工場長 職人木島菊道
翌日、俺は満員電車になる前に早めに東海道線に乗っていた。
朝、6:30東海道線に乗ってる客はまだ半分もいない。
しかも、俺が使っているのは下り線だ。
品川まで山手線で出て、それから東海道線でビュンだ。
都内の電車に慣れている俺にとって、東海道線の一駅一駅がとても長いのは、はじめは驚いた。
だが、通勤時間も想像より短く、慣れれば問題なさそうだった。
俺が日課としている、人よりも早く出社して、掃除をするという事は、やっていこうと思っている。
だからこそ、こんな時間に東海道線に乗って、タブレットを開きながら戸塚営業所の主な取引先の会社名、担当、代表取締役社長の名前を頭に打ち込んでいた。
今日から、挨拶周りだからだ。
それと驚いたのが、本社の京仁織物株式会社のメインバンクは都市銀行でもあるYOTSUBA銀行だが、戸塚営業所は別で、地方銀行の横濱銀行だったことだ。
もちろん、高額な借り入れとなれば、本社メインバンクのYOTSUBA銀行となるだろうが、戸塚営業所の運転資金や設備資金の借り入れは横濱銀行から行っているという事だ。
これも、お付き合いという大人の事情が絡んでくるものかもしれない。
営業所長交代の話は既に、横濱銀行に伝わっているようで、今日の午前朝一で、横濱銀行戸塚支店長が挨拶に来る予定になっていた。
横濱銀行は地方銀行だが、戸塚のある神奈川県に限って言えば、都市銀行よりも手持ち資金も融資額も上まっていた。
その戸塚支店の支店長が、自ら自営業所に来るという。
当然だが、会社としての規模、業績が良いというのはあるだろうが、俺の個人的人間資質を見るために来るのはかなりの確率で、あるだろう。
そんなことを考えながら、東海道線の窓際の席に座っていると、戸塚駅に到着した。
戸塚駅はここ数年で、劇的な変化を遂げた町の一つだ。
お洒落で立派な駅ビルが立ち並び、有名百貨店やデパートが立て続けに立ち並ぶ。
しかし、駅から5分も歩くと町並みは一変して、静かな住宅街と平静な田畑が開けてくる。
戸塚営業所は、そんな中を10分ほど歩いたところにある。
雨の日は、バスを使う従業員も多いことだろう。
身長180センチの大柄な俺が、大股に足早で歩いていると、後方から大声で駆け寄ってくる女性の声がした。
「所長!!待ってくださいよ。」
俺はカバンを右手に持ったまま、首だけ後方に向けるとハイヒールをカツンカツンと鳴らしながら寸動永誇主任が汗だくになって、走ってきた。
「歩くのも出社するのも、早すぎますよ火吹所長~はぁ~はぁ~」
息づかいが荒い、最終学歴が上智大学卒業の優秀で、気が強く黒髪が美しい、美貌の持ち主だ。
「寸動さんこそ、早いですね。」
俺は、隣で両ひざに両手を添えて腰を折って、ゼェ~ゼェ~
息を整えている優秀な女性が息を整えるまで、ゆっくりと待つ。
俺は、上着のポケットに入っていた自分の白いハンカチを右手で持ち、エイコさんへ差し出す。
「よかったらどうぞ」
俺としては、ごく自然で違和感ない行動なのが、彼女の両目は驚きと歓喜に輝いていた。
「あ、ありがとうございます。」
と言って、差し出された清潔なハンカチで、溢れ出る年頃の女性の色香溢れる爽やかな汗を俺のハンカチで拭う。
エイコさんは俺に向かって「このハンカチ汚してっしまったので、洗ってお返ししますね。」っと、女性らしく微笑みを俺に向ける。
俺としては、別にそれほど高価な物でもないし、以前はツネさんが毎日用意してくれていたものだが、今では妻の舞が毎朝、俺に渡してくれるハンカチだが、このハンカチにそれほどの入れ込みも無いので
「別に高い物でも無いので、大丈夫ですよ」
っと、言うと寸動永誇の両目から歓喜と驚愕の輝きと共に、烈火のごとく言葉が吐き出される。
「そ、それじゃ、このハンカチいただいてもいいですか!!」
俺はハンカチを奪われることより、ハンカチ如きでこれほど興奮して喰い込んでくる、エイコさんにびっくりして
「え、ええ、かまいませんよ」
エイコさんは更にヒートアップして、「ありがとうございます!!」涙目で訴えてくる。
そんなに喜んでもらえるなら、あのハンカチも喜ばしいことだろう、、、
等と考えながら、口には全く別の単語を乗せて発射する。
「寸動さんも随分早いじゃないですか」
エイコさんは、歓喜と興奮を一緒に自分のバッグにハンカチと共に終い込みながら
「ええ、私の実家は藤沢なので、戸塚勤務が決まった時点で、都内で一人暮らししていたマンションを解約して、実家に戻ってきたんです。」
俺は優しくゆっくりと歩きながら
「やはり、実家だと落ち着きますか?」
寸動主任は、ニヤニヤしながら俺と二人で歩く閑静な住宅街と田畑溢れる自然な景観を楽しみながら
「えへへ、やはり実家は楽ですね~黙っていてもご飯出てきますし~洗濯物も母がやってくれるので、仕事に集中できます。」
「あっ、それはわかりますね。」
火吹家の場合、普通の家庭とは程遠さの規模と豪華さではあるが、内容は同じである。
そこに、同感したのだ。
「ご両親も、娘さんが帰ってこられたら嬉しいんじゃないですか?」
エイコさんは、俺と二人きりで出社できる嬉しさが止まらずニヤニヤ顔で
「そうなんですよ~もう父ったらデレデレで娘として情けないくらいですよ~でも、母は付き合っている人はいるのかとか結婚はどうするんだとか、もううるさくて。」
2年前の俺と彼女の関係では、このような話を自然にできるとは夢に思っていなかった。
俺の屋敷で同居する居候であり俺の妾を公言する、女帝。
COOBデザイン株式会社 CEO(経営最高責任者)候葺縁さんにペチャンコにされた時とは、別人のようだ。
俺と世間話をしながら、戸塚営業所までの道のりを寸動永誇は至福の時間のように過ごして、まだ誰もいない営業所の門扉のセキュリティーを解除して、中に入りそれぞれ電気をつけて回りながら、今日は暑いので工場や営業所のそれぞれの部屋のエアコンを冷房25度でつけて回る。
その間に、寸動永誇さんは私服を制服へと着替えて至福の時間に終止符を打つが、カバンの中にある俺のハンカチを思い出し、なぜかニヤニヤが止まらない彼女だった。
本社でもやってきたことなので、全く同じことを始める。
そう、掃除だ。
戸塚営業所は、建設されて25年経つ。
その歴史と一緒に、埃や汚れは見えないところに沢山ある。
渋谷に立つ、本社ビルは5年程前に建て直したと聞いたから正直それほど汚れも無かったが、この営業所は歴史の分汚れもあり掃除のやり甲斐は滅茶苦茶ありそうだ。
だが、前に研修に来た時にも感じたことだったが、工場の方は大変清潔にされており、チリひとつ落ちていることは無いほど綺麗に掃除され、整理整頓されていた。
木島工場長の職人としての気質によるものなのだろうかと考えていると、火吹部隊の残りのメンバーが次々と出勤してきた。
「おはようございます。相変わらず、所長は早いですね。」
長身で心優しく、良い人を具現化したような標榜の門田応史課長が、腕まくりしながら話しかけてくる。
自分も掃除に加わる気満々で、右手をぐるぐる回してやってくる。
顏にまだわずかに、そばかすが残る安定安心感の帝城高校先輩も朝から元気にそして真面目という単語を体中で表現して
「火吹所長、いくらなんでも早すぎません?」
俺は安藤先輩の方をちらりと見て「初日ですからね」といいニヤッと笑う。
近藤直子主任が、自分より早く出社して俺と二人きりでいるエイコさんを見て、小声で話しかける。
「エイコ、何ニヤついてんのよ、何か良いことあったんでしょ」
「えっ!!そ、そんなことないわよ。い、いつもと一緒よ」
その態度と言葉で、ナオの言葉を肯定しているのは仕方のないことだろう。
すっごく妖しい目つきで、エイコを見てナオは
「所長と何かあったんでしょ。」
ズキッ!!(するどい)
「な、何もないわよ、早いとこやっつけちゃいましょ。皆来ちゃうよ」
っと、何とも誤魔化しようのない言い訳をする。
そうこうして掃除をしていると、次々と社員や従業員の人たちが出勤しだした。
元所長で京仁織物株式会社の生き字引十柄氏源吉さんが、出社してくる。
俺たちがすでに出社しているのを見て、微笑ましく自分の孫を見るような眼で
「火吹所長おはようございます。早いんじゃね。」
俺は振り返えり、シャッツの腕まくりを元に戻して、年配者への敬意と一緒に朝の挨拶をお時宜に込めて、両手を太ももにぴったりと合わせてお辞儀する。
「十柄氏さんおはようございます。」
「所長は、火吹君なんだからもっと偉そうにしていていいんじゃよ。」
孫の面倒を見るように、好々爺とかした経験豊かな戦士はにこやかに諭すように話しかけてくる。
「所長が、あまり早く来てしまうと周りのもんも早く出社しなければいけないと感じていまうもんじゃから、ほどほどでいいんじゃよ」
(そうか~俺が早く来れば、他の従業員も早く来なくてはいけないと暗黙に命令しているようになってしまうのか~、、これは迂闊だったな)
「十柄氏さんありがとうございます。これからも気が付いたことがあったら、どんどん言ってください。」
「こちらこそじゃよ」
始業開始15分前に、営業所前の広場で全員で軽く準備運動して、俺が就任の挨拶をして副所長と工場長の話が済。
従業員は各々の仕事場に散らばっていく。
俺は十柄氏元所長と五十吾副支店長と共に支店長室に戻る。
っと、そこに木島工場長が、付いてきて鋭い眼光で十柄氏さんと五十吾副所長を見て
「火吹営業所長と二人きりで話したんだが、いいかな?」
長年、この3人は共に戸塚営業所で働いてきた猛者であり盟友だ。言葉にしなくても理解できる深い絆を感じる。
五十吾副所長と一緒に部屋を出ていきながら、十柄氏さんが、木島工場長の肩に手を乗せて
「10時には銀行さんが来るから、お手柔らかにな」
「ああ」とだけ答えて、木島工場長は俺と二人きりで営業所所長室に立ったまま、沈黙が続く。
木島工場長は、座ろうともせずに俺の目を見て、刃のように話してくる。
「時間がないから、単刀直入に聞くがお前さん25歳で独立するつもりなんだってな」
言葉使いからして、完全に試されてると俺は感じた。
俺は正直に「はい」っと、木島工場長の職人気質の険しい目を見て答える。
木島工場長は、全くつけ入るスキも与える気もなく喧嘩を売りつける。
「お前の歳で、営業所長にしてもらった、会社への恩とか感じないのか?」
「そんな簡単に会社への恩を切り捨てるつもりの奴を俺は、仲間だとは認めない。」
(全くその通りだ。なかなか厳しいこと言ってくるな)
「それに、お前。葛城社長の義理の息子で、金には困ってないらしいじゃないか。そんな気持ちで仕事されちゃ迷惑なんだよ。自分から社長に言って、この営業所から出ていくか、会社に残って骨を埋めるか、覚悟を決めろ。」
今までには、火吹武将の周りにはいなかったタイプだが、木島工場長も立派な大人なのは、今の言葉で理解した。
自分の仕事に責任と誇りがあるから、それを汚すような奴には居て欲しくないという矜持は実に男らしく立派だ。
俺はこの己の仕事に誇りを持つ職人気質な木島菊蔵工場長の鋭く険しく恐怖さえ植え付けそうな、眼光をじっと見て
「それは、両方できません。」
「なんだとー」木島工場長の顔にマジで怒気を含む。
俺は堂々と立ったまま、火吹節を貫く。
「私は25歳で、独立します。」
「しかしその時、京仁織物株式会社がどのような形になっているかわかりませんんが、私は受けた恩や会社に対する気持ちやお世話になった方々との人間関係をないがしろにするようなことは絶対にいたしません。」
木島工場長は、職人気質強面の黒く陽に焼けた顔で、ギラりと睨みを付け
「おめぇの言いたい事が理解できねぇな」
「受けた恩や会社に対して、半端じゃねえと言うんなら、25歳で独立する時、会社辞めんだろ。矛盾してんじゃねぇか」
俺は、黙って木島菊道という男を詳しく、つま先から頭のてっぺんまで、何も見逃すまいとじ~っと見る。
靴も作業着も相当使いこなされているが、汚れや綻び、ボタンが取れているのは一つも無い、腕まくりもしていない。
両手は職人らしく、皺深く使いこなされた太い指。
髪の毛は短髪で、白髪が混じっているが、清潔感と凛と張りつめた緊張感を一緒に身に纏っている。
一部の隙も無い身だしなみと男気を見て取る。
中途半端なことを言ったら、本気でぶん殴られるタイプだ。
緊張感の中、ふと同じ匂いを持つ有限会社小袋織物のオヤッサンの顔が浮かぶ。
俺は怒りを顕わにどす黒い感情を全身に纏いながら立つ男に堂々と向かい合って立つ。
こんなところで、俺は負けるわけにはいかない!!
チームの皆も、俺を神輿に担ぎそれぞれの形で自分と戦い成長し続けているのだ。
リーダーで言い出しっぺの俺が、ここで立ち止まるわけにはいかない。
それだけは、絶対できない。俺の存在全てを否定することになる。
俺が一番最大に嫌悪感を持つことだ。
己で己が許せなくなったら、俺は終わりだ。
絶対絶対絶対駄目だ。
だが、木島工場長の言ってることも理解できる。
それではどうしたら、、、
俺の中で深く濃い、葛藤が生まれる。
思わず、俺は叫んでいた。
「木島菊道さん!」
俺の大声で、初めて職人気質のオッサンが揺らぐ。
「な、なんでぇ」
俺は頭が真っ白になりながらも言葉を繋ぎ叫び続ける。
「僕は、25歳で独立する時。この会社も一緒に責任もって、持っていきます!」
「はぁ~?」
俺の心からの魂こもった宣言と覚悟を剛速球で投げつける。
そのボールは、キャッチャーミットを大きく外れて、暴投のようにとんでもない所へ飛んで行った。
木島菊道工場長の顔が、怒気で真っ黒だったのが次の瞬間には、呆れはて・・・な顔になっていた。




