三十三 噂(1)
江陵から出てしばらく歩く。顔を赤くしたままの宁麗文は両腕で三つの嚢を持ちながら頭の中をぐるぐると回していた。飴のなくなった、肖子涵に舐められた掌を握っては開いてを繰り返して、それにまた彼の真っ黒の双眸を思い出す。
(本当になんなんだよ!? 琳玩の時といいさっきのといい、肖寧は私をからかってるのか? そんなの、私が何か勘違いしちゃったらどうするんだよ!)
宁麗文は今にも叫びたくなった。ただの、一番最初の友人だと思っていた肖子涵は、なぜ好きでもない甘い山査子飴を拒否もせず彼からもらって食べたのか。なぜ宁麗文の手に掛かってしまった、好きでもない飴を舐めたのか。懐紙を渡せば済む話なのに、なぜ渡さなかったのか。宁麗文は見当たる理由を探しても探しても見つからず、地面を睨みながら熱くなる顔をそのままにしていた。その後ろを肖子涵は着いていき、徐々に歩幅を広くして彼の隣に並ぶ。
「宁巴」
彼の名前を呼ぶと自分の方に顔を向けられて唖然とする。宁麗文は今にも泣きそうに、しかし怒りも感じられるような、形容しがたい真っ赤な顔で睨んでいた。
「なんだよ」
宁麗文は下唇を噛みながら見上げて、また前を向く。肖子涵は困ったように眉を顰めて気まずくなってしまった。やはり先程のは困らせてしまったのだろうかと後悔してもう一度名前を呼ぶ。
「舐めてしまって申し訳ない」
宁麗文はキッとまた睨んだ。
「本当にな!?」
頬を膨らませてずんずんと前を進んでいき、彼よりも速く進む。肖子涵は瞼を伏せてしばらく反省していた。
青天郷を抜けて半時辰よりも遅くなり、夕暮れに差し掛かっていく。空から流れる冷たい風は彼ら二人を包んでいき、宁麗文は身震いをしてくしゃみを一つした。鼻をすすると肖子涵がまた隣に並んだ。
「これからどこへ行く?」
「まだ決まってない」
また鼻をすすって荷物を抱えながら進む。ふっと身体が軽くなり、見上げれば見覚えのある森があった。
「……埜湖森」
ぽつりと呟いたのを聞く肖子涵は彼を見た。宁麗文も彼を見てまた埜湖森を見る。
ここには四年前に二人が遭った、凶鶏の雛がいる。そこからは陣が張られていて今はどうなっているかは分からない。
宁麗文はかなり苦い顔をしていたが、周りを見て薄暗くなっているのを確認する。口を下に歪めて肖子涵を見た。
「……ここで野宿する?」
肖子涵は彼を見てから森を見て、かなり遠い目をして嫌々ながら頷いた。
森の中を掻き分けて進んで洞窟の前へ辿り着く。進めば進むほど霊力が多くなっていくのが分かる。数ヶ月前に久しぶりに唐秀英と会い、自ら粗相をした恥ずかしさから茶屋から逃げた時も同じように感じていた。
「肖寧。ここ、なんか、身体が軽い感じがしないか?」
「する」
肖子涵は先に一本踏み出して洞窟の中を見探る。薄暗いその中は何も気配はない。少し振り返って彼を見てから前を向いて「行こう」と言った。宁麗文はそれに躊躇ったが、彼がそう言うならと着いていく。肖子涵が点火符で辺りを照らしながら進み、宁麗文はそれに着いていく。まるで四年前と同じだと宁麗文が頭の中でぼんやりと考えていると急に止まった彼の背中に鼻をぶつけた。
「いてっ」
「すまない」
宁麗文は彼の背中から顔を覗かせる。四年前にはあったはずの屍の山は綺麗さっぱりなくなっていた。しかし、凶鶏の雛はいない。誰かが浄化をしたのだろうか。では、なぜここは霊力が流れているのだろう。宁麗文が肖子涵の隣に立って屈んでから見上げる。そこには月が顔を見せていた。
「不思議だ。屍の山がないとこんなに広いなんて」
「きっと、あの凶鶏の雛が全て喰らい尽くしたのだろう」
立ち直した宁麗文は三年前の、桂城で宁雲嵐が言っていたものを思い出した。
「前に兄上が言ってたんだけど。凶鶏って歯だけは食べられないらしいよ。だから死体がなくても歯は残ってるんじゃない?」
それに肖子涵は珍しく、苦い顔を彼に向ける。
「……あなたは、そんな恐ろしいことを言うのか」
宁麗文はその顔を見て唖然とする。肖子涵にとって彼はまだ四年前のような何も知らないような、無邪気な子供のように思っているのだろうか。今更何を言っても遅いのだから、その顔をやめてほしいと困った。
肖子涵は溜息をついて前に向き直り、再び歩いて中心で止まってから見上げる。宁麗文も続けようと一歩踏んだところで不意に立ち止まってしまった。見上げる彼に月の光が照らす。その姿はどこかで見たような、不思議な感覚がした。宁麗文は瞼を伏せて荷を抱える腕に力を込めて口を噤む。肖子涵に名前を呼ばれて我に返って慌てて彼の元へ行く。
二人で中心に止まって辺りを見回す。白くて小さい、規則正しい形はどこにもなかった。誰がここを片付けたのだろうと二人は疑問に思ったが、それはそれで片付ける手間が省けたのだから不問とした。
どこかへ行こうとも既に月は空を照らしている。仕方なくこの屍の山があった場所で寝ることにした。肖子涵はあの洞窟の時と同じように守霊術を掛けて山査子飴を刺していた棒や不要な懐紙をまとめて点火符で燃やす。宁麗文はそれだけでは足りないだろうと洞窟の中を探しに探して両手に抱えるほどの小枝や松ぼっくりを拾って戻った。
「この松ぼっくり、カサが開いてるからよく燃えそうだ」
ぽいぽいと肖子涵が点けた火の中に小枝や松ぼっくりを投げ入れる。肖子涵は嚢を開いて宁麗文がもらった菓子を取り出した。宁麗文はそれを見て「君の好きそうなものはなさそうだな」と苦笑する。
「必要ない」
「あるだろ。今のうちに食べておかないと。いくら辟穀したことがあるからって、倒れるかもしれないんだからな」
宁麗文も正座にして嚢をそれぞれ開く。そこには酒も入っていて、ちらりと肖子涵を見た。彼は薄い目で宁麗文を見返していて、「呑むな」と言わんばかりの態度でいた。
「……ダメ?」
「ダメだ。もし邪祟が来てしまってはいざという時に戦えない」
宁麗文はしょんぼりと口を噤んで酒を嚢に入れ直す。肖子涵は彼の隣にあぐらをかいていくつかの菓子を彼に渡した。宁麗文は礼を述べて一つずつ食べていく。
「ん、おいふい。肖寧も食べてみてよ」
「俺は甘いものが好きでは……」
宁麗文は肘で彼の二の腕を小突いた。次に食べる、瓶に詰まっている杏の砂糖漬けを一枚取り出して半分に分けて肖子涵の口に入れる。目を丸くして入れられたまましばらく食べ、その甘さに眉を顰めた。宁麗文はそれに笑いながらもう半分の砂糖漬けを口に入れて口元を緩ませながら食べる。
「どう? もう一個食べる?」
「遠慮する」
「そんなこと言うなよ。こんだけ量があるんだ。私だけじゃ食べきれないから、協力してくれよ」
宁麗文はまた二の腕を小突く。肖子涵は嫌そうな顔をして、瞼を閉じてから溜息を吐いた。
嚢の中にあるなつめの饅頭や煎餅などと様々な菓子が入っている。肖子涵はその中でも小瓶に入っているひまわりの種を取り出して口で皮を割いて出た実を食べる。宁麗文はそれを横目で見て小動物だと心の中で思っていた。それでも小さなものだけでは腹は満たされない。宁麗文は彼に自分の持っていた、つるりとしている団子を押し込む。肖子涵は抵抗するのを諦めて素直にそれを受け入れた。宁麗文は楽しくなり始めて自分で一個食べたものをもう一個は彼に押し込むという行為を何度も繰り返す。
(これまで何回もやられっぱなしだったんだから、この機に全部やり返してやる!)
にんまりといたずらっ子のような笑顔で肖子涵の口に菓子を詰めていく。彼が咀嚼をして飲み込んだのを見計らって次の菓子を突っ込み、それを食べて飲み込んでまた詰める。それを数度繰り返すと、我慢の限界を迎えた肖子涵は彼の砂糖漬けの山査子を持つ手を掴んでそのまま引っ張る。宁麗文は正座のまま崩れて彼の太ももの上に乗っかった。




