その三
翌朝は雨だった。
起きてすぐ渡り廊下を渡ってお手洗いにいくと、庭を横切って、おばあちゃんが何やら風呂敷包みを裏の離れに運ぶ姿が見えた。部屋に戻ってみると、母屋の台所の広い机では、朝食の皿を並べるおばちゃんたちに交じっておじいちゃんがばたばたとうちわを振りながら麦茶を飲んでいる。タカちゃんは今、ひとりぼっちだ。
「あの、タカちゃん、ご飯もここで一緒に食べちゃだめなの」柱に寄り添ってそっと聞いてみると、まさ子叔母がこっちを向いて笑って見せた。
「いい加減ここらで思い知らせにゃダメなんよ。根性曲がりだし、悪さばかりして、彩芽ちゃんも危ない目に遭わせて、ほんに悪いことじゃったな」
「あの坊主はしばらく一人にしたほうがええんじゃ。白い目して睨むばかりで辛気臭うてかなわん、わしゃ今夜は母屋に泊まる」おじいちゃんが続けた。
「じゃ、タカちゃん、夜も……」
「なんの、明日になったらおばあちゃんが戻すじゃろ」ゆり子叔母がこともなげに言った。「昔は悪さした子はもっと狭い物置やら蔵やらに閉じ込められたもんじゃ」
「ほうじゃ、お婆ちゃんはそりゃあ厳しかったんよ。箒振り立てて、娘らひとまとめにして、あんたたちはカスじゃ。カスの、ゴミの、クズじゃ!って追いまわしてなあ」母が続ける。まさ子叔母があとを継いだ。
「言われんかったのは茂一さんだけじゃ。姑さんがまあきつい人でなあ。お婆ちゃんもいろいろ我慢していたんじゃろうけど、毎日カスだゴミだ言われるこっちも相当きつかったんよ。それにくらべればあのぐらい、なんてことありゃあせんが」
その日、みんなタカちゃんなど最初からいなかったかのようにお茶を飲み、桃を食べ、おしゃべりをして過ごした。彩芽は夕餉の場でも、言葉少なに自分の箸の先ばかりを見ていた。そして、皿洗いを手伝うふりをして、おかずのお芋の残りと卵焼きをお弁当箱に隠し、それからお仏壇のおはぎもつっこんで布団の中まで持ち込んだ。
その夜、彩芽は母屋全体が寝静まるのを待って、弁当箱を抱え、蚊帳から起き出した。
さなちゃんかなちゃんちゃんがぐっすり眠っているのを確かめて、襖を開けて廊下に出る。
つきあたりの木戸を開け、スイッチを入れて渡り廊下の豆電球をつけると、ぼんやりした灯りが廊下を寂しく照らし出した。頭上の蜘蛛の巣の中心に、ジョロウグモが揺れている。腹の禍々しい模様を見つつ、下をくぐって渡り廊下を渡り、独立したつくりになっている厠に入る。そしてつま先立ちして、小さな窓から裏を見た。タカちゃんのいる離れは、庭木の陰になっていて見えない。手洗い所から裏庭に出る木戸の閂を内側から開けると、彩芽は闇の中に目を凝らし、踏み石の上の大人用のつっかけにつま先を入れた。
深夜の庭ではカジカガエルがコココケケケと鳴きしきり、塀の外ではウシガエルがウォン、ウォンと吠えるように鳴いていた。群青色の空にはむら雲が荒々しく流れている。昼間の雨の水滴をまだのせているアオキやヤツデをかき分けてがさがさと離れに近づくと、寝間着の袖がぐっしょりと濡れた。
やがて、離れの雨戸の隙間から細い灯りが漏れているのが見えた。
雨戸を開けるのは力仕事だし大きな音がする。引き戸のある玄関に向かい、横倒しのつっかい棒を外して彩芽は引き戸に手をかけた。
内側からかぎは掛かっていないらしく、意外なことに引き戸は簡単に開いた。
玄関の内部は土間のたたきで、控えの間の豆電球の灯りでぼんやりと薄明るかった。
「タカ、ちゃん」
小声で呼びかけると、しばらくして奥のほうからごそごそという音が聞こえ、
「誰じゃ」タカちゃんの低い声が答えた。
「わたし。彩芽だよ」
すすきの描かれた襖がごとごとと開いて、ぼさぼさ頭のタカちゃんが姿を現した。
「お前……」
タカちゃんはそのまま言葉を途切らせて、ただ普段細い目を真ん丸く開いて彩芽を見た。
「あのね、晩御飯、食べた?」
「ああ」
「それなら、よかった」彩芽は両手で弁当箱をつき出した。「お腹空いてるかもと思って、これ、もってきた」
タカちゃんはしばらく黙ったまま弁当箱を見ていたが、一言「上がり」と言って背を向けた。
タカちゃんに続いて8畳ほどの和室に入ると、二人分の布団が敷いてあった。ひとつは多分敷きっぱなしのおじいちゃんの布団、もう一つがタカちゃんのだ。布団の脇の盆の上には白っぽい液体の入ったガラス瓶があった。灰色の扇風機が、ときどき首をこきっと鳴らしながらゆっくり回っている。
「なに、その白いの」
「甘酒じゃ」タカちゃんが座りながら言う。
「爺ちゃんが、誰もわからんところなら何飲んでも文句言われんだろて。子どもだから甘酒で我慢しとけって、置いてってくれた」
「へえ……」
「つまらんことがあった日は酒が最良の友じゃ、わしもここと酒があったからきつい婆さんでもやってこれたって」
彩芽は今朝のお爺ちゃんの渋い顔を思い出して、なんだかあったかい気分になった。あんな顔をしていながら、あの場の誰とも血のつながりのないタカちゃんをちゃんと思ってくれていたのだ。
それから二人は向かい合って彩芽の持ってきた芋と卵焼きを食べ、おはぎを半分こしてわけあった。タカちゃんは口をもぐもぐと動かしながら空中の一点を睨んでいるようだった。頬は赤く熱がこもっているように膨らみ、視線がしんとして動かない。彩芽はなんだか怖くなって聞いてみた。
「ねえ、甘酒に酔っぱらってるの」
「あないなもんで酔わん」
「でも、顔が赤いよ」
「おかんに往復でひっぱたかれたからじゃ」
「えっ、それ、腫れてるの」
「おまえなんかいらんて、さいしょからいらんかったって、はっきり言いよった」
「……」
「あの婆、いつか思い知らせてやる」
「タカちゃん……」
「いつか殺したる」
「そんなこと言わないで。怖いよ」彩芽は思わず縋るように言った。
「いつもいつもじゃ。日頃から言いよった。可愛い世話のかからん女子がよかった、ダメ父ちゃんごと外れクジ引いたって。あのくそ婆の家で大人になんかなるか、こっちこそまっぴらじゃ」
「じゃあ、大人になったら、家を出れば」
「それまでこらえられん」
「でもこらえないと警察に捕まっちゃうよ」
「捕まるか。逃げればええんじゃ」
「駄目だったらだめ!」彩芽は大きく目を開けると、赤く膨らんだタカちゃんの顔の前に顔を突き出した。
「いっしょにちゃんと、大人になろう。それから、いっぱい、がんばればいい。誰も殺したらだめ!」
タカちゃんは思わずのけぞったが、目の前の彩芽の目をまじまじと見ると、ぷっと噴き出して言った。
「お前、目、でっけえのう」
それからタカちゃんは、けっこう甘くてうまいぞ、といいながら彩名に茶碗を持たせ、甘酒をついでくれた。これでまたいい気分になったら昨日の倍怒られるんだろうなと思いながら、彩芽は甘酒を飲んだ。そのときは自分も並んで怒られよう。タカちゃんと同じぐらいぶってくれと言おう。そしたらまさ子叔母ちゃんもいろいろ考えてくれるかもしれない。
頭も瞼も何もかも重くなって、おじいちゃんの匂いのする敷きっぱなしの布団にこてんと横になると、天井板のすみに蜘蛛が見えた。縞々の手足、膨らんだお腹。ああ、ジョロウグモだ。ついてきたのかな……あっちにもこっちにも、いるのかな……
何かもやもやした夢をいくつか通り過ぎた気がする。音や声が耳の中に反響する。カスの、ゴミの、クズです!という叫び声と子どもの泣き声。くぉっけけ~~。ぴ~~ひょろろ、ウォン、ウォン。ピンクの液体の中におぼれてゆく大きなアリたちの、しおたれた触角。
彩芽がふと目を覚ましたのは、それまでしきりに聞こえていた庭のカエルの合唱がぴたりとやんだからだった。
突然の静寂の中で、彩芽はぽかりと目を開いた。
天井の豆電球がぼんやりとともっている。
そのとき、左側からふうっと風が吹いてきた。
扇風機はもう止まっている。雨戸は閉まっている。風が入ってくるはずがない。
彩芽はゆっくりと体を反転させて左の、タカちゃんが寝ているほうを見た。
雨戸は庭に向かっていつの間にかあけ放たれ、夜明け前の群青の空気の中、外に誰かがすっくと立ってこちらを見ていた。
その真っ黒なシルエットは異様に細く、家の誰とも違う体の線で、和服を身に着けた女性だ、ということだけが瞬時にわかった。
その途端、彩芽の全身は凍りついたように動かなくなった。
タカちゃん、と隣に声をかけようにも、喉が固まって声も出ない。タカちゃんは目を閉じたまま、苦しそうな寝息をたてている。
こちらを向いて立つ女の人は、のしり、と進んで縁側に足をかけた。そのとたん、結っていた女性の髪がばらりとほどけ、ふわあっと風に乗って四方八方にざんばらに広がった。
女の人は風に髪を散らばせたまま真っ黒な姿でゆらゆらと部屋に上がってきた。
そして足音も立てずにタカちゃんの上にかがみ込んだ。
女の人の横顔が見える。頬が細く、鼻が高い。泣いているのか、唇が震えている。彩芽は全身に冷水を浴びたように冷たい汗にまみれていた。自分は今、見てはいけないものを見ている。でも、見えてしまう。目を閉じることができない。
声が出ない、身体が動かない、息もできない……
そのとき、庭の方から風に乗って声が聞こえた。
くず~~い、おはらいっ。くずう~~い、おはらいっ。
「だめえっ!」
自分の声で突然体が自由になった。彩芽は跳ね起きると、タカちゃんの体に覆いかぶさり、しがみついた。
「だめ、タカちゃん、起きて、タカちゃん!」
そのとき、母屋の方でも悲鳴が聞こえた。子どもの泣き声と叫び声、がたがたと母屋の玄関を開ける音、そしてばたばたという足音が門のほうに向かっていく。
「おどりゃあ、何のつもりじゃあ」「何しに来た、逃がすかっ!」
野太い怒号は多分、茂一伯父だ。がくがくしながら顔を上げると、群青の薄闇にもう女性の姿はなかった。ただ、目の下のタカちゃんの息はひどく荒く、そして砂漠の熱風のように熱かった。顔はますます赤く、汗を含んで膨らんでいる。
そのとき、あけ放たれた雨戸の向こうに人影が現れた。夜明けの薄明かりの中で、それがまさ子叔母だと彩芽にはようよう分かった。
「おばちゃん、おばちゃん、タカちゃんが」彩芽は震える手を伸ばして、突っ立っているまさ子叔母を手招きした。叔母は履き物を脱ぎ散らかして縁側から上がってきた。
「誰か来たんか、ここに。彩芽ちゃん、大丈夫か?」まさ子叔母の声は震えていた。
「か、髪の長い女の人が、着物を着た女の人が上がって来て、タカちゃんを、つ、連れて行こうとした。でも、くずーいおはらいって聞こえて、それで、それで、消えたの」彩芽はどもりながら答えた。
叔母はタカちゃんの傍に座り込んで、額に手を当てた。そしてひと言、「熱い」と呟くと、ふと庭に向けて顔を上げた。
それからすっくと立ちあがると、両手を広げて仁王立ちになり、野太い声で叫んだ。
「おまえには渡さん! 誰が渡すか、この子はわしの子じゃ。帰れ、おまえのいたところへ帰れえっ!」
その腹の底からの絶叫を聞いたとたん、彩芽は全身から力が抜けて、そのまま布団に倒れ込んでしまった。
それから丸三日、彩芽とタカちゃんは熱を出して、枕を並べて寝込んだ。
熱が下がったころには、彩芽には、それまで見たこと聞いたことのどこまでが本当でどこからが夢か、よくわからなくなってしまった。
後で母親から聞いた話では、じっさいに起きたことは、こうだ。
爺ちゃんの離れにタカちゃんが寝かされた日、夜明け前にさなちゃんとかなちゃんがいきなり起きて大泣きし始めた。
ジョロウグモが女に化けて離れに行ってタカちゃんを食おうとしていると。
夢見が悪いだけとゆり子叔母がなだめようとして、彩芽がいないことに気付く。そのとき庭から、ぎんぎら大将の声が聞こえた。くず~い、おはらいっ。
以前から、子どもをさらうやらかどわかすやら悪い噂の立っていた大将なので、てっきり彩芽がさらわれたと思い、大人たちは庭に出た。そして事実、庭に迷い込んでいた大将を捕まえたという。何しに来たと問いただしたが当人は曖昧に笑うだけで答えない。そして彩芽は連れていない。
それでまさ子叔母が離れに向かうと、タカ坊が高熱を出して人事不省、あとは彩芽の証言がさなちゃんかなちゃんの夢と一致していた。
長い髪の女が、タカちゃんをさらおうとしていた……
大将は家宅侵入の罪で警察に突き出され、あとのことはわからないという。
熱が下がったタカちゃんと一緒に、ある日彩芽は母親に手を引かれ、近くの寺にお祓いに連れて行かれた。祖父母と、タカちゃんの両親も一緒だ。頭上から太陽がガンガン照り付ける、暑い暑い日だった。
天を突くような杉やイチョウの老木に囲まれて、本堂の周りだけ洞のように空間ができている。本堂に入ると、夏とは思えない冷気と、なんともいえない静けさが漂っていた。
立派な袈裟を着てお数珠を持った和尚さんが、大人たちと相対してふさりと座り、「よう来んさったな」とさっぱりと言った。そして、最初にタカちゃんのお父さんが、タカちゃんの生い立ちから言いにくそうに語りだした。そのあとを叔母ちゃんが、そして祖母が話を引き取った。
家の離れで起きたことまでだいたいの話を聞いた和尚は、彩芽に向き直り、奥深な目でしんと見つめながら尋ねてきた。
「その、女の人の顔、嬢ちゃんはきちりと見たんか」
彩芽は頷いた。
「どんな顔じゃった。怖かったか」
大人たちは固唾をのんで彩芽の顔を見た。彩芽は思い出しながら、用心深く言った。
「怖い顔じゃない。きれいで、……なんだか、泣いてるみたい、だった」
タカちゃんのお父さんお母さんは、俯いたまま手元のハンカチを握りしめている。その横でタカちゃんは、口を真一文字に結んでいた。
それから長い長いお経が始まった。
彩芽は、いつ終わるとも知れぬお経と、巨大な木魚のぽくぽくという音,時折り和尚さんがしゃりんしゃりんと鳴らす錫杖の音を聞きながら、寺の中の装飾に目を奪われていた。きらきらした天蓋や金色の灯篭、筒状になって垂れさがる金色の暖簾のような飾り。どれも重厚な光を放っているのに、全体が妙に暗い。重く連なる黄金色の飾りの奥で、長い髪の女の人がこうべを垂れて座っているような、そんなかなしい気配がする。
風が吹いているのか、本堂の周りの木々がざあざあとしきりに鳴っていた。そのざあざあはだんだん激しくなり、しまいに雨の音のようになった。
最後の錫杖がしゃりーんと鳴って、読経が終わる。
いつの間にかざあざあも止んでいた。
大人たちが和尚に頭を下げて礼を言い、ばらばらと立ちあがった。立とうとしたタカちゃんが派手にこけて、いてえっと叫び、周りからわっと笑い声が起こった。彩芽も痺れた足をかばうように膝立ちになって、金色の暖簾の奥を覗いた。
もうかなしい気配は消えて、ただのきらきらした飾りがかすかに揺れていた。
帰り際、和尚は彩芽とタカちゃんの頭に手を置いて、柔和な顔で言った。
「わしなんぞの念仏より、お手柄はこの子じゃ。この子がタカ坊と一緒にいてくれたのが何よりじゃ。
いろいろあったが、もう終わり。女の人は行くところへ行った。あんたら、仲良うせいよ。父ちゃん母ちゃんもじゃ、タカ坊は宝じゃ。大事に育てんさいよ」
タカちゃんと彩芽は顔を見合わせて、肩をすくめ、声を立てずに笑った。まさ子叔母は声もなく、ただ、彩芽とタカちゃん二人の手を握って涙ぐんだ。
洞の中のようだったお寺を出ると、外は真夏の光にあふれ、目もくらむような暑さのもとでクマゼミが鳴きしきっている。彩芽には、お経を聞いていた時間がまるで夢まぼろしのように思われた。
日傘を差した大人たちに続いて歩く砂利道に、藤色と墨色を足したような、ふたつの影が揺れている。
彩芽は小声で、隣のタカちゃんに聞いてみた。
「ねえ、タカちゃん。どうしてあのとき、銀蠅だって思ったの」
タカちゃんは少し黙っていた。それから、とても静かな声で言った。
「違うと思うなら、あやめが好きに名前つけたらええが」
頭上では、とんびがまあるく輪を描きながら、ぴーひょろろろろ、と長鳴きしている。
空を見上げながら、彩芽は言った。
「あんなふうに、空をとべるはねならいいね。太い体でも持ち上げられる、強いはね。それならどこへでもいけるから」
「ほうじゃね」
タカちゃんはなんだか大人っぽい口調で言った。自分の言いたいこと、きっと伝わったんだな、と思いながら、彩芽は続けた。
「あの夜さ。タカちゃんのお母さん、怖かったね」
「……」
「誰が渡すか、この子はわしの子じゃって、すごい声で言ったよね」
タカちゃんは照れくさそうに笑うと、下を向いたまま鼻の頭をかいた。
「寝てたし、よう知らん」
あんたら早よう来んさい。そこのお店で、かき氷でも食べてこ。
いつの間にか前のほうにはなれていた大人集団に声をかけられ、タカちゃんは走り出した。
そのあとに続いて走る、ころりと太った子どもの幻影が見えたような気がしたが、すっと風の中に消えてしまった。
彩芽も砂埃を蹴立てて走り出した。
くず~いおはらいっ、の声を、彩芽とタカちゃんが故郷で聞くことは、それから二度となかった。