20.ちくびがくろい
放課後、古文部の部室にて。
「直木先生。わざわざお時間を頂いてすいません」
「いや、いいんだ。それで、五反田。相談って言うのはなんだ?」
古文部の顧問・直木棒太郎は、部員の一人である五反田エムから「訊きたいことがある」と言われ、こうして部活の終わった後に時間を取っていた。
部室の中には二人しかいない。プライベートな相談でも、他所に漏れる心配はないだろう。
「先生。わたし、どうしても分からないことがあって」
「めずらしいな。成績優秀な五反田に分からないことがあるなんて。古文か日本史なら力になれるとは思うが」
「いえ。勉強ではなくて」
――となると、それ以外の――人間関係か? まさか、虐めだろうか。どことなく深刻そうな顔色をしている。
「なんでも話してくれ。先生で力になれることなら、なんでもしよう」
「ありがとうございます」
直木棒太郎は昨今の事なかれ主義な教育体系を憂う男であった。生徒が悩んでいるならば、そしてそれを相談してくれるのならば、一緒になって立ち向かう。
やらなければいけないことを、きっちりこなす。
それが彼の信念であった。
「先生。教えて下さい」
五反田は叫ぶように訊ねる。
「どうして男の人の乳首って、黒いんですか!?」
――――――――――――――――?
まず、何を言ったかが分からなかった。少しの間を開けて、脳が内容を聞き取った時、今度は言葉の意味が分からなかった。
どうして男の人の乳首って、黒いんですか!?
聞こえた言葉を頭の中で反芻する。
それから少し考える。男の乳首って黒いんだっけ?
ひるがえって、自分はどうであったか。きれいなピンク色ではないが、黒ずむと言うほど黒くもないはず。
「いやいやいや。そもそもなんで五反田は男の乳首が黒いと思うんだ? どこかで見たのか?」
「テレビで――あの、裸芸って言うんでしょうか。タイツを履いて上半身は裸の人とか、パンツ一丁の男性が安心して下さいとか言ったり、お盆で大事なところを隠したり――やだ、恥ずかしい事言わせないで下さい」
「ん。うん。すまん?」
事実確認していただけなのに怒られた。なんだか釈然としない。
だが、確かにいる。そういう芸人は、結構居る。おっぱっぴーとかみきてぃーとか叫んでいた気もする。だが、はて、その乳首は黒かっただろうか。思い出せない。記憶の裸にニプレスを貼られたが如く、ポッチ部分にモヤがかかっている。
「初めはそういうお仕事の人だから黒いのかな、と思ったんです。だから、確かめてみようと思って、先日久しぶりに父とお風呂に入ったんです。そしたら、父の乳首も黒かったんです!」
「…………高校生にもなって、よくお父さんは一緒に入ってくれたな」
「何故だか凄く反対されたので、後から押し入りました」
でしょうね!
「父は芸人ではありません。ただの兼業農家です。なのに乳首が黒かった。どうしてなんですか。たまたまわたしが見た人が黒かっただけですか。それとも男の人の乳首はみんな黒いんでしょうか。教えて下さい先生。わたし、気になります!」
五反田はいたって真剣であった。しかし、一方の直木は「なんぞこれ?」と困惑した様子であった。
だがそれでも教育者として真面目に考えた。彼は生徒の視点に立って考えられる良い教師を目指していた。だからこそ乳首の質問にも正面から向き合うことが出来た。
五反田は乳首が黒いことに疑問を持っている。つまり、それが異常であると思っている訳だ。ならば彼女の考える正常な色とは? ――ピンク、か?
彼女が見慣れている、もしくは正常であると思っている乳首の色はピンク色なのだ。そして見慣れているということは身近にあるもの。つまりは自身の乳首である。なるほど、彼女の乳首はきれいなピンク色なのだろう。
そして彼女は自分とそれ以外の乳首の色が違うことに気付き、疑問を感じているのだ。
と、ここまで考えてふと我に返る。これ口にしたらセクハラで一発アウトだな、と。
直木が考えを巡らせる間の沈黙をどう受け取ったのか、五反田は次の行動に移った。
「先生」
「――――ん? ああ、すまん。考え事をしていた。どうした?」
「もし、よろしければ。先生の乳首を見せて頂けないでしょうか?」
頭の良い奴ってのはどっかおかしいんだよな、と直木は失礼な感想を持つ。さもありなん。顧問の乳首を見たがる女は変人であろう。例えそれが学術的興味であろうともだ。
直木は生徒の意思を尊重する。だがこれはちょっと行き過ぎだろうと判じる程度には冷静である。
「五反田。自分が何を言っているかもう一度考えてみてくれ。それを聞き入れるのは教師の職分を越えていると思うんだ」
「分かっています。わたしのも見せます」
「よし、分かってないな」
余計悪いっちゅーねん。首んなるっちゅーねん。
直木は溜息を吐いた。どうしたものか。ここでもたつけば、五反田は率先して上着を捲りかねない。だが二人きりの教室で教師が半裸になり女生徒に乳首を見せつけるのは事案問題だ。
ここは一つ、お互いの要求を擦り合わせる必要がある。
五反田は直木の乳首が黒いのかを確かめたい。
直木は穏便に事を済ませたい。
――ふーむ。考えてみれば、悩むほどのことでもないか。
「五反田、少し待っていろ。トイレに行ってくる」
「いや! トイレでわたしに何をするつもりなんです!?」
「なにもしねぇよ! 待ってろって言ったろ!」
教室で面と向かって見せつけるからいけないのだ。トイレで写真に撮って見せてやればいい。ただそれだけのことだ。
「ほら。これでいいだろ?」
スマホの画面を向けて、写真に撮った乳首を見せる。
「いやらしい!」
「お前が見せろっつったんだよ!」
「違います。先生の乳首も黒い! 男の人はみんなこうなんだ!」
言うほど黒いかな、と写真を見直す。自分の乳首の色など気にしたこともなかったが、人から黒いと評されるとなんだかショックだった。
「わたし知ってます。漫画で読みました。触ったり――いじったりするから黒くなるんだって! つまり、先生は――父も――そういう、なんていうか、いくら性感帯だからって…………いやらしい!」
「お前普段何読んでんの?」
典型的な耳年増。
今、五反田に必要なのは正しい性教育である気がする。
「あのな。トイレで少し調べたんだが、乳首の色には個人差があるんだ。触って黒くなる場合もあるんだろうが、成長するにつれて自然と黒くなる場合もあるし、日焼けで黒ずむこともあるんだってよ。ほら、これ読んでみろ」
これまたスマホを使い、乳首の色に関する情報サイトをいくつか開いて読ませる。
「妊娠すると黒くなる……え、黒くなるのは赤ちゃんが見分けやすくするためなんですね……ピンク色に戻すクリーム!? ええ、こんなに効果が!?」
興味津々、食い入るように読みふける五反田。
やがて全ての記事に目を通した五反田は、大変満足した様子でスッキリした顔を見せた。
「ありがとうございました。わたし、先生に相談して良かったです」
そして足取りも軽く帰って行った。
なんというか、疲れる日だった。部室の戸締まりをしながら、溜息を吐く直木。
しかし、今回の件で彼にも一つの収穫があった。
五反田の乳首はピンク色。
「今日はいい夢が見られそうだ」
直木もまた、清々しい気持ちで帰路につくのであった。
自分の乳首の色を確認した人は腹筋三〇回。