18.遥か円寂は遠く到れず
昔から好きだった子がいて、告白をしたのが夕刻の話。
デート代わりに一緒に帰った放課後。
たまたま彼女の身内に不幸があり、両親が共に出かけたと連絡が来たのが送り届けた直後。
「家に一人だと不安だから――――一緒にいてくれないかなぁ?」
そんな言葉で締められたショートメッセージ。
沸き上がる情動。入り混じる不安と期待。これって、もう、そういうことなんだろう!
とんとん拍子のこの展開。据え膳食わぬは男の恥よ。
俺は! 今日! 男になるのだ!
◆
といったところで目が覚めた。
凄くリアルな夢だった。現実感があって、起きた今でも「え、本当に夢だったの?」と疑問に思ってしまう程に。
そりゃあ、確かにご都合主義だったかも知れないけど、本当に実体験のような感覚があったんだ。それがまさか夢だなんて…………ああ、本当に夢だったのか? 死にたい。あんな理想的な展開、起こるはずがないのに。マジ死にたい。
今日、俺は片思いを続けてきた女の子、清水ゆいさんに告白するつもりであった。そういう意味では幸先のよい一日の始まりなのかも知れない。一度成功のイメージを掴んでいるのだから。
でもこれで失敗したら悲惨だろうなー。反動付けて叩き落とされるようなものだ。フられた時点で立ち直れない気がする。
試しにその日一日は夢の通りに行動してみることにした。
するとどうだろう。
なんと、夢の通りに事が進むではないか!
結果告白は受け入れられ、一緒に下校を楽しみ、送り届けた直後に携帯電話が着信を告げる。届いた文面はもちろん夢の通り。
ということは。
と、いうことは、である。これから、か、彼女の部屋に招かれて、ムフフな展開に!?
いやー、まいったなー。期待と妄想で胸が膨らむじゃぁないか!
◆
といったところで目が覚めた。
いや、目が覚めたって言うか……。
受け入れがたい。受け入れがたいが事実である。
もしや、の疑念を通り越して、確信がある。
彼女の家へ招かれるタイミングで、俺は、一日をループしている。
こんな事が現実にあるはずがない。しかし確かにそれは起きている。ならば認めなくてはならない。自分に都合の悪い、悪夢のような現実を。
確信するに到ったのには理由がある。
一度や二度ならば自分を誤魔化すことも出来る。しかし、もう七度目だ!
ちくしょう…………ちくしょうっ!!
ヤりたい盛りの高校生が、その直前で振り出しに戻される。この拷問のような生殺し。何故だ。平凡な一介の高校生でしかない俺に何故こんな理不尽な悲劇に見舞われる。
神の悪戯か世界の意思か。俺と彼女が結ばれることにどれ程の罪咎があるというのか!?
くそう! やってられるか! こうなったらオナ○ーだ!
いきり立った俺のモンスターがこのままでは済まさぬと猛り狂っている。南無三。お預けも七度続けば我慢の限界というものだ。
解き放つぞ、俺のケダモノを! 平行世界の俺は既に清水さんと大人の関係になっているはずなのだ。次元の壁を越えて、俺の脳内に来たれ淫靡な一時の記憶。
おおお、清水さん――――そんな、いきなり? あ、大胆! おお、白い素肌、眩しい双丘。これが、これが俺のモノになるはずのおっぱ――――
◆
――――あれ。おかしいな。なんでループした?
いや、ちょっと待って。今回、告白どころかベッドから立ち上がってすらいないんだけど。んー? なんだろ、スパンが短すぎやしません?
共通点はなんだろう。過去七回……いや、八回に渡るループの契機はなんぞや。
てっきり清水さんと直接的な行為の直前で巻き戻されているんだと思っていたが、そう言えば、俺は彼女の家にすら上がっていない。もっと手前の――――携帯電話に連絡が来て――――さあ、いざ青春と張り切って、めくるめく妄想を――――。
――――これか? 清水さんとのエッチぃ事を妄想するのがいけないのか?
ならば抗う術は簡単だ。物理的に出すもの出してスッキリしてしまえば、色欲というものは一時的に消え失せるのだから。俗に言う賢者モードに入ってしまえば、妄想はない。
ならばとお気に入りのエロ本を片手にスタンバイ。自家発電の姿勢に移る。そしてページをめくれば、元より臨戦態勢であった息子は海綿体を膨らませ、気持ちはムラムラと高まり――――
◆
失意。
主よ、俺が何をしたと仰るのですか。
ショックだ。清水さんは関係なかったのもショックだが。
ひょっとすると、エロい事考えたらループするのか?
マジかよ。無理ゲーっすよ。これ、ループ抜け出すまでエロい事考えたらアウトって事よね。
いやいやいや、お前、性欲って、あれよ。三大欲求よ。
人は食わずして生きられますか。無理でしょう。
人は眠らずして生きられますか。無理でしょう。
ならば人は――エロい事を為さずして生きられるものでしょうか。
無理じゃろがいっ!
いや、待て。まだだ。まだ希望はある。
日が変わればループを抜ける可能性もある。禁欲一日ぐらい、やって出来ないことはない。そして明ければ、オナ○ーなんざやりたい放題。どころか、清水さんと二人でプレイすることだって可能なはずなんだ!
希望はある! 希望はあるんだ!
よぅし、やるぞ。やってやるぞ! 俺は今日一日を無欲で過ごす。聖人君子としての、穢れなき一日を全うしてやろうじゃないか!
◆
結論。ダメぽ。
いや、一日禁欲が、じゃなくて。一日どころか、二日経っても、三日でも、それが一週間だったとしても。
気を抜き、妄想して、そしてこの振り出しへと戻される。
そして一週間戻されてみて、改めて、このループの過酷さが分かった。
これからの一週間、何が起こるか完璧に把握して、完璧な人生を歩んで、一時的にせよ周囲から一目置かれる存在となったとしても。
ループしてしまえば、全てが、無駄。
無かったことになってしまう。消えてしまう。覚えているのは俺だけで、時が過ぎれば記憶は薄れ、残るのは言いしれぬ悲しみと深い虚無感。
戻ってきてしまった。
悪夢よ、覚めてくれ。
そんな願いは届かない。溢れ出るのは涙ばかり。心は空虚。未来は暗い。
だが俺の気持ちなどお構いなしに、時は進み出す。今日が始まる。十回と言わず繰り返した、何度も何度も繰り返した今日が。振り出しの一日目が始まってしまう。
俺はがむしゃらに生きた。
鬱屈して過ごすのはダメだった。引きこもっているなど以ての外だ。余暇が増えれば思索に耽る。その仮定で妄想は生まれる。青臭いエロスが脳をよぎる。そしてそれは劇毒だ。禁欲を続けて久しい俺の脳は、エロスに対する耐久力を増すどころか、ささやかな刺激にも過剰反応してしまう繊細な神経になってしまった。
だから、俺は自分を追い込んだ。とにかく身体を動かすように。ひたすら何かに打ち込むように。考えれば色情がよぎる。考えてはいけない。動いて、動いて、ヘトヘトになるまで身体を酷使して、夜にはベッドに倒れ込むようにして泥のように眠る。
それでも何度か失敗した。いや、何度も何度も失敗した。
この一年間を超えることが、なかなか出来なかった。
初めて一年を越えた時、試してみた。溢れんばかりの性欲を鎖から解き放ち、股間の愚息に血流を集めた。
もちろん、すぐに後悔した。夢精しながら目を覚まし、ようやく乗り越えた一年を無に返してしまったことに絶望を感じた。
期待していたのだ。一年も経ったのだから、もう解放されても良いはずだと。
それを乗り越えるために費やした俺の主観時間は一年なんてものじゃ済まない。数年? 数十年? 数えちゃいない。覚えてもいない。
だが――その中に一年。自らの意思で手放してしまった一年が加えられた。
馬鹿なことをした。
しばらく立ち直れず、泣きながら何度も何度も射精して、出した回数以上のループを何度も何度も繰り返した。
気持ちいいとは思えなかった。心の中には恐怖しかなかった。また失敗する。また繰り返す。そして全てが無駄になる。「もういいだろう」という甘えた考えが俺を殺す。その時生きていた時間ごと殺す。
死にたかった。既に諦めていたから。
だが、それすらもすぐに諦めた。
一度死んで分かったからだ。死は救いではないと。
気が狂いそうだった。そしてそれを望んでいた。
肉体的な死が許されないならば、精神を殺す他無いではないか。
しかし、俺は狂えなかった。どんなに時間を重ねても、薬剤を使っても、物理的に脳を削ったとしても。
気付けばループしていた。そして健全な肉体に戻り、健全な精神を取り戻していた。
災いあれ。この世の全てに、すべからく。
世の中全てが憎くて溜まらなくなり、呪いを振りまいた。思いつく限りの悪事を働き、悪魔と呼ばれた。悪鬼羅刹が俺の本性だと確信した。
が、すぐに辞めた。悪事の内には女性に対する性的な暴力もあって、そちらに意識が向くとあっさり振り出しに戻される。これでは俺は解放されない。それが分かると、鬱屈していた気持ちはあっという間に霧散した。無駄と分かれば繰り返す必要はない。
だって、辛いだけだから。
◆
最早振り出しに戻されることに思うところはない。
失敗した。ならば原因を探り、改善する。
世は並べてトライ&エラー。繰り返せば上手くいく。
狂えぬが故に心は強く。
今や地球より長く生きた俺はそれなりに達観していた。
それでも油断する。いかがわしい気持ちが消せない。
だが、今回のループは特別だ。
四十六億年を超える俺の人生経験の集大成を、この先の八十年に賭けていた。
壁を越えた。
その確信が、俺にはあった。
高校は辞めた。両親からは絶縁を勝ち取り、仏門に入った。そこで厳しい修行に身を置き、不動の精神を手に入れた。望んで人を指導する立場に納まり、四六時中、他人のことばかり考えた。
矮小な俺を消してくれる膨大な情報量。圧倒的オーバーワーク。
覿面身体を壊した。それでも休まず修行を続け、指導を継続した。
過去の経験から知っていた。これくらいで俺は死なない。むしろ甘えて休めば振り出しに戻される。
その様は、人からは無欲に見えたのだろう。実際禁欲は続いていた。だが自分では清廉潔白などと思っていない。油断をすれば悪事も働く。強く在らねば甘言にも逆らえぬ。己のくだらなさを知っていたし、弁えていた。ただそれだけだ。
それがいつの間にやら大僧正などと呼び持て囃され、一部では現人神などと崇められた。
恐れ多いことである。
崇拝される度に諭した。俺など詰まらぬ人間でしかないと。ところがどうにも、余計に尊ばれる羽目になる。
言葉を賜りたい。よく請われる。
己を知りなさい。同じ言葉を繰り返す。
延々と。延々と。
そうして、ようやくその日が来た。
老衰により倒れ、死を迎える。
待ち望んでいた。これこそが俺の求める終着点。
周囲の誰もが悲しんでいた。しかしそれは間違いだ。
「皆、泣くな。祝福を」
これこそが救いなのだから。
永かった。
ああ、永かった。
それもようやく終わる。
笑みを浮かべる。感謝の気持ちに満たされる。
永劫に思えるこの四十六億年も、終わると思えば愛おしい。
思い返せば遙か昔。そうだ、俺は清水さんに片思いをしていたんだ。
あの日、彼女の家に誘われて、童貞を捨てられるなどと期待したのが始まり――――
◆
――――――――――っあぁ! やっちまったぁーっ!
何度繰り返しても油断する。
ばか。ばかばか、俺のクソ馬鹿!
うあぁーーーーーーーっ!!!!
そしてまた繰り返す。何度も何度も繰り返す。
天国は遠い。