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風邪の日

作者: sino

風邪をひきました


私は何をしているのだろう。

そう考えながら、私は今日6つ目の駅を降りた。信じがたいほどに風邪は深刻である。


私は見栄っ張りな人間だ。ただの会社員ではあるが、他の一般的なサラリーマンと同じ目線で見て欲しくない。特に取り柄のない私がその薄っぺらいプライドを守るために、『皆勤賞』は欠かせない勲章であった。

もちろんその為の努力もしている。咳一つで葛根湯、頭痛がすれば栄養ドリンクを一気飲みだ。そんな私の様子と栄養ドリンクで棚一つ埋まった冷蔵庫を見て妻は苦笑する。

「過剰すぎるんじゃない?」

「そんなことは無いさ。異常なんてない方がいいだろう。」

それを聞いて妻は更に笑った。対称的に私は不機嫌になった。私は至って真面目である。


今朝の私は咳き込んでいた。昨晩はあんなに笑っていた妻も今は心配そうに私を見つめている。

「大丈夫?あなた風邪気味よ。今日は休んだら?」

「休む!?何を馬鹿なことを。だいたい私が風邪をひいて休んだことがあったか?」

「高校の頃、37度の熱で『今日俺は死ぬんだ…ああ…無常だ…』って。」

「この話はなかったことにしよう。」

そう言いながら玄関の扉を開けた。妻はまだ心配そうである。

「とりあえずポケットティッシュは2つ入れておいたから。何かあったら帰ってきて。」

「ああ。いつもの時間に帰るよ。」

妻に手を振って私は駅へ歩き出した。これが軽率だったと知るのは10時間後のことである。


事態は深刻であった。ポケットティッシュは私の鼻から無限に湧き出る鼻水の前に儚く散っていった。鼻が詰まると息も詰まる。とうとう風邪が私の体に侵略を始めたのだ。

電車に乗るやいなや向かいの扉に体を預けた。それ程までに私は衰弱していた。最後の踏ん張りのための気力は、風邪かと心配する上司の前で「治りかけですよ」と笑い飛ばした時に使いきっている。「見栄を張る時と場所ぐらい選べ」と妻は言うだろうか。体は次第に重くなる。

電車がひと揺れする度に鼻水が垂れそうになる。限界だ。じきに鼻腔の許容量を超える。何かしらの対策を考えねばならない。

頭でそう考える前に体が動いていた。というよりはもたれかかっていた扉が急に開いてしまったわけだが。幸いだったのは、私が降りた目の前にトイレがあったことだった。

「……」

伸ばしかけた手を止めた。良いのか、その紙を取ってしまって。しばし膠着する。冷や風が私の体をなぞった。

「…一度だけだ。」

こうして私は悪魔と契約した。


タバコなども一度やると辞められないという。そのうえ、吸うペースもだんだん増えていくのだとか。

それと同様に、私が駅を降りるペースは時間を追うごとに短くなっていった。そして今日6つ目の駅を降りる時には、もはや一駅我慢することすらままならなくなっていた。

その場しのぎを終えて、私はベンチに腰掛ける。もはや動かすことも厳しい右手でラインを開いた。妻に自分の現在地と「帰りが遅れる」というメッセージを送ったことを確認する。ホッと一息ついた。

この駅にはトイレが改札の外にしかない。よって、今座っているベンチはバスのロータリーにあるものだ。

私はいつ帰れるのか。残りの駅数を考えて、私はますます弱気になった。意識が朦朧とする。

「あいつの話を聞いておくべきだったか…」

今にも消えてしまいそうな声で、妻の前では絶対に言わないような弱音を吐いた。しかし、今更後悔したところで…

「その言葉は遅いわ。」

「そうだな…」

意識が混濁していたからだろう。疑問は遅れてやってきた。私は今、誰に向かって返答したのか。鉛のように重い瞼を開いて、私は答えを確認した。

「…何してるんだ?こんなところで。」

「迎えに来たのよ。」

背後を覗く。家の車が見えた。よく見れば、妻は買い物カバンを背負っている。

私の目線に答えるように妻は言った。

「白菜はそこのが一番安いの。」

「今日は鍋か。」

同意を主張するかのように妻はカバンを持ち上げた。

「ええ。好きでしょ?」

「君ほどじゃないけどね。」

「私の顔が赤くなっているわ。」

「風邪じゃないかな。」

その問答で私の体力を測ったのだろうか。妻は振り返って、車に向かって歩き始めた。私も頑張ってその後を付いていく。

しかし、気を緩めたからだろうか。さっきより速いペースで鼻水が垂れてきた。

「そう言えば、ティッシュはあるかい?」

「あるけど…ないの?」

「ああ。もう使いきっちゃってね。」

「へえ、買わなかったのね。」

虚をつかれた。そうだ、コンビニにでも行って買えば良かったじゃないか。

私のそんな様子に妻はニヤリと笑った。

「『買わなかった』というより『買えなかった』のかしら。相当疲れてるのね。明日は休みなさい。」

「…いや、行く。」

直後、妻のドアを開ける手が止まった。

「行かせないわよ。」

「ふん、止めれるものなら止めてみるんだな。」

「…力量の差が分かっていないようね。」

じっと睨まれる。妻は黒帯の元柔道家だ。確かに普通にやれば勝てないだろう。だが…

「私をなめるなよ。君が病人に技をかけないことぐらい分かっている。」

「いいえ、かけるわよ。」

「そうかあ…かけるのかあ。」

本気の目だ。あの目は躊躇なく技をかけようとする目だ。あいつには病人に技をかけてでも私の通勤を阻止しようとする覚悟がある。

なんとか抜け道を探そう。何かあるはずだと痛む脳を回転させようとしたその時である。

私の携帯が鳴った。上司からだ。

咄嗟に妻に目配せする。一時休戦だ。仕方なく妻はドアを開けた。

「もしもし、山本ですが。」

「ああ、突然すまない。実は言わなければならないことがあってね。」

丸まった背筋を伸ばす。思わず唾を飲んだ。

「何か急な要件ですか?」

「君に関して言えばね。」

何だろうか。もしかすると昇格のチャンスかもしれない。心臓の鼓動が早くなる。

「それでその要件というのは…」

「ああ、その要件は…」

その要件は…


「明日は休んでくれないか?」

上司の言葉は、私の予想の斜め上を超えてさらに直角に曲がった。

「え?」

「いや、君ってまだ有給消化していないだろう。今日しんどそうだったしそろそろ休んでもらおうと思ってね。」

「いえ、要りませんよ。そんなもの使いませんから。」

「それは私じゃなくて厚生労働省に言ってくれ。それじゃあ。」

「あ、ちょっと…」

私の呼び止め虚しく、電話から機械音が響いた。

私はしばらく携帯を見つめていたが、その後ゆっくりと顔を上げた。

「明日はショッピングにでも行こうか。」

「絞め殺すわよ。」

私の口から出た笑いが乾いている。無事に明日を迎えられるのだろうか。しかし、そんな心配をよそに空気の抜けた風船のように急速に私の体から力が抜けていった。

「全く…皆勤賞って何だよ。」

「さあ?学校が生んだ幻想じゃない?」

「なら私はその幻想に取り憑かれた亡霊ってことか…」

「よかったじゃない。体が返ってきて。」

私は笑った。妻も笑った。夕食は鍋で明日は休み。なんだ、楽しみしかないじゃないか。未来は明るい。

「風邪も悪くないかもしれないな。」

「ふーん、駅に置いてきてあげようか?」

「…冗談だ。2度と言わない。」

「分かったなら、2度と調子に乗らないことね。」

車は国道に沿って家路を走った。



翌日のことである。私は近くのコンビニで買ってきたレジ袋を机の上に置いた。買い足した栄養ドリンクがついに下の棚に浸食し始めている。私は冷えた栄養ドリンクを2本取り出し、1本を寝床にいる妻に手渡した。

「な。予防って大切だろう。」

「ええ…一理あるわね。」

顔を真っ青にした妻が布団から出てくる。あの後、私の風邪の菌は普段の予防のおかげか一晩ともたずに壊滅した。しかし、代わりに今は妻が病床についている。

結局、有給は妻の看病にあてることになりそうだ。


会話文の構成に関して、今までとは少し違った感じになっていると思います。「とある1日の二人」の最終回についてはまだ時間がかかりそうです。

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[一言] 私も夫に技をかける妻です(笑)
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