女帝のケジメ
楓真のオリジナルファーストアルバムの制作は順調に進んでいた。
桜木優香さんの作った曲に、本人の生い立ちをデフォルメしてそれらしく、書いて出来上がった曲はとても素晴らしいものだった。
「私の命をくれたのは~あなたの勇気ある行動のおかげ。あなたの行いが、私の未来を照らしてくれる~あなたがいなかったら~私の生きる意味はなんだったろう~」
「あの絶望の真っ暗闇の中から救ってくれたのはあなた~私がいま輝けるのはあなたと知り合えたから~真の友と会えて~生きる意味を感じた時、私は羽ばたく~世界に向かって~白馬に乗った王子様なんかいらない、私にはあなたが~友が~いてくれるから~」
「感謝を述べるのは簡単だけど~あなたと共に生きることはできないけど~あなたの仲間でいられることを誇りに思う~」
自分で書いていて、かなり恥ずかしい気持ちになるが、これも仕事と割り切って、書き続ける。
そして出来た曲を聞いて、当の本人は涙ぐむほど喜んでもらえた。
正直ホッとしたやら恥ずかしいやらの入り混じった気分だったが、とにかく形にできたのは良かった。
残り3曲のうち、1曲はHANZO時代に一番ノリノリで俺達も気に入っている曲を入れることにした。
そして後2曲。
舞が無茶ぶりしてくる。
「楓真、英語の曲なんてどう?世界を目指すなら絶対通らなければならない道よ。」
楓真節で「俺は英語が喋れない。」一言で言い切る。
だが、舞は全く負けてない
「私が教えてあげるわよ!」
楓真の毎日忙しく、ハードなスケジュールをこなしていることをよく知っている俺は、これ以上楓真に負荷をかけることを戸惑う
「やった方がいいぜよ」
何時もなら、皆の無茶ぶりを抑え込む緩衝材役のホトが、逆に楓真に対して発破をかける。
(珍しいな、ホトがそんなこと言うなんて)
俺は密かに思った。
「楓真一人にだけ、頑張らせるのは大変だろうからここにいる全員一人ひとつずつ自分に課題を出して、みんなで壁を超えていくのはどうかな?」
「いいじゃないか!」
タカヒコが、賛同する。
俺が全員に目線を合わせて、同意を感じて始めに自分の目標を告げる。
「それじゃ初めに俺からな、俺は今年度の京仁織物戸塚営業所の売り上げを前年対比3倍にしてみせるよ。」
今年、初めて戸塚営業所の所長に赴任して、初年度の目標売上高が前年対比300%とは、普通の大人が聞いたら笑い飛ばすほど馬鹿気た数字だ。
しかし、火吹武将は親友の彭城楓真が、英語を覚えるのと同等の試練を自分に与えるのはそれくらいが相当と考えている。
そして、この男が口に出したことは、必ず形にしていく。
だから、皆も火吹武将という人間に付いて行く。
直ぐに高く美しい声で
「それじゃ、私はこの一年で3か国語を覚えて見せるわ」
妻の舞が速攻で、決断する。
楓真には英語を覚えさせ、自分は3か国語を覚えるという。
とんでもない破格外な愛する美しい妻である。
「それでは僕もこの一年で、司法試験に合格してみせよう」
タカヒコが、静かに宣言する。
司法試験ってそんな簡単に取れるもんじゃないでしょ。
言い出しっぺのホトが、今では逞しい身体をドラムセットに腰かけながら
「俺はこの一年間、一言も愚痴や根を上げないと誓うぜよ」
簡単なようだが、あの候葺縁さんの元で修行するのにそれは、かなり過酷なんじゃね?
俺は一人思う。
大人の清水郷壱社長でさえ、かなり激しく鍛え上げられているのは昨日一晩共に仕事をしてよくわかった。
それと同じことを社会に出たことが無い、ホトが同じことをするのはかなりきついんじゃね?
っと思うというか、言い出しっぺのお前が一番きついんじゃね。
「私は、楓真さんへの曲を30曲作ります。」
音楽留学が決まっている、桜木優香さんは慣れない異国の地で、楽曲作りをするという。
それも楓真のために、、、
ここまで言われちゃ、楓真だって引っ込んでいられないだろ
「舞、頼む。」
たった一言だけ、告げる。
舞は「わかったわ、明日からこの屋敷内では日本語禁止ね。分からない時だけ聞いていいわよ。それと毎日1時間、英会話の勉強の時間を必ず作ることね」スパルタ式愛情のこもった舞式英会話講義術の始まりだ。
「わかった。」
淡白にいつもより1トーン声が低くなるのは仕方ないことかもしれない。
すると、舞は自分の鞄の中から英語がびっしり書かれたA4の紙を4枚出して
「これ、私が書いた英語の詩ね。とりあえず今は喋れるようになればいいから、私の真似してそれらしく歌って」
「どういう意味なんだ?」
楓真は更に1トーン声を落とし不安げに聞く。
「それは、自分で理解できるまで秘密よ」
「・・・・」
天下のスーパースター彭城楓真にこれだけ厳しく、話せる人間は日本には舞しかいないように思うのは、俺の勘違いだろうか?
いや多分間違いなく事実だな。
舞の書いた英語の詩に合わせて、曲はボカロとブルースを混ぜ込んだような、新しい楽曲となった。
最後の一曲となり、落ち込み気味だった楓真が
「最後の曲は、俺と将軍のデュエットだ」
(はい?)
全員の顔が俺に向く。
「俺は歌手じゃないぞ」思わず飛び出してしまう一般人のセリフ。
「いや決まったことだ」
(日本語分かりますか~?)
「俺の名前を出さないというならいいよ」仕方なく受諾する。
どうせ、このまま反対しても無意味なのは、今までの付き合いで嫌というほど理解している。
タカヒコが、ベースをいじりながら
「デュエットだと、全く名前を出さないという事は、法律上無理だ。芸名を作り登録するのがいいんじゃないか?」
楓真は即決する。
「それじゃ、【SYO軍】だ。」
センスがあるのはわかるが、即断される俺の身にもなってくれっての、会社にばれたらまた大事になるよ これ!
そもそも副業していいんだっけ?
うちの会社、、、
しかし、副業云々よりも本人の知らないところで、億単位の金額を毎日稼ぎ出していることを知らないのが本人だけという何とも悲しいやら嬉しいやらの事実だ。
また、このアルバムがヒットするのは作った俺たちが一番理解している。
そうすると、印税やなんやらでまたもやとんでもないお金が動いてくる。
そんな隠れた事実とは別にこの男は
用意が良いことで、このデュエット曲だけは楓真は自分で用意できていたようで、曲も詩も楽譜に書き込んであった。
皆で、一応合わせて話せてみたが、、、
自分で言うのもなんだが、滅茶苦茶恥ずかしい内容になっていた。
俺の事、なんか思いっきり勘違いしてね?
すると感情モリモリの桜木優香さんが
「とても素晴らしい曲です。シングルにしてもいいんじゃありませんか?」
(マジでやめて~、そんなこと言うと現実になりかねないからこいつらだと、、、)
それぞれの思いと誓いを立てた、楓真のファーストアルバム作りは波乱万丈の割には、それほど時間もかからなく大体出来上がった。
後は専門家の人たちに渡して、完成度を上げて編曲してもらって、舞のハーモニーや俺とのデュエット部分の録音は後日、ちゃんとしたスタジオでプロの手で録音することとなる。
現在午後6時。
まぁ~何とかなったって感じだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夕焼けが窓腰に美しく映える、高級都内ホテルの最上階にある高級バーだ。
シックな漆黒を基調とした中に、金色と銀色のアクセントを使って作られた店内は、豪華でドリンク1杯の値段も豪華であった。
そのカウンターに、見知った人物が二人。
高級バ-に相応しいドレスとスーツを着こなした、男女のカップルが腰かけていた。
数少ない、周囲の客も一度は見惚れてしまうほど、その女性は美しく妖艶であった。
カ~ン
美しく響き渡る、乾杯の音。
音が高く長く響くことから、とてつもなく高級なグラスを使っていることが伺える。
男女は同じ赤葡萄酒を嗜んでいた。
そう、葛城仁と候葺縁の2人だ。
仁義父さんも、土曜日なのにお気に入りのスーツを着込み、一部の隙も無く高級オーダースーツを着こなしていた。
対する縁さんは真っ赤のドレスで、背中と胸は大きく空き、深くスリットの入ったスカートからたまに除く細く長い脚が色気をこれでもかというほど放っていた。
「今日は1日、大変楽しかったですわ~」
「いやいや、こちらこそ僕の用事に突き合わせてしまって、申し訳なかったね。」
朝からこの二人は、このホテルにいた。
それは横濱銀行頭取 茂宗柔蔵と会食していたのだ。
昨晩、俺の話を聞いた葛城仁社長は、すぐに横濱銀行頭取の茂宗氏に連絡を取り、土曜日だと言うのにホテルで俺のプロジェクトについて語り合い、昼食をこのホテルの高級割烹料理店で縁さんと3人で済まし、茂宗頭取と別れてこのラウンジに来ているというながれだ。
俺の知らないところで、俺のプロジェクトを後押ししてくれる、上場企業社長の2人には感謝のしようが無いが、その事実さえも知らない俺には感謝のしようが無いのが皮肉な現実だ。
高級赤葡萄酒を口につけ、妖艶な縁さんが
「わたくし、元はワインは苦手でしたの」
「そうだったのかい?」
「ええ、私の初恋の方が愛飲していたので、真似をするようになりましたのよ」
初恋の相手とは、何を隠そう葛城仁その人なのだから
応えにつまずく、紳士の鏡のような葛城仁もさすがに間が空く、その間を埋めるように女帝は、その瞬間に畳み込む。
「おほほ、それが今ではとても大好きになりましたのよ、ワインと殿方は飲めば飲むほどおいしくなるものですね~」
「それは、とても高評価をいただいて嬉しいが、そのことについて君に話しておきたいことがあるんだ。」
「わかりましてよ~武将様の事ですわね。」
「、、、わたくし、、、、武将様のことを、、、諦めようと思いますの」
「・・・・・」
「わたくし、これほど本気で殿方をお慕いしたことはありませんわ。」
「自分が、男に生まれてきていれば、こんな苦しい気持ちにならずに武将様のご友人たちの様に、武将様と共にこの世界を変えるような大きな夢を持っていられましたのにね、、、」
大きく薄いグラスに、ポツンと美しい涙が零れ落ちる。
「わたくし、女として生まれてきたことをこれまで後悔したことなどありませんでしたわ、武将様と知り合うまでは、、、」
さらに美しく光る涙は、止めどなく流れ落ちる。
葛城仁は黙って、ポケットに挟んであるハンカチをそっとカウンターの横に置く。
「すまない」
っと、一言だけ添えて
ハンカチを受け取りながらも流れる涙を拭こうともしないで候葺縁という個性を持った女性は、凛と胸を張り、こぼれ出る涙で床を濡らすことなど全く気にも留めないで
「仁さんには、感謝しているんですよ。火吹武将という男に合わせていただいたことについて」
「ただ、わたくしなりにこの嘘偽りない自分の気持ちにケジメを付けようと思いますの」
涙は銀の滝の様に、美しい顔を伝い流れ続ける。
「ケ・ジ・メというと」
百戦錬磨の葛城仁という男もこの展開にはかなり動揺していた。
「仁さん、私を抱いてください。」
「!」
彼女の本気を知る、葛城仁は迷う。
普段なら、うまくかわすことなどいくらでもできるだろう。
だが、候葺縁という存在意義と折れないパーソナリティーをよく理解している男は、中々答えを見いだせなかった。
そもそも、こんなことになった原因は自分にあるのだから、、、、
なかなか答えを見いだせない、葛城仁である。
それはそうだ、これまで結婚して一度として、妻の葛城唯を裏切ったことのない男は、自分の感情と思考の中で逡巡するが、答えは見つからない。
そこに縁が答えを出す。
「仁さんが、わたくしを抱いて下さらなければ、わたくしはこの自らの命を絶ちますわ」
「!」
喉の奥の深いところからやっと、かすれた声を出す。
「ケジメと、僕が君と褥を共にするのとどう関係があるのかな」
涙を流す美しき貴女は、何も恥ずかしがらずに胸を張り
「わたくしの本当の愛の証人になっていただきたいのですわ。」
「そのお相手は、葛城仁あなた以外に考えられなくてよ」
「あなたとわたくし二人だけのわたくしの真実の愛の証。死ぬまで誰にも絶対喋りませんわ」
「・・・・」
葛城仁は、その後何も語らずに席を立ち会計をしてバーラウンジを出る。
そして、二人はその日は結局火吹家に帰宅することは無かった、、、
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
そして、日は経ち金曜日。
俺の二十歳誕生日であり、マツウラ商事と横濱銀行との火吹武将が企画した、プロジェクトが成功か失敗か決定する日だ。
何時もの様に玄関を出る時。
妻の舞がそっと俺に寄り添い
「良い1日になるといいわね。」
っと言って、軽く俺の口に舞の小さな美しい口を付ける。
俺は「ああ、じゃ行ってくるよ。」
子供がいるといってもまだまだ新婚気分が抜けない、年齢の俺たちにとってはごく普通の自然な朝の流れだが、、、
それを屋敷奥から見ていた、女性がとても悲しい顔をしているの事を知るのは、葛城仁だけであった。
もちろんその女性とは、俺に好意を寄せていてくれているが、自分の気持ちに整理を付けたばっかりのCOOBデザイン会社CEO候葺縁さんだ。
俺たちは全くそんなことには、気づかずに家を出ていく。
大人である、ツネさんやシゲさん。
仁義父さんの妻である、葛城唯母さんだけは、何か特別なことがあったという事は感じていたかもしれないが、誰一人として口には何も出さなかった。
相談されれば、聞くが 余計な詮索やプライベートなことに首を突っ込まないというのも立派な大人ならではの振る舞いである。
唯母さんにとっても葛城仁という男が、結婚して30年以上築いてきた信頼感と共に、不安な気持ちなど微塵も見せずに堂々と何時もの様に自然体で、この屋敷の住人と家を陰ながらツネさん共々守っている尊敬する母親であった。
そして、俺は戸塚営業所に8時20分頃には到着した。
以前、十柄氏前所長から「所長があまり早く来てしまっては、皆も早く来なくてはいけないと思ってしまう」と忠言されたが、自分なりに考えてやはり一番若く、新米の俺が偉そうにするのは違うと思い、今まで来ていた時間と定刻時間の9時の真ん中にすることにしたのだ。
そして、火吹部隊の面々も大体同じくらいに出社してきて、いつもの日課の掃除を始める。
営業所の社員の中から、少しずつだったが火吹部隊と行動を共にする人が出てきた。
特に先日失敗をした、山口洋二営業社員は火吹所長に借りもあり率先して、火吹部隊と行動を共にするようになった。
朝礼では、所長として一言いつも従業員に声をかける。
「今日も無事故で安全を心がけて、一生懸命仕事を頑張りましょう」
っと、いつもと変わらず当たり前のことを繰り返し繰り返し訴える。
毎日慣れた作業にこそ、危険が含んでいることを俺は嫌というほど、亡きオヤジに言われ育った。
どんなに注意しあっても足りないということは無い。
っと、オヤジは口酸っぱくいっていた。
今、俺はそのことが理解できる経験値を獲得した。
毎日、共に働く仲間が怪我や病気になることは、自分が怪我を負うより辛い。
まぁここ戸塚営業所に関して言えば、工場長の木島さんが厳しく目を光らせていてくれるから安心していられるのだが
「所長、マツウラ商事様の所には何時に行かれるのですか?」
営業課長の土井田敦35歳が、朝礼後俺の所に来て声をかける。
「土井田課長、横濱銀行新倉渉外部長が11:00に来られるそうなので、15分前には到着していようと思います。」
「わかりました。では10:00に車を玄関に用意しておきますね」
「お願いします。」
軽く会釈して、土井田課長は業務に入るために自分のデスクに走っていく。
メールと雑用を済ますと、時間は既に10:50分俺は急いで自分の鞄の中に、タブレットや必要そうな書類を詰め込み、駆け足で所長室を出る。
部屋を出る時に、十柄氏前所長から
「いい結果報告になると、良いですじゃね」
「はい!」
っと俺は、胸を張り駆け出していく。
部屋を出ると、火吹部隊の面々が俺の方を睨んでいる。
【頑張ってください!!】
っと、口には出さないが念を目線に乗せて激しく連射してくる。
俺は片手をあげて、「行ってきます。」っと簡潔に熱い視線に返答して営業課を後にする。
「「「「行ってらっしゃい!」」」」
気合のこもった、視線とかけ声で気合が入る。
玄関には、土井田課長が車の前で待っていてくれた。
今日は、俺と土井田課長の2人だけで行くことにしていた。
結果を聞きに行くだけだから、ゾロゾロ連れて行って断れたらみっともないし、ゾロゾロ行くものでもないしな
国道1号線を下り、20分くらいするとマツウラ商事の正面玄関に付いた。
車を業者専用駐車場に入れると、本社玄関から飛び跳ねるように興奮した男性が駆け寄ってきた。
なんと、マツウラ商事社長の松浦真一さんだ。
松浦社長は開口一番
「火吹所長!あのコーティング剤は滅茶苦茶すごいじゃないですか!」
「ありがとうございます。」
俺は車から降りながら、両手を両足につけてキチンとお辞儀する。
それでも、松浦社長の興奮は冷めやらずに
「実は、あのコーティング剤のサンプルを社用車に塗布してみたんですが、素晴らしい!!の一言ですよ。」
「輝き、水を弾く力、耐久性、どれをとっても今までこれほど素晴らしいコーティング剤は見たこともありありませんでしたよ」
まぁ~耐久性については、まだ1週間しか経っていないから何とも言えないかもな、、、でもこれほど興奮する松浦社長は初めて見る。
沈着冷静、クールにスマートに仕事をこなす【出来る男】というのがイメージだったから、これほど感情をあらわにすることは俺にとっても嬉しいことだ。
「私の自家用車にも、使いたいと思うくらい素晴らしい!」
【素晴らしい】を連呼する、クールガイだが心の奥には秘めた情熱を持つ人なんだと、改めて認識した。
「メンテナンスフリーと言われていたのは、本当だったんですね。これだけでも画期的な商品ですよ!」
(そうか、車につかえるならユタカ自動車さんにも声をかけてみようかな?)
(もし、上級車だけにでも採用されれば、売上高前年対比300%アップもかなり現実味を帯びてくるしな、、、)
一人冷静に、今後の営業展開を考える俺だが、まずは今日だ!
そこに社名の入っていない、白い軽自動車が入ってくる。
横濱銀行さんの車だ。
銀行の社用車には、社名は絶対入っていない。
商品が【お金】というだけあって、秘密にしなくてはならないことが多いのだろう。
4人乗りの小さな軽自動車から、出てきたのは意外な人物であった。
大きな体には、この車は窮屈そうな新倉誠渉外部長が助手席から飛び降りてきて、後部席の扉を部長自ら開けて後部席より現れたのは、黒色の高級スーツを身に纏い。
一瞬で、かなり高位な立場の人間であると俺の直感が叫ぶ。
マツウラ商事社長である松浦真一が数歩、歩み寄りお辞儀する。
「わざわざご足労頂きまして、申し訳ありません。」
っと言い、皮で出来た上品な名刺ケースの上に自分の名刺を乗せて、名刺交換する。
松浦社長も軽自動車の後部席から降りてきた人物が、只者でないことを瞬間に嗅ぎ取っていたのだ。
上質な黒色スーツの男性は、にこりと微笑み
松浦社長の名刺を受け取り、自分の名刺も松浦社長に渡す。
刹那!!松浦社長の顔色が変わる。
「横濱銀行頭取。」
思わず、声が口から洩れてしまう
頭取は挨拶が済むと、今度は俺の方に歩み寄ってきた。
にこりと微笑み
「君が、京仁織物さんの戸塚営業所所長の火吹武将君だね。」
俺は直ぐに、胸のポケットから自分の名刺を出して、頭取と呼ばれた人に渡す。
葛城仁義父さんより、年齢は上に見える。
品の言い作法と纏う空気に好感を抱く俺だが、何より良いと感じたのは横濱銀行が地方銀行とはいえ、その頭取が戸塚支店社用車の軽自動車後部席に乗ってきたことだった。
成功を収めた人ほど、高級な車。高級な家。高級な食事。高級な車。高級な生活。
等に拘ることを俺は良く知っている。
生活レベルを上げることは、悪いことでは無いと思うが無理に見栄を張るように生活レベルを上げる人間を俺は好きにはなれない。
分相応。
出来るようで、出来ない人間が多い。
俺は横濱銀行頭取茂宗柔蔵と書いてある名刺を受け取り
「初めまして、火吹武将と申します。」
っと目を見て堂々と挨拶を交わす。
にこりと笑い、頭取は俺と松浦真一社長を見て
「お二人とも、お若い。これからの日本経済を変えていくのは、君たちのような若者の役目だね。」
「こんな、おいぼれだけどこれでも結構忙しくてね、、、時間があまりないので、今日はここで話させていただいていいかな?」
マツウラ商事の玄関前で、頭取は真剣な顔をして話し始める。
「マツウラ商事様には、当行がメインバンクとなり此度本社及び工場建設費と新大型空気除菌装置の開発研究として、合計160億円を融資させていただく。」
「よろしいですかな?」
松浦社長は、珍しく緊張して
「ありがとうございます。必ず成功させて見せましょう」
頭取はにこやかに笑い
「頑張ってくださいね。トナミ銀行さんには内の方から話を通しておきますから何もご心配は不要ですよ。」
頭取は身体の向きを少し変えて、俺の方を向き
「火吹武将所長、君には沢山のご友人がいるようですね。君にも期待してますよ。」
俺は何時もの様に、自然体で両手を両足にぴたりとつけてお辞儀する。
「ありがとうございます。頑張ってまいります。」
好々爺の様ににこやかに微笑み、茂宗柔蔵頭取は乗ってきた軽自動車に乗り込み
「詳細は、新倉支店長に聞いてください。」
「それでは、すいませんがお先に失礼します。」
松浦真一社長、火吹武将京仁織物戸塚営業所所長、土井田敦京仁織物戸塚営業所営業課長は、一列になって、横濱銀行頭取の乗る軽自動車に対してお辞儀をする。
軽自動車が見えなくなるまで、誰一人として頭を上げずにそのままの姿勢を保ち、松浦社長が初めに顔を上げて残ったバンカーに
「新倉さん、支店長になられたのですか?」
ちょい出っ張り気味のお腹を揺らして、一流のバンカーは
「皆様のおかげです。この企画が役員会議で承認されて、同時に私の昇格も決まりました。」
葛城仁社長や候葺縁CEOが茂宗柔蔵頭取に口をきいてくれていたとはこの時は全く知らずに、俺は次の営業の事を考えていた。




