小説を書く動機について
感情の整理をすると、良い感じに言葉が出てくる事があります
これを見ている執筆活動をしている人。又は、これから執筆活動をしてみたいと考えている人。
貴方達は、どうして創作活動に手を出そうとしたのだろうか。
人によって理由は様々だろう。元々空想するのが好きで。それを表現したいと思ったから。有名な作家のように自分も書いて見たいと思ったから。はたまた人気になって他者にちやほやされたいと思ったからだろうか?
なんだって良いだろう。小説を書くのに理由なんていらないと筆者は思う。やりたいと思った、それだけで良い。何かを始めるのに、大層な理由等いらないのだ。最初の一歩を踏み出してしまえば、後は書いていくだけなのだから。動機なんて後から考えても良いと思っている。
さて、筆者が小説を書き始めて、もうすぐ1年が経過しようとしている。飽き性である自分がまさか一年も続けていられるなんて、自分で自分を褒めたたえたいと思う。うん、アンタは偉い!
続けていられる要因は色々ある。評価してくれた人。感想を描いてくれた人。挿絵を描いてくれた人も居る。無茶な要望をしたのに、最高に可愛いキャラクターを描いてくれた。可愛いキャラが出来ると。動かすのも凄い楽しくなる。どんどん書きたくなる。やる気につながる。
他にも、毎回事ある毎に「小説を書け」「続きを上げろ」と言って来る人が居る。時には更新したその日に言って来ることもあった。正直やかましいと感じていた時もあったが。その言葉が執筆活動を続けていられる要因でもあった。言われる度になにくそ!と小さなやる気の炎が自身の胸の内に灯るのだ。
色んな人に応援されたおかげでここまで書いていけている。この場を借りて感謝したい。ありがとう。
さて、ここらで筆者の動機について説明しようか。何?興味がない? まぁまぁそういわずに、少しだけでも付き合って下さい。
筆者は相応に人生を上手く生きるのが下手糞な性分だった。詳細は控えるが、あれやこれやと悪手ばかりを選び、人生が詰んでいた時の事だった。
いや、今も詰んでいる状況ではあるが。あの時は本当に死ぬことすら考えていた。
毎日毎日自己否定を繰り返し、拭えない不安感を取り除くために必死だった。逃れられない現実が。鎖のように絡みつき。自身を締め付けていった。直前に悲しい出来事も会ったため、余計に心は荒んでいった。
そんな時何を思ったのだろうか。このまま死ぬには何もしていない。
何か少しでも、自分が生きてきた証を残そうと思った。生存本能が働いたのか。それとも長年溜め込んでいた欲があふれ出てきたのだろうか。とにかく何かを形にしたいと思ったのだ。
最初は絵を描こうと思った。好きなキャラクターの色々な表情をしたいと思っていた。そして1本の線を引いた、よれよれのぐちゃぐちゃな線だった。自分は線すら満足に描けなかったのだ。
後で、綺麗な線を描くのも努力しなければいけないと気付くのだが、当時はそれで絶望した。それで絵を描くのを諦めていた。
小説を書き始めたのは単純に自分でも描けると思ったからだ。文字を書くなんて子供でも出来るし、丁度今流行りの転生物で良い作品があったから、それを参考に書こうと思った。もしかしたらそのまま人気になるかもしれないなんて考えていた。
今思えば、なんて浅はかで不純とした動機なのだろうと思う。でも何かを始めるなんてそんなもんではないだろうか。とりあえずやってみよう。その気持ちは何に置いても大事な事だと思う。
いざ最初の話を書いてみた。テンプレと言われる通りに描き進んでいく。プロットなんてものは存在しなかった。元となる作品を参考にし、脳裏に浮かんだ事をそのまま書き連ねていった。
最初の話を書いた時。不思議な満足感と。楽しさが感じられた。たかだか1話書いた程度で、根拠のない自信が沸いてきた。「なんだ、自分は小説の才能があるじゃないか」 そんな事を思っていた。それが大きな自惚れだと気付くのはすぐ後の事である。
その後勢いに任せて。その日の内に3話程度書きあげて投稿をした。充足感が体中から溢れ出ていたのだ。これで創作者になれた。もう何も産み出せない虚無の日々は終わりを告げたのだと。この時は確かに感じていた気がする。
結局その日から、暇さえあれば続きを書いて行った。最初はただただ楽しかった。拙い文だし、不出来な内容だ。今の自分が見たら鼻で笑ってしまうような駄文を書いていた。
でも、その作業がとにかく楽しかった。脳裏に浮かぶのは魅力的なお話で、描くキャラクターは最高のヒロインだった。
勢いだけで10話程度書いていった時。とうとう筆者は、その作品を他人に公表しようと思った。理由は単純、賞賛が欲しかったからだ。
人は、何かの創作をしていると、それを他人に見せずにはいられないのだなと感じる。欲というのは際限なく溢れて来るもので、それに歯止めをかけることは無理な話なのだと思う。
あの時は自惚れていた。だけど、今思うとあの時公表しなければ、自分は小説を書く事をすっぱりやめていた気がする。苦い思い出だけど確かにあの日の事がきっかけで続けていこうと思った。
公表した結果は悲惨だった。心底馬鹿にされた。その内容は今でもネタにされているが、その話は置いておこう。
結局、勢いだけで書き連ねていった文章は、とてもじゃないが読み物としては最低の部類だった。
国語の授業は寝ていた。読書感想文は適当に出していた。真面目に勉強してこなかった者の文章は、拙い物であり、まさに便所の隅に書いている落書きと同等な内容だったのだ。
その時、自身に満ち溢れていた自我は崩壊した。自分は何をしていたのだろうか。悔しさがこみ上げ。羞恥でおかしくなりそうだった。その日は泣いた。泣いて泣いて泣いて。その日も不貞寝した。
悔しかった。もっと上手くなりたい。そう心に誓った。
その日から、小説の勉強を始めた。エッセイを読み、指南書を読み。過去の有名な小説を読んだりもした。次第にルールや書き方が分かっていった。それと同時に、小説の奥深さを理解していった。
小説を書くのが楽しくなったんだ。何度も何度も構想し、良い話を書こうと必死になっていた。その時に積み上げた物は、今の自分の基盤としてちゃんと成り立っている筈だろう。いや、そうであってくれないと堪える。
初めて書いた長編作品は、まだ連載中だ。これはまだ終わる予定はない。更新頻度は最初の頃に比べれば随分と落ちている。だけど、この作品は、自分の中でゆらゆらと燃えている、遅れてやってきた青春だ。どんなに遅筆であっても、絶対にエタる事がないようにしようと思っている。
他にも軽い短編小説をいくつか書いた。評価してくれたものもあれば、ブクマもついてないものもある。
執筆は孤独との戦いだ。誰かに相談するわけでもなく、ひたすら頭の中にある物語を紡いでいく。
自分ではなかなかの話しが作れたと思うが。実際に投稿してみると、これまた期待を大きく外れるものだ。不相応な評価を期待しているのかもしれない。
他者の評価に振り回されて、文体を変え、タイトルを変え。構成も大きく変わった。試行錯誤を繰り返しながら新しい文体を試したりもした。正直最初と最新のページでは、異なる文体の内容となっている。それも非難される要因でもあるのは間違いない。
話の内容は決まっているが、その通りに書いたことはない。ライブ感と言えば聞こえはいいが、計画性のない行動だ。プロットも意味をなさない。使われていない設定の数は、もう数えきれないほど存在している。
色々試行錯誤を繰り返すのだ。読まれるように、楽しめるように。そうして苦労して書いた小説が非難されるのは心底腹が立つ。
非難されるのは仕方ない。そこから欠点を見つめ直す事で、新たに成長をする事が出来る。理屈ではそうだ。だが、感情の方は抑えきれない怒りでいっぱいになる。心がぐちゃぐちゃに掻き乱され。正常な判断は出来なくなる。とても苦しい事である。
一つ訂正をしておこう。小説を書く上で、一番心にくるのは、作品を非難される事よりも作品を見て貰えないという事だ。
確かに非難されるのは嫌な事だ。怒りも沸いてくる。しかし、自身の作品を見て貰ったという事の何よりの証なのだ。決して非難が良い事だとは言ってはいない。見られないことよりかははるかにマシという事だけ。
脳を使い。必死に執筆を行って。やっとの思いで投稿した作品が、誰にも見て貰えないというのが一番堪えるのだ。
多くの作者は、そこで筆を折ってしまうかもしれない。感想も評価もつかない。アクセス数すら伸びない。自分のやってきた事が無駄に終わるというのは、耐えがたい苦しみを感じる。
誰にも見られていないと分かった時。取れる選択肢は二つある。その作品を最後まで書き上げる事か。途中で終わらせてしまう事だ
前者は苦痛を伴う。誰にも見られず、それでも書きつづけるなんて。誰もいない虚空に呼びかけるのと一緒な事だ。
小説というのは誰かに見られてこそ初めて小説と呼べるのだ。どんな大作だろうと、公表しない限りは駄作以下。見られなければ小説とは言えないのだ。そこだけは理解してもらいたい。
駄作を公開するな。大作だけを見せろという意見もあるだろう。しかし、誰もが知っている大作というのは、その人が作り上げた数多くの駄作の上に成り立つ物だ。駄作があったからこそ大作が作り上げられる。だから、自分の小説がどれだけ酷評を喰らおうと構わない。それが全て、後に出る大作に繋がるかもしれないからだ。
非難されて心が折れそうになる時はある。軽い動機から来るものであるなら尚更だ。何かをする動機なんて別に何でも良いし、それでやり続けているなら。それは立派な事ではある。ただし、それを否定された時に。動機が軽い人は、わずかな事で心が揺らいでしまうのであろう。自分がそうであるからだ。
後者の方は簡単だ。やめようと思えば今すぐにでもやめられる。実際に何度もやめようと思ったことだ。しかし、出来なかった。どんなに見られていなくても筆を折れない自分が居た。どうしてか?
愛情が芽生えていた。自分が作り上げた作品。ない頭をフルに使い。試行錯誤を繰り返してどうにか形となる作業をする。それを繰り返していく内に自然と自分の作品を好きになっていった。どれだけ憎く思っても。手放す事が出来ないのは、まるで自分の子供のようだった。
生憎自分にはそういう縁はないが。子供を見守る親の気持ちというものが、少しだが分かった気がした。だから、自分の子供が非難される所を見ると、頭に血が昇りどうしようもない怒りが沸いてくるのだ。
それは自分の作品を愛しているからだ。こうなるともう執筆をやめる事は出来ない。どんなに苦しくても。どんなに空虚な事であっても。自分が手掛けたものは最後の最後まで見届けてやるのが作家としての責務だろうと思う。
だから作家達は、あの手この手で読んでもらおうと必死になるのだろう。傍目から見ると。ただのなれ合いのように見えるかもしれない。滑稽に思えるかもしれない。でも、彼らも必死なのだ。自分の作品を、たくさんの人に見て賞賛してもらいたいのは。親ならば当たり前の感情だからだ。
でも、やっぱり辛い事はある。そういうときはこうしてガス抜きをしながら。私は今日も描き続ける。自分が生きてきたという証を残すために。
それが何時まで続くか分からないけど。とりあえず、その作業が楽しいから。飽きるまでは続けたいと思う。飽きたらどうしようか。また絵でも描こうか。小説が描けてるなら絵も出来るだろう。前にやった時は続かなかったけど。今回はいけそうだ。そうしてそれも飽きたらまた小説に戻るか。うん、それが良い、道は一つではないからな、色々な事を試していこう。
まぁそんなこんなで愚痴を履き散らした今回の内容でしたが。これを見て賞賛の言葉を送り付けろそれ以外は許さないぞ!なんてそんな事を言っている訳ではありません。
もちろん、貰えたら嬉しいですが。作品に対する批評も非難も全然OKです。たくさんの人に読んでもらえれば自分はそれで良いのです。命を注ぎ込んだ自分の子供が、無事成長していけるように。どうか見守っていて下さい。
そんな訳で。絶賛連載中の小説
「リンカネ☆最強魔道士ヒロの異世界冒険」 筆者の遅れた青春の物語どうぞ一読願います。