目覚め
黒衣の男が奈落へと落ち、深淵で七色の闇に覆われてから如何程の時が流れたのだろうか。
眠り続ける男に時の流れなど分る筈もなく、七色の泥土の中で母に抱かれた赤子のように眠り続けていた。
傷は既に塞がり、驚くべきことに打ち砕かれ腕も再生を終えていた。男を生かすための食事も、その結果起こる排泄も全て七色の泥土が処理をし続けた。
何故に、七色の泥土は男を世話するのか。本能的な行動か、何かしらの思惑がある行動かは傍から見ただけでは分からない。
ただ、七色の異様な色味の蠢く軟泥は男を生かし守り続けた。
そう、守り続けたのだ。深淵は恒星の輝きも届かない地上の深海が如き場所。
そこに住まう魔物は皆、地上と比べれば異様であり、生きる事に必死だ。だが、そのどれもが七色の泥土には刃向う事は無かった。その泥中に人と言う極上の餌があるとしても。
七色の泥土は深淵の主のように暗い地の底を男を取り込んだまま這いずり、徘徊した。
見た事もない結晶岩に刻まれた奇怪な文字めいた文様。薄く桃色に輝くガスが噴き出る祭壇めいた石の連なり。そして、何処までも暗く湿った硬質な地の底。
男が目を覚まし、その光景を見たならばきっと正気は保てないだろうと思われる奇怪なロケーションが深淵には数多くあり、それらを七色の泥土は這いずり回った。
一体如何程の朝と夜が繰り返されたのか、この穴の底では知りようがない。
それでも、時は廻り続け、遂にその時が来た。
黒衣の男の目覚めである。
意識を取り戻して、身じろぎした黒衣の男は、ゆっくりと瞼を開けようとした。まるで、水中にでもいるような僅かな抵抗を訝しみながら彼がまず見た物は……七色の泥土である。
それが眼球に直接触れたばかりか、鼻腔や口腔から胃や肺等の内臓まで埋め尽くしていると言う現状だ。控えめに言っても激しく混乱した。物を考える前に慌てふためき、手足をばたつかせ七色の泥中をむやみに掻き回した。
僅かな時間でしかなかったが、七色の泥土は名残惜しげに暴れる男から這いずり離れた。その感覚は異様な物である。口や鼻、それに尿道などの穴と言う穴から七色の泥土が潮が引くように去っていくのだ。異様と呼ばずして何と言おうか。
「――女だったならば、犯されたと泣き崩れる所だ」
黒衣の男は己の体内からも這い出てきた七色の泥土を睨みながら、屈辱を感じた。だが、自身の口や鼻を手で触った時に不意に思い出す。確か、腕は吹き飛んでいたはずだと。
「お前が?」
光差さぬ深淵の只中に在っても、仄かに七色に輝く泥土だけは見て取れる。僅かに離れただけでふるふると小刻みに震え続ける泥土を見つめながら、黒衣の男は己の手の感触を確かめた。
「――ありがとう」
実感はなかった。だが、どう考えてもコレが己を治してくれたらしい。その考えに至れば、黒衣の男は軽く頭を下げて礼を述べた。不用意な行動ではあった。或いは目覚めたばかりで思考が回らなかったのか。理解できぬ何かに向けて視線を外したのだから。
だが、七色の泥土は相変わらずふるふると揺れるだけだった。襲いかかりもせずに、逃げる訳でもなくただただ、その場で緩やかに揺れているのだった。
【続く】