耳の前に垂れていた髪が擦れて頬に流れているのをそっと直す。指の腹が宁麗文の頬に触れてしまったが、彼はそれに起きることもせずに緩やかに微笑む。肖子涵は下唇を噛んでたまらない気持ちになってまた頬に触れた。慈しむように、愛おしく思いながらも何度も頬を掌で撫でる。微かに身じろいで身体を宁麗文に寄せた。
ずっとこのままでいいと願ってしまっていた。初めて逢ってから護りたいと決めていた。それが例え、彼が嫌だと反発しても、彼が自ら死地に向かおうとしても、肖子涵は護りたいと強く望んでいた。
「宁巴」
小さく彼の名前を呼ぶ。宁麗文はまだ夢の中にいるようで応えなかった。それでもいい。
「宁巴」
瞼を伏せてまた頬を撫でる。彼の名を呼べるのはあと何回だろうか。
どうか願わくば、俺の隣にいてほしい。
俺はあなたを護って死んでしまっても構わない。
あなたの隣にいさせてほしい。
肖子涵は彼の頬を撫でるのをやめた。
宁麗文が目を覚ました時、身支度を終えた肖子涵は背を向けて火を起こしていた。外衣に包まれたまま、ぼやけた頭で「おはよう」とふやけた声で呼ぶ。肖子涵も声に気付いて振り返ってから「おはよう」と返した。
「ご飯、狩ってきたのか?」
「ああ」
火の近くには鶏が焼かれていた。宁麗文はそれを見て盛大に腹の音を鳴らして真っ赤な顔になって肖子涵の外衣にくるまりながら起き上がる。少し乱れた髪を手ぐしで整えて髪飾りを着けた。彼の外衣を綺麗に畳んで近くに座って渡し、肖子涵は礼を述べてそれを受け取る。鶏がよく焼けたところで二人は朝餉を食べた。
火を消して剣を佩く。肖子涵が掛けた守霊術を破ってから洞窟を出た。森の中を歩いていき、次は唐厭へ目指す。
「唐厭って確か、冠婚葬祭が特徴の世家だったよね。特に葬儀の店が多いんだっけ」
「そうだ。昔は多かったらしいが、今はそうでもないらしい」
「なんで?」
宁麗文は森の木々を眺めてから彼を見る。肖子涵はただまっすぐ前を向いていた。
「各世家に店が展開されていって、わざわざ唐厭に行かなくて済むようになった」
「あー……。確かに江陵にもあったな。じゃあ、昔は葬式があったらわざわざ言いに行かなきゃいけなかったのか」
肖子涵は頷く。
「伝達術は修士しか使えないから、それ以外の人たちは直接唐厭に行くしかない。その間に山賊や邪祟に襲われて二次災害に見舞われることも多くなったから、各世家に店を置くようになったらしい」
「へえ。君っていろんなことをよく知ってるよな。そんな昔の話なんて、どんな本を見ても書かれてなかったし知らなかったよ」
肖子涵は瞬きを一つしてから「いろんな人の話を聞いているから」と返す。宁麗文はかつて、彼が男二人の間に割って話を聞いていたことを思い出して半ば呆れた。
「まあ、でも、知らないことを知るってのはいいことだ。知見が広がるし、知識も増えていく。自分がこれからどう行動するのかの指標にもなるから、悪いことでもないな」
宁麗文は腕を組みながらにっこりと笑う。肖子涵は彼を一目見てから視線を斜めに逸らした。
「知らなくてもいいこともある」
宁麗文は眉を上げて彼を見て、腕を下ろして怪訝そうに首を傾げた。彼はいつものように平然としていて、目の底も腹の底も見えない。
「なんで?」
「言葉の通りだ。知ってしまえば後悔するし、人を傷付けてしまうことだってある」
その答えにまた首を傾げて小さく唸る。やはり、彼はよく分からないと宁麗文は口を噤んでへの字に曲げた。
「もうすぐ森を抜ける」
肖子涵は臙脂色の髪紐を揺らしながら、拳を握ってそう言った。




