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4月1日
池袋のデパートの試着室にて。
この試着室から”それ”が始まったらしい。
”それ”と言っても何のことやらという感じだろう。
”それ”とは映画やらゲームでお馴染みの”アレ”だ。
”アレ”・・・、やはりピンとこない言葉だ。
要するに死人が蘇えり生きている人間を齧りだしたのだ。
これが、”それ”やら”アレ”やらの一番簡単な表現だ。
ここでは、「死人が蘇えり生きている人間を齧りだした」のことを
”それ”や”アレ”と表現することにする。
長ったらしいからだ。
その日の11時20分頃、私は付き合って2年になる宗司と食事をとるため
”それ”が起こったデパートにいた。
食事は最上階の海鮮寿司店と決めている。
12時に店に入ると並ぶことになるので、15分前に店の前で会う約束をした。
宗司は、まだ時間があるからと私を独り置いて別の階にキャットフードを物色しにいっている。
私は宗司の飼い猫に多少なりともジェラシーを感じつつ、
服飾売り場で新しいブランドのチェックにウツツを抜かしていた。
このブランドは「AKAS」といって北欧だかどこかにあり、
満を持して日本に上陸したらしい。
結局、オレンジのプリント柄のワンピース1着しか収穫はなく、
試着してみることにした。
店員たちは案外暇そうにしているので声もかけやすい。
どの店員にというわけでもなく声をかけた。
「あの、試着したいん・・・!?」
そのとたん、売り場の奥にある試着室から機械音のような悲鳴、
そして忘れることのできない野獣のような咆哮がフロアに響き渡った。
辺りにいた全ての人間の目が試着室に注がれた。
簡素なアコーディオンカーテンの試着室。
普段なら誰も気にしないスポットが突如、注目の的となった。
まるで、時間が止まったかのように全ての動きが止まっている。
凍りついた時間・・・。
沈黙を破るのは誰か。
やがて、スーツ姿の年配の男がエスカレーターを上ってきた。
男はセキュリティ担当なのか憶することなく試着室へ近づいていく。
男は試着室の前で立ち止まると少し場違いな言葉をかけた。
「お客様、何かお困りですか」
4部屋ある試着室はどれもカーテンが閉まっている。
「開けさせていただきますよ」
男はそう言うと、左端の試着室に向かいカーテンを開けた。
私がいる場所から室内の様子は見えないが、男の反応を見るに
室内は空だったらしい。
男は、左から2番目に位置する試着室のカーテンに手をかけた。
しかし、男がカーテンを開けるより先に何かがカーテンを
中から突き破り飛び出した。
その勢いで男は尻餅をついて後方に倒れこんだ。
飛び出してきた暴漢は男に抱きついたように見えた。
しかし、そこに愛情めいたものは一切感じられない。
ようやく、私が事態を把握すると全身が総毛だった。
試着室から飛び出した暴漢は私が選んだものと同じオレンジのワンピースを着た女だった。
そして組み伏した男から顔を上げた女の口には男の耳と思われる
肉片がくわえられていた。
事件を目の当たりにした人ごみの各所から悲鳴があがる。
ワンピースの女は後ろを振り返ると猛獣のごとく、
そばにいた女の店員に飛びかかり、首の肉にかぶりついた。
と、同時にこの現場に居合わせた人間の脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。
「逃げろ!」
大勢の人だかりが一斉にエスカレーターに向かって駆け出した。
その迫力に押され、私はあらぬ方向に逃げ出した。
そう、出口と逆の方向へ逃げ出したのだ。
別方向に逃げる私の背後では血しぶきがあがり、
エスカレーターに一斉になだれ込んだ人々が将棋倒しに倒れ階下に転げ落ちていく。
(私はこの時、逃げるのに必死だったのでこれはあくまで想像だ)
そして、私はある場所に逃げ込んだ。
そこは女子用トイレ。
何かあるとトイレに逃げるのは私の悪い癖だ。
それはともかく、私はここに隠れて様子を見ることにしたのだった。