当たり前の日常2
男は吐瀉物と若者の間を通り抜けながら、視線を路地の先へやった。
薄ぼんやりと光る看板と、唸るエアコンの室外機の間に、男の目的の場所がある。
目的の場所へ続く、地下へ潜る階段があった。
目的の場所を見つけた男の足取りは、先程より少し軽く見える。
室外機の上の薄汚れた白色の野良猫の頭を軽く撫でる男はやはり、少し機嫌が良さそうだ。
階段を一段、二段と降りた辺りで、何か空気が変わる。
さらに三段、四段と降りると、明らかになにかの音楽が聞こえてくる。
長くない階段を下り切ったそこは、薄汚い路地裏とは別世界で、黒い鉄の扉が妖しくライトアップされていた。
「ツバキ!」
扉の前にある人1人がやっと入れる小さなカウンターから、女が声を上げる。
どうやらこの男はツバキと言う名らしい。
「おう。
どうだ?中は賑わってるか?」
「んー。まぁまぁってとこ。
平日の割には賑わってるかな。
23時からDJが適当にトラック流しながら何人かステージに上げるらしいからそれでかな。
ツバキももちろん上がるでしょ?」
女が嬉々とした顔でカウンターから身を乗り出す。
小さな顔を占領するような眼は輝き、期待に満ちている。
カウンター越しでは見えないが、足すらもバタつかせているなではないだろうか。
さながら、飼い主の帰ってきた仔犬だ。
しかし、その仔犬のような表現をする女に対して、ツバキは手を軽く振り、カウンターの中に戻れと言わんばかりにジェスチャーをおくる。
「ミナが期待してくれてるとこ悪いけど、上がらねぇよ。
あと、ツバキって呼ぶな。
今は21時過ぎだから、3000円でいいよな?」
ツバキがポケットから二つ折りにした千円札を取り出し、3枚数えて渡す。
それを受け取るミナと呼ばれた女は、これ見よがしに拗ねてみせる。
「まぁ、無理強いはそりゃしないけど?
上がってくれたら嬉しいなーって。
私だけじゃないと思うよ?
ツバキのこと待ってるの。
あっ、これドリンクチケットね。
1枚おまけしとくよ!」
そんな会話をしながらチケットを受け取ったツバキは、軽く微笑んで見せた。
重たい鉄の扉を押し開けながらツバキは、
「誰も待ってねぇよ、俺なんて。」
そう呟いたが、扉の隙間から溢れてくる音の波に掻き消され、誰にも届かない。
もとよりツバキも、誰にも届けようとはしていなかった。
扉の向こうに広がる、沢山の独りぼっちがいる世界。
赤や青の動き回る照明と、壁のスクリーンに映し出される踊る外国人歌手。
流行りの音楽を流すDJと、ここにいるよと声にならない声を上げて踊る人々。
それを眺める傍観者。
そんな独りぼっちの群れを抜けて、ツバキは喧騒のなかにある静寂を目指して歩く。
その静寂の中心には、小さなバーカウンターがあった。
ブラックライトに照らされたカウンターの向こうの壁にはたくさんの酒が並べられている。
そこだけは空間を切り取ったように、静かだ。
「テキーラと、スミノフ。
テキーラから先で。」
そう言いながらツバキは、ミナから受け取ったドリンクチケットを2枚カウンターに置いた。
「テキーラとスミノフね。
ライムも塩も要らないよな?」
バーカウンターの中の男がツバキにテキーラを差し出しながら聞く。
ツバキは答えもせずにテキーラを飲み干すと、グラスを無言で返す。
男は当たり前のようにグラスを受け取りながら、栓を抜いた酒瓶をツバキに渡す。
「俺が見えた時からテキーラ注いでたくせに、いちいち聞かなくてもいいだろ。」
ツバキが悪ガキのようなイタズラっぽい笑顔で酒瓶を受け取りながら笑うと、
「商売だからな」
と、男も笑う。
そんな会話を交わし、ツバキは二度ほど酒瓶を煽ると机に突っ伏した。
あぁ、やっと独りぼっちになれた。
そんな安堵にツバキは沈んでいく。
ここに、ツバキの求めるものなんてないのに。
求めるものがないことに、心底安心したように。