水曜日
今日は朝から、真っ黒な雲に覆われて、大雨だ。
大きめの傘をさして、屋敷を出る。
候葺縁さんやシゲさん、果ては仁父さん迄、駅まで車で送っていくと言ってくれたが、全て丁寧にお断りして、俺は一人大雨の中を地下鉄 神谷町まで歩いていく。
俺は神谷町から渋谷に向かっていくが、神谷町の出口階段で困ったようにしている、若いOLを見つけた。
どうやら、傘を電車の中に忘れて来てしまったようで、会社までこの土砂降りの雨の中をどうしようか考えているようだった。
俺は、自然な態度で(身長が180センチあるから脅かさないように)腰をかがめて優しく話しかける。
「よかったら、この傘を使ってください。」
自分の大き目のしっかりした傘を差しだした。
女性は、巻き毛の笑顔が素敵な明るい女性だった。
年の頃は、、、20代半ばくらいか
「えっ、それでは、あなたが困ってしまわないですか?」
女性は、逆に俺の心配をしてくれた。
俺は、腰をかがめたまま
「私の会社は、駅近くなので大丈夫です。」
「えっ、で、でも、、、高そうな傘ですし、、お返しするのにどうしたら、、、」
女性は、困惑していた。
見ず知らずの若い男性に、突然親切にされる。
東京では、疑って思うのも仕方ない。
下心あってやっているわけではないので、俺は胸ポケットから自分の名刺を出して、相手に渡す。
「僕はここの会社に勤めています。妖しい人間ではありません。傘は返していただなくても結構ですから、どうぞ使ってください。」
「あなたのような人がずぶ濡れで、出社したら皆驚くでしょう?」
自分では、至って普通の事を普通にやっているつもりだが、女性は最後まで困惑していた。
「あ、あの、、で、でも、、、」
「気にしないで下さい~、困った時はお互い様です。」
俺は言うだけ言って、名刺と傘を無理やり渡して、地下鉄の階段を駆け下りていく。
そして、渋谷駅に着く。
(さぁ~て、勝負はここからだぞ、会社まで猛ダッシュで3分半。)
外は、変わらずの豪雨の槍が、無残に空気を切り裂いている。
地面にたまる、大量に水たまり。
傘傘傘のパラソルが、渋谷のスクランブル交差点を彩っている。
信号が青に変わると、同時に猛ダッシュ!!
3歩走り出した時に、大声で聴きなれた声が、俺に投げかけられる。
「火吹君!!入っていきなよ!!」
安藤聡先輩だ。
俺は、内心ちょっとほっとして、「良いですか?」と後ろを振り返り、同時に安藤先輩の傘の中に飛び込む。
安藤先輩は、不思議そうに俺を見て
「こんな雨なのに、傘はどうしたの?」
「ええ、神谷町の駅で、電車に傘を置き忘れて困っていた女性にあげてしまいました。」
安藤先輩は、雀斑だらけの顔をクシャッと微笑み
「実に火吹君らしいね」
「はは」
俺は、男で若く体力もあり、普通の人以上に頑丈に出来ていると自分でも思う。
それなら、自分より弱い女性やお年寄りを助けるのは、火吹武将にとって、特別な事では全く無いのだ。
それが彼のスタンダード。
普通なのだ。
今時と捉えられるかもしれない、また逆に悪者なのではないかと疑われることもあるかもしれない。
それでも、変わらない。
火吹武将という人間は、絶対ぶれない。自分を貫き通す。
だからこそ彼の周りには、自然と素晴らしい人間たちが自然と集まってくる。
彼を慕って、また尊敬して。
その第一人者が、彼の妻である火吹舞なのは、現実の状況がすべて表している。
17歳にして、結婚、高校中退、出産、就職、仕事での実績。
どれをとっても、普通とは言い切れない。
それがやはり彼のスタンダードだ。
ひとつの傘を大の男、2人で本社まで歩いていくと、やはり多少は濡れてしまった。
傘を半分化してくれた、安藤先輩にお礼を言い。
自分のロッカーに入れてあった、タオルを先輩と二人で使い、濡れたスーツを拭き、仕事に入る。
今日の午前中は、技術開発研究室での研修だ。
技術開発研究室は本社ビル地下にある。
入るには、厳重なセキュリティチェックがあり、白い帽子に白いマスク、白の作業着を着て完全武装の無菌室に入っていく。
途中に、消毒場所があり長靴、手袋を消毒し、全身に風を浴びて埃を飛ばす通路を通り抜けて、やっと研究室内部に入れる。
元々、京仁織物株式会社は仁社長の実家である、京織物の販売からスタートした会社だが、今では高級雨具から様々な素材を使った、シートや布を製造研究販売している会社だ。
特に、商品の柱である高級雨具【TE・COOT】ブランドは世界でも使用されている、高級カッパである。
一般向けから、登山用、果ては山岳救助隊が使用するような商品まで取り揃えている。
軽くて、丈夫で長持ち。
通気性がよく、丸めるととてももコンパクトになる。
持ち運びに便利、カッターでちょっと切ったくらいでは、切れない。
メイドインジャパンの誇れるブランドだ。
技術開発室では、室長の小田井雄二課長が俺達に説明してくれた。
銀縁の眼鏡の中に、厳しい意思を表現したような鋭い眼光が、切れ長に光っている。
背丈は、安藤先輩と同じくらい175センチくらいだが体重は半分あるんだろうかというくらい、超やせ型の体型だった。
小田井課長が、静かに鋭く話を始める。
「まぁ、社長に頼まれたのだから仕方ないですけどね、正直、君たちに割く時間と手間が惜しいんです。」
俺は、防護服のマスクの中で、小田井課長の鋭い眼光を直視して
「お忙しい中、私どもの為に時間を取っていただき、心からお礼申し上げます。」
安藤先輩と同時に、最敬礼のお辞儀をする。
身長180センチの俺が防護服を着ると、実際約2メートル近くあるように感じる。
その俺が、丁寧に下からお願いするようにお礼を言うと、小田井課長は少し気を良くしたように、会議用のテーブルに俺たち二人を案内した。
(大分、神経質の様だ、、、)
それが俺の小田井課長の第一印象だった。
小田井課長は、席に着くとすぐ話を始めた。
「ここは当社の心臓部と言ってもおかしくない場所だ。」
「【TE・COOT】を開発商品化したのも僕だからね」
俺は素直に感嘆の意を表す
「それは、素晴らしいですね。今の京仁織物株式会社があるのも小田井課長のおかげなのですね」
小田井課長は更に、気を良くしてどんどん高い声で、喋りだす。
「今研究しているのは、ケプラー繊維というものを君たちは知ってるか?」
俺は自分の頭の中の辞書から引っ張り出した、意味を話した。
「確か、警察や軍の防弾チョッキに使われている繊維だったように記憶していますが」
小田井課長は、出来の良い生徒を褒める様に
「よろしい、そのケプラー繊維と我が社で開発した繊維を混合して、新しいシートを開発している。もちろんこれは社外秘だ。君たちには秘守義務が現時点で発生した。」
俺と安藤先輩は二人で同時に頷き「わかりました」と答える。
しかし、入社1年目と2年目の未成年の社員に車内特秘事項をこうも簡単に言っていいものなのだろうかと、思うが
これも、仁社長の思いやりなのだろうと理解することにした。
小田井課長の話は、ほぼ一方的に難しい言葉をそのまま、使い理解できない部分は、全て書き写し帰宅してから調べる事にした。
今夜も徹夜か?
安藤先輩も一生懸命頑張っているが、あまりに膨大な量の専門用語についていけてない感は、満載だった。
実際俺でも、わからない単語の嵐だ。
午前中の研修時間は、あっという間に終了した。
防護服の外側から見たら何の変わりもなく終了したように見えただろうが、中の二人は髪の毛からつま先まで、体中汗でびっしょりになっていた。
もちろん、防護服を着ているから熱いという事もあるが、何といっても集中力を一瞬でもとぎらせたら、ついていけなくなってしまう内容に必死についていくため、脳をフル回転させて勉強していたせいである。
そして、午後 俺と安藤先輩は、第2法人営業3課の自分のデスクに座って、昼食を取っていた。
安藤先輩が話しかけてくる。
「技術開発室って、凄い所だったね」
「そうですね、僕もちょっと驚きました。」
「それに、あの小田井課長はかなりな変わり者の様に僕には見えたけど、火吹君はどう思った?」
「そうですね、人の事をどうこう言うのはあまり好きではありませんが、個性的ではあると思います。」
「火吹君らしい、言い方だね。」
そこに木下主任が、大声で電話の受話器を置いて声をかけてくる。
「火吹君!外線3番に電話だよ。」
俺は直ぐに「はい、ありがとうございます」と答えて、外線3番のボタンを押して受話器を取る。
「はい、第2法人営業部の火吹です。」
「お仕事中に突然お電話してしまってすいません。」
若い女性の声だ。
「はい、大丈夫です。どのようなご用件でございますか?」
俺は、普通に丁寧に話す。
相手は意外な女性だった。
「あ、あの今朝、神谷町の駅でお傘をお借りした、菊池と言います。」
(ああ、電車の中に傘を置き忘れて困っていた女性だ)
「これは、どうもわざわざご丁寧にお電話ありがとうございます。」
「い、いえ、こちらこそ本当に助かりました。」
俺は変わらずにいつものように話した「それは、よかったです。」
「そ、それで、もしよければ今晩、お傘をお返ししたいと思うのですが、ご予定はいかがでしょうか?」
「いえ、安物の傘なんで、そのままごみ箱にでも捨てて下さって結構ですよ」
「で、でも、友人に聞いたら、とても高価なブランドの傘だと聞きました。天気予報では、雨も夕方には上がるようなので、よろしければ神谷町駅で、お返しできればと思いますが、、、」
俺は一瞬だけ逡巡して
「それでは、19:00に神谷町駅の今朝お会いした出口で如何ですか?」
女性は、受話器向こうからも聞き取れるようなホッとした感じで
「わかりました、19時。今朝の出口ですね。お待ちしております。」
「ご丁寧にすいません。では後程、失礼いたします。」
と言って、俺は受話器を静かに置いた。
安藤先輩は、好奇心モリモリで俺の方を見て
「朝、君が傘を貸した女性からなの?」
「ええ、傘を返したいと言うので会う事にしました。」
「良かったら、僕も一緒に言ったらダメかな?」
「えっ?安藤先輩が、ただ傘を返してもらうだけですよ」
「いや、今晩 神谷町駅の近くのレストランで母が僕の就職祝いを兼ねて食事を御馳走してくれると言うのでね、時間つぶしと只の好奇心なんだけど、ダメかな?」
「いえ、別にそれほどの事でもありませんが、先輩がそうおっしゃるなら」
っと簡単に引き受けた、約束が人生一生の出来事と関わりあってくるとはこの時には、想像もしていなかった、二人である。




