当たり前の日常
人は、いつだって自分に足りないものを求めるくせに、自分の持たないものの在処など知らない。
それ故か、気が付けばいつだって、自分の求めるものを自分の知っている場所で探し、自分の持っているものしか見つからない。
誰しもが、新たな一歩を踏み出すのを躊躇い、躊躇ったもの同士で、肯定し合う。誰も責められない。
薄汚く、ありとあらゆる臭気が混ぜ合わされた生暖かい風の吹く路地裏を、不機嫌な顔で歩くこの男も、例外ではないのだろう。
背中を丸めている。背筋を伸ばせば、160cm後半くらいの身長だろう。しかし、覇気なく丸められた背中の後ろ姿は、酷く小さく見える。
両手の親指を左右片方ずつ、履き古されたジーンズのポケットに、入れるとも、引っ掛けるともわからぬ収め方をして歩く。いや、ただ前に進んでいるだけで、歩くなんて格好の良いものではない。
年は、二十代半ばくらいだろう。
ジーンズと同じように履き古された、茶色のブーツをゴツゴツ鳴らして、前に進んでいた男が足を止めた。
覇気のないくせに、異様に鋭く、冷たく、刺すような視線を、その三白眼が送る。
そこには、人が2人並んで歩くのが精一杯の細い路地裏の道と、その半分をしゃがんで塞いでいるサラリーマン風の若者が居た。
ゴツゴツと足音を鳴らしながら、男は若者のすぐそばまで、ペースを変えずに歩み寄り、また足を止める。
サラリーマン風の若者が塞いでいる道の半分と、空いているはずの道の半分。
本来通ることのできたはずのその半分には、若者が吐き散らしたであろう吐瀉物が散乱してた。
路地裏から少しだけ見える真っ黒な空に一瞬だけ視線をやった男が、視線を若者に向けながら溜息交じりに言葉を吐き出した。
「吐くほど呑むなら、最初から吐く分はドブに捨てな。
次の日に残らねぇだけ、その方がマシだ。
てか、邪魔。どけ。」
その言葉を聞いた若者が、虚ろな目を声の出所を探して、一巡、二巡させる。
先程まで吐瀉物を吐き散らしていた若者が、言葉を吐きつけられる側に変わったことを理解して、口元を拭いながら吠える。
「うるせぇよ!
お前にお説教される言われはないだろ!お前は誰なんだ!
関係ないだろ!ほっとけよ!」
男は投げつけられる言葉を、興味無さそうに聞きながら、いや、聞き流しながら、ジーンズのポケットからタバコを取り出して、火をつける。
仁王立ちのまま、ふうぅっと紫煙を吐き出す男は、自分を見上げる若者をぼーっと眺める。
「そりゃそうだ。
お前は俺にお説教される言われはないし、俺もお前にお説教してやる義理もねぇわな。
俺が出過ぎた真似したな、悪かった。
で、だ。
俺はお前が誰かに興味はない。
お前が俺が誰かに興味があるなら教えてやってもいいけど、興味ないよな?
だから辞めとこう。
ただ今、俺が興味あるのは、お前が退くか、退かねぇかだけだ。
どうするよ?」
タバコの煙の吐き出し様に、一息で男は言った。
興味無さそうに。
相手にも、それを口にする、自分にも。
若者は自分を見つめるひたすらに黒い瞳を見つめていた。
何も言い返さずに。
何も言い返せずに。
「悪いね。
始めから、そうやって退いてくれたらお互いに嫌な思いせずにすんだんだ。
これはお説教じゃなくて、アドバイスだ。勘違いすんなよ。
退いてくれた礼のチップだと思って、胸にしまっときな。」
男がそう言いながら、タバコをブーツの底でもみ消すと、道が空いていた。
サラリーマン風の若者は、ただ呆然と壁にもたれかかり、男を見上げていた。
自分は、自分も気付かぬうちに、道を開けていたのだ。
こいつは、関わっては行けない。
そう、こいつは世に言うところの、ガラの悪い、チンピラだ。
若者がそう考えを巡らせ終わる頃に男は、またゴツゴツと音を立て、若者の前を通り過ぎていた。