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銀蠅  作者: pinkmint
2/3

その二


 さなちゃんかなちゃんが母親と買い物に出た日、

「タカ坊と一緒によもぎといちじくもいで来んさい」

 祖母に大きな蔓の籠を持たされて、彩芽ははあいと元気に答えた。よもぎもいちじくも、ここらあたりでは空き地や道のはたに生えているものをとってくるのが普通だ。柔らかい春よもぎに比べ夏よもぎは固いのだが、薬効が増すと言って、おばあちゃんは濃い味付けの調味料に漬け込んだり、干してお茶にしたりする。

 庭に出てタカちゃんを探してみたが、どこにも姿が見えない。仕方なくひとりで木戸を開けると、用水路のきわの植え込みの間に、天に向けて突き出している短パンの尻が見えた。汚れ具合から察するに、タカちゃんだ。

「何してんの」

 タカちゃんは顔を上げてこちらを見ると口に指を当てて片手の大きな牛乳瓶を見せた。何やらどぎついピンク色の液体が入っている。

「それ、なに」

「おもろいぞ。ありんこも酔っぱらうんぞ」

「蟻が?」

 近づいて、タカちゃんが指さす地面を覗き込むと、埃っぽい地面にいくつも開いた蟻の巣穴の周辺がピンクの液体でドロドロになっている。その液体におぼれるようにして、黒い大きな蟻がたくさん、ヨタクタと這いずっていた。

「やめようよ、蟻いじめるの」彩芽は眉間にしわを寄せた。

「いじめとらん、みんな酔っぱろうて気持ちええんじゃが」

「気持ちいい?」

 タカちゃんはにっと笑うと、牛乳瓶をつきだした。

「飲むか。赤玉ポートワインのカルピス割り」

「お酒でしょ。台所からとったんだ。悪いんだ」

「もうここにあるから悪うても仕方ない。うまいぞ、飲んでみ」

 おそるおそる口をつけると、甘味と刺激と果物を煮詰めたような香りが喉元を通りすぎたとたん、頬がかあっと熱くなった。彩芽は思わずのど元を押さえた。

「なんか、顔が熱い」

 よくみると、タカちゃんの頬もぽおっと染まっている。

「どこいくん」赤い顔でタカちゃんは聞いてきた。

「いちじくと、よもぎ採りに。タカちゃんと一緒に行けって」

「というと、線路沿いの土手じゃな。おし、行こう」

 タカちゃんは調子に乗って赤い液体にまた口をつけた。なんだか体が軽くなってきて、二人はケラケラ笑いながらはねて歩いた。

 乾いた道の端には深い水路があり、水面には常に水紋が次々と現れては消えている。巨大なオタマジャクシがドジョウのように呼吸をしに出てきては水底にとんぼ返りしているのだ。

「これ何ガエルになるんだっけ」彩芽が聞くと

「ウシガエルじゃ、声も体もでっけえやつ」タカちゃんが答える。

 ウシガエルは名の通り、ウォ-ンウォンと野太く、牛のような声で鳴きしきる大型のカエルだ。クラシックのレコードを聞いてしんみりするのが好きな鬱性の爺ちゃんは、ウシガエルの合唱が癪に障るらしく、ときどき雨戸を開けてはやかましいっと喚きながら水をぶち撒いていた。

「食うとうまいらしいぞ。いつか婆ちゃんに言って焼いてもらお」

「カエルなんか焼くわけないじゃん」

「わしがさばいてな、鶏肉だって言って婆ちゃんに渡すんじゃ」

「そんなのばれるよ。お婆ちゃん、怒ったら怖いよ」

「そんでもうちの鬼婆よりましじゃ」

「そんなこと」

「鬼婆はもともと、わしのおふくろじゃないしな」

「えっ?」

「おやじが言ってた。お前の母さんのほうがまさ子よりずっと美人だったって」

 彩芽は何と答えていいのかわからず、目を真ん丸にしたままタカちゃんの充血した目を見た。

「じゃ、ほんとのお母さんて、……どこにいるの」

 タカちゃんはまたピンクの液体をラッパ飲みした。

「死んだ。わしが三歳の時、はしょうふう、とかいう病気でな、転んでけがして、それから一週間で死んだって」

「……」

「きっちり結ってた髪が、死んだ途端にざああって畳に広がっていってな、そりゃあきょうてえ(こわい)けしきじゃったって。そんでもやっぱり、母ちゃんより夕子のほうがきれいじゃったって」

「それも、お父さんが言ったの?」

「酔っぱらってるときにな。そのあと部屋に入ってきた母ちゃんがむちゃくちゃに怒って湯飲み投げつけて取っ組み合いのけんかになった。お前も夕子のとこへ行けって。庭に布団や鍋放り出して、出ていけえって、そりゃすげえもんじゃ、近所中が見に来たわ」

 く~ずい~、おはらいっ。く~ずい、おはらいっ。

 聞きなれた声が遠くから響いてきた。二人は思わず立ち止まった。

 二人が行く古い家に挟まれた道の先の十字路を、畑のほうに向かってリヤカーを引いていく草色の軍服が横切ったのが見えた。

「……ついてくか」

「うんっ」

 二人はひたひたと足を速めてリヤカーのあとをつけた。

 あまり近くに寄ったらいけんよ、なにをするかわからん、あれは頭が遅れとるし「ブラク」じゃけえ、と祖母からよくわからない単語を混ぜて言われていたことが、かえって二人の好奇心をかきたてていたのだ。

 足音を忍ばせて近づくと、リヤカーを引く後姿がだんだん大きくなった。

 草色と黄土色を混ぜたような色あせた軍服、帽垂れのついた軍帽、ボロボロの厚ぼったい肩章。なにかよくわからない勲章に交じり、ワッペンやボタンやバッジを体中にぶら下げている。体はまるくころりと膨らんでいて、靴はぼろぼろのブーツだ。リヤカーには自転車やタイヤ、なにかのワイヤーのようなもの、金網のようなものが乱雑に積んであった。

「あれ、売るとお金になるのかな」

「鉄でできてるものは銭になるんじゃと」

「売るなら、そこらへんにあるものでいいのにね。よもぎとか、いちじくとか」

 ひそひそ声で話していると、大将は赤い房の付いたラッパをひときわ大きく、ぱぷー、と鳴らして、くるりとこちらを向いた。

 二人はぎょっとして立ち止まった。

 大将は黒ずんだ顔じゅうでにいっと笑った。

 垢だらけの頬はてらてらと茶色く光って、綿でも含んだように大きく膨らんでいる。細めた目は充血してはいたが、なにか草食動物のような妙な優しさがにじんでいた。

「それ、なんだ」大将はかすれ声で言った。

「えっ?」タカちゃんは素っ頓狂な声を出した。

「そこに、なに、持ってる」

 タカちゃんはそおっと、手に握りしめていた牛乳瓶を翳した。ピンク色の液体を見て、大将は首を傾げた。

「じゅ、じゅうすじゃ」タカちゃんはどもりながら言った。

「ほ、ほしいなら、やるぞ」

 彩芽は、農道で汚い野良犬にあったとき、タカちゃんが同じように食べかけのパンを差し出してから、彩芽の手を握って一目散に逃げたときのことを思い出した。

 大将はゆらりと近寄ってきて、タカちゃんの差し出した牛乳瓶を受け取り、上を向いてひと口飲んだ。それから口の周りをぺろりと舐めると、ぐっと上を向いて残りを全部飲み干してしまった。大将の全身から、汗を煮しめたような、お便所臭いにおいがした。

「ん」大将が差し出したからの瓶をタカちゃんが「いい」と手を振って断ると、大将は瓶をリヤカーにほうり投げ、「いちじく、あるぞ」と言ってまた笑った。

「いちじく? どこに?」

「たくさんあるぞ、こい。よもぎもあるぞ」

 そのまま前を向いてガラガラとリヤカーを引く大将のあとを、二人はおそるおそるついて行った。畑の中の一本道は街はずれの山のほうに向かっていた。ここから先は二人とも行ったことがない。すれ違う農夫が、三人を不思議そうに見ている。カンカン照りの青空の奥で、とんびがぴ~~~ひょろろ~~~と長く鳴きながら弧を描いている。四方八方からクマゼミの声がシャワシャワと覆いかぶさってくる。ぱぷー、とまた大将は勢いよくラッパを吹いた。

 ぴいひょろろ~~~。ぱぷー。くず~い、おはらいっ。

 しばらく行くと、鎮守の森の手前に、灰色の墓石がたくさん立ち並んでいるのが目に入った。

 知らないお墓だ。

「タカちゃん……」

 彩芽が、もう帰ろう、という言葉の代わりにタカ坊の腕をぐっと握ると、大将はくるりと振り向いて、赤い顔で言った。

「たくさん、ある」

 これは逃げられないと観念してついて行くと、足を速めた大将は墓地の手前で立ち止まり、足元を指さした。

「ここ」

 畑と墓の間にはきらきらと澄んだ小川が流れ、白い小花が一面に咲いていた。そしてその向こう、木でできた粗末な橋を渡ったあちら側に、それはもういちめんによもぎが生えている。そのきわに、こんもりといちじくの茂みがあった。

「ほんとだ!」

「すごい、たくさんある」

 二人の声に、大将はにっとうれしそうに笑った。そして自分は川に入り、ざぶざぶと水で顔を洗い始めた。

 二人は橋を渡り、夢中でいちじくとよもぎを摘んだ。とくによもぎは墓地の墓石の間にまでわさわさと生えていた。彩芽の持っている籠がいっぱいになるまでよもぎを摘み、いちじくをもぎ、喉の渇きをいやすために皮を剥いてはかじりついた。そのうち、無理やり飲んだ酒が全身に回り、彩芽はだるさと暑さと気持ち悪さでへたり込んでしまった。

「もういいことにしよう、タカちゃん」

 彩芽が声をかけると、タカちゃんはぼんやりと、よもぎを握ったまま小川のほうを見ている。

「何見てるの?」

 タカちゃんの視線の向こうで、大将が裸の上半身を拭いていた。どうやら小川で水浴びをしていたようだ。汚いタオルで全身をばたばたと拭いているその背中に、何か妙なものを見て、彩芽は目を凝らした。

 大きなぶ厚い背中に、なにか張り付いている。

 なにか、うすい、透明な、ビニールみたいな大きなもの……折りたたまれているようにも見える。

 透明ななにかは風に揺られるようにふわあっと大将の背からはがれると、背中を中心にして両側に大きく広がった。

「あ」

 タカちゃんと彩芽は同時にそれぞれの口を両手で押さえた。

 大将の背中から生えた透明ななにかは、風にふわふわとそよいでいた。いや、何かではない。それは確かに、はねだった。透き通った蝉のそれのように薄い薄い翅が、ゆっくりと羽ばたきを繰り返している。

 やがて背中のきらめきは空気に溶け込むようにすうっと消えてしまった。

 あとにはただ、水浴びを終えた後のゴミ拾いの大将が身体を拭いている風景だけが残った。

 やがて衣服を身に着け終わると、大将は若草色の軍帽をかぶり直し、こちらに向かってにこにこと笑いながら手を振った。二人も呆然としたまま、手を振り返した。

 大将はラッパを手に取ると、大きく息を吸ってひときわ大きな音を鳴らした。

 ぱあぷ――。

 そして二人には目もくれず、そのまま山の方へ向かう道を、がらがらとリヤカーを引いて一人で行ってしまった。

 夕日に顔を照らされながら、彩芽とタカちゃんはぼんやり立ち尽くしていた。

 背中からはねの生えた人間、いや、にんげんの形をしたもの。それには名前があったはずだ。大将とは似つかわしくないイメージの。

 それを口に出すのがなんとなくはばかられて、彩芽はそっと聞いてみた。

「ねえ、タカちゃん。わたしたち、いま、何を見たんだと思う?」

 タカちゃんはぼそりと答えた。

「……ありゃあ、銀蠅じゃ」


 彩芽は家に帰り付くと同時にくたくたになって横になってしまった。籠の中の山盛りのいちじくとよもぎを見て、祖母はこんな時間までどこまで取りに行っていたのかいぶかしんだ。タカちゃんは正直に答えた。

「鎮守の森の手前の、小川のそばの、墓地」

 途端に祖母の声が険しくなった。

「あそこは土地柄も悪い、いい噂を聞くものの墓じゃありゃせん。そもそも、墓で摘んだよもぎやら食べられやせんわ。なんでそんな遠くまで、彩芽が具合悪くするまで連れまわしたん。だれかに教えられたんか」

「あ……」

 隣の部屋の布団で横になったまま、はねのことも含めて喉元まで大将のことが出かかったが、彩芽はひじをついて上半身を起こすのが精いっぱいで、言葉にはできなかった。

「わしが連れてった。たくさんあるて聞いたんで」襖の向こうから、タカちゃんが答えるのが聞こえる。

「いつ、誰から聞いたん」まさ子叔母の声だ。

「知るか。秘密じゃ」

「皆心配しとったんじゃ、ちゃんと答え。誰から聞いたん」叔母が声を荒げた。

「銀蠅じゃ」

「何じゃて?」

 とたんに彩芽の脳裏に、ころりと太ったからだから伸びていた翅が絵になって浮かんだ。

 見ようによっては、たしかに銀蠅だ。

 とにかく、タカちゃんも、あれを見たんだ。

 口に出してはいけないことのような気がして誰にも言わずに来たけど、そしてこれからも多分言わないけれど、確かにわたしたちは、同じものを見たんだ……


「彩芽ちゃん、だいじょうぶ」

 さなちゃんかなちゃんが蚊帳をめくり、水を持ってきてくれた。うとうとしている間に夜も更けていて、喉が渇いていた彩芽は、ありがと、と言ってコップの水をごくごくと飲んだ。汗びっしょりの彩芽には、どんなジュースよりも、その水は甘くおいしかった。

「いちじくとよもぎ、どうなったかな」

 彩芽が尋ねると、さなちゃんかなちゃんは顔を見合わせて、申し訳なさそうに言った。

「お婆ちゃんが捨てちゃった、縁起でもないって」

「そうか……」彩芽は俯いた。

「ねえ、彩芽ちゃん。きょう、ぎんぎら大将といっしょだったん?」

 さなちゃんに突然言われて、彩芽は言葉に窮した。「どうして……」といったまま、後が続かない。

かなちゃんが口を開いた。

「お婆ちゃんから土地借りてる農家のおじさんが言いに来たんよ。勝手口から顔つっこんでな、お婆ちゃんに、今日農道でお孫さんふたりとゴミ集めの大将が一緒に歩いとったが大丈夫ですか、ちゃんと帰ってきましたかって」

 彩芽は頭がくらりとした。あれほど近づかないようにと何度も釘を刺されていた相手なのだ。

「あの、それで、タカちゃんは……」

「まさ子叔母さんがふて寝してたタカちゃんに聞こうとしてふとんひっぺがしたら、タカちゃん自分の布団の中に赤玉ポートワイン隠してびしょびしょにしてたん。大部飲んだらしくて、顔も真っ赤で。それで、もうたいへん」

「ええっ」

「彩芽ちゃん、飲まされたんだよね?」

「う……ん、ええと」

「タカちゃんが言っとった。カルピスに混ぜて彩芽ちゃんに飲ませたって。酔っぱらっていい気分だったからラッパについてっただけだって。まさ子おばさん本気でビンタするし、お婆ちゃんカンカンに怒るしで、もうえらいことじゃ」

 彩芽は布団の上に置きなおった。そして真剣な表情で、揃いのこけしのようなさなちゃんかなちゃんに問いかけた。

「で、タカちゃん、いまどうしてるの」

「お仕置きだって言って、おじいちゃんと一緒に離れに寝かされとる」

「そうか……」

 あの雨戸に囲まれた陰気な離れを思い出して、彩芽はため息をついた。しばらく俯いて考え込んだ後、ふと顔を上げてたずねてみた。

「ね、さなちゃん、かなちゃん。ふたりとも、人の目には見えないものが見えるって言ったよね。じゃあ、ぎんぎら大将、あの人の後ろに、なにか見えたことある?」

 二人は顔を見合わせた。

「ある? さなちゃん」

「あんまり近くで見たことないけど、わからんな」

 二人の答えに、彩芽はほっとしたようながっかりしたような妙な安堵を覚えた。やはり自分とタカちゃんは、ただ、酔っぱらっただけなのかもしれない。

「ありがと、ごめんね。ちょっときいてみただけ」

「あ、でもね」かなちゃんが続けた。

「タカちゃんのうしろに、ときどき、見えるものがある」

「なに、それなに?」彩芽は急き込んで尋ねた。

「さなちゃん、わかるよね?」かなちゃんに尋ねられて、さなちゃんは黙り込んだ。

 やがて、困惑した表情で口を開くと、小声で言った。

「なんか、言いたいことはわかるけど、今は、言っちゃだめじゃわ」


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