とある町の日常
「は?」
間抜けな声は、目の前の人物の肩を超えて虚空に消えていく。
見たこともない、思い入れも何もない虚空へ。
いや、そんな見慣れない空の詩的表現に勤しむ暇などはない。
目の前のバケツを持って立つ人物、もといご婦人が何やら声を荒げている。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!!」
物理的に寝耳に水、いや、物理的に寝顔に冷水をぶっかけられ動転したツバキの頭は、何を言われているのか理解しようとしない。
ぶつけられる言葉も、自分の状況すらも。
しかし、はっきりとわかっていることもある。
間違いなく、今の自分はなにかまずいことになっている。
理解できないこの状況を、端的にヤバいと本能が断じている。
ツバキはどうやら地面に座って、何かにもたれているらしい。
座ってといっても、腰のあたりまで地面にベッタリとつけているようで、打ち捨てられて壁にもたれかかっていると言った方が良いだろうか。
産まれてから毎日付き合ってきたこの身体は、自分の体勢を如実に伝えてくれる。
そしてなにより、思った通りに動いてくれる。
軽く身動ぎそれを確認したツバキは安堵する。
これならいける。
そう判断したツバキが行動を起こすのは速かった。
「三十六計逃げるに如かずってやつだなこりゃ!」
そう叫びながら身体をゴロンっと左に勢いよく反転させ、両手で地面を力一杯突き上げ身体を起こした。
まだ身体が起き上がり切る直前には足を思い切り踏み込み走り出す。
見慣れず、逃げ場すらもどこにあるかわからない。
それでもツバキは駆け抜けていく。
すぐに息切れを起こす身体に、運動不足の四文字を叩きつけられる。
スピードを落とす言い訳をするように、一瞬だけ振り向いてみる。
追ってきてはいない。
安心しながら歩き出すが、やはり不安で振り向いてしまう。
そんな不安を掻き消すように、キョロキョロと街並みを見渡しながら歩く。
古き良き日本の街並み、、、、、を、西洋風にしたような雰囲気だ。
やはりツバキの地元ではない。
いや、そんなことがあるのか?
寝て、起きて、見知らぬ土地?
もしかして、まだ眠っているのか?
リアルな夢なのだろうか?
そんなことばかり考えているツバキの注意は、自然と散漫になる。
路地から人が出てきたことすらも気付かずに、左の肩をぶつけてしまう。
ぶつかり押された肩を支点に、身体が左に半回転し振り向く形になってしまう。
「あっ、わりぃ。」
ツバキはぶつかった相手にそう言った。
そう言いながら相手に視線を送った。
そして、固まった。
ぶつかり、不機嫌な視線を投げかけてくる相手は、おそらく男性だ。
普通に立ち、買い物と思しき袋を持っている。
袋を持つ腕には、灰色の体毛がびっしり生えている。
ツバキを眺める視線は鋭く、獣のようだ。
顔すらも獣のようだ。
いや、獣だ。
初めて見た。
獣人だ。
ツバキは子供の頃、近所で飼っていたシベリアンハスキーを思い出す。
ここまで、たったの約2秒と言ったところだ。
あまりに理解できない状況に、ツバキの頭はフル回転し、どうでもいい思い出まで引っ張り出してきていたのだが、
「は、、、ははは、、、
いやー、わりぃね、、、
以後、気をつけますので。」
乾いた笑いと、とりあえずの謝罪をしたツバキの頭は、とりあえずまた走り出すことを選んだ。
自分の日常からは、弾き出された。
全く理解出来ない、とある町の日常に放り込まれた。
ついにツバキは、全く理解が追い付かない状況の状況を理解する。
有り得ないと思っていた。
今でも、有り得ないと思っている。
信じることなんか出来ないが、きっとこれはそういうことなのだろう。
「なんか、こ、これ、この前、深夜アニメで見たーーーー!!!!」
息を切らして走りながら、ツバキは絶叫する。
ツバキの絶叫を吸い込む空は、やはり見たことのない空らしい。
こうしてツバキは、放り込まれた。
とある町の日常に。