その一
くぉっけけぇー。くぉっけけぇー。
ニワトリのときの声にぽかりと目を開けると、視界がうすぼんやりと霞んだ闇に囲まれている。
しばらく考えて、ああ、蚊帳だと気づく。
ここは東京じゃない、岡山の絢倉の家だ。いま、自分は従姉妹たちと枕を並べて、広い和室の蚊帳の中に寝ているのだ。
彩芽はもともと大きな瞳をさらに見開いてうす闇の中を見渡した。
薄暗い部屋をほのかに照らすのは、雨戸の隙間からこぼれる朝日だ。細い隙間から、並んだ布団の上にしらじらと伸びている。お腹の上を横切って、左手の仏壇まで。
その光の切れるところ、仏壇のお座布団を見ると、大きな蜘蛛がへばり付いていた。
大きさは10歳の彩芽の掌ぐらいだろうか。四方に伸ばした長い脚は黒と黄色の縞模様で、腹部は薄気味悪いほどふっくらふくらんでいる。
これはたぶん、……あの蜘蛛だ。さなちゃんがいってた。水辺にすむ魔性の女の人の化身で、男を誘って黄泉の世界に呼び入れる、って……
「さなちゃん、ジョロウグモ」
つぶやいて目を右にやると、さなちゃんとかなちゃんは枕に揃いのおかっぱを散らして寝息を立てている。彩芽と同い年の双子姉妹。大人は皆別の部屋だ。まだ誰も起きてくる気配はない。薄い夏掛けをそうっとあげて体を起こすと、蜘蛛はもう見えなくなっていた。
蚊帳をまくって畳の上にはい出て、雨戸の間から外を見る。大きな池と灯篭のある日本庭園はすでに夏の光と蝉の鳴き声に満ちていた。槇の生垣で仕切られた向こうには鶏小屋があり、くおっけけー、くぁーっかっかっかっとしきりに鳴き騒いでいる。
「おうし、今朝は三つじゃあ!」
あいつだ!
彩芽はがたがたと雨戸を開けて縁側に出た。はだけていたパジャマの前をあわせると、ウサギの描いてある桃色の突っ掛けをはいて鶏小屋へと走る。
ひとつ年上の従兄弟のタカちゃんがざるに卵を入れて出て来た。
「ずるい。わたしの役目なのに、先にとった」彩芽はざるを指さして口を尖らせた。
「そんなの決まっとらんが」下着に短パン姿の、やせっぽちのタカちゃんが鼻の下をこする。
「お婆ちゃんに頼まれてるの、わたしだもん」
「知らんが。はよ起きんからじゃ」
「どうしたん」
玄関の横の納屋から、箒を手に祖母が出て来た。いつも銀髪をきりきりと後ろでまとめ、洗いざらした割烹着をきちりと着こんでいる。身体はちんまりと小さく、節くれだった指にもしみの散らばった肉厚の顔にも、年輪と威厳が松脂の香りのように漂っている。
「タカちゃんが先に卵とった」彩芽が頬を膨らますと祖母はきらりと目を光らせて孫の隆志を眺め
「あんたは卵取ったらいかん」
「なんでじゃ」
「たいがい一つか二つはその場で飲んどるじゃろ。あんたがあっこにいったあとは藁の上に殻が残っとる」
タカちゃんは明後日のほうを見ながら彩芽にかごをつき出し、「つまらん」と言い捨てて母屋の方へ駆け出すのを、
「こりゃ。早起きしたんならあんたの役目はこれじゃ」祖母は庭箒を押し付けた。「外の道でも掃いとき」
タカちゃんは舌打ちすると、箒を抱いて納屋の横の木戸を開けて出て行った。
800坪はあろうかという屋敷は瓦屋根付きの立派な塀で囲われ、正門以外に出入り口が3か所ある。絢倉家は大地主だった。それはもう、苗字を言うだけで、駅前から乗ったタクシーがまっすぐつくぐらいの。
「どれ、また卵の殻でも拾わんと」彩芽の肩をポンと叩いてから鶏小屋の戸口を開けた祖母は、ひぇっ、と頓狂な叫び声を上げた。
「どうしたの?」
「鶏のトサカが真っ黒じゃが!」
騒ぎに起きだしてさなちゃんかなちゃんが縁側から出て来た。3人で祖母のもとに駆け寄ると、金網の中で、4羽いる鶏たちのトサカが見事に黒く変化している。
「こりゃ何事じゃ、病気か、茂一に相談せにゃ」とたまげる祖母の後ろからさなちゃんが
「昨日左官さんがおいてったコールタール、タカちゃんがわけてもらって缶に入れてた」
「それでなにしてたん」
「絶対落ちないってきいたから小さいところで試し塗りするって言ってた」
「あのあほうが!」
木戸へ向かおうとした祖母は、小屋の影に置かれていたコールタールの缶にがしゃんと蹴躓いた。黒々と飛び散ったコールタールは祖母の着物の裾をてらてらと染め上げ、舞い散った埃と鳥の羽根が張り付いた。
夏休みになると毎年母は父を東京の家におき、姉と彩芽を連れて新幹線で里帰りするのがならわしだった。集まるときは声をかけあってきょうだい一同が子供を連れて集結するのだ。その年、姉は林間学校で参加せず、実家に集まったのは母と彩芽、母の妹にあたるまさ子叔母と息子のタカちゃん、ゆり子叔母と娘のさなちゃんかなちゃん、茂一伯父さんだった。茂一伯父の二人の息子は中学に上がってからもう親戚の集いに参加しない。祖父は気鬱の病いとかでうるさい母屋に顔を見せず、離れでいつもクラシックのレコードをかけている。
「く~ずい~、おはらいっ」
「く~ずい~、おはらいっ」
長く尾を引いて歌うような呼び声が塀の外から流れてくる。勲章の沢山ついた古い軍服を着てラッパを吹き、リヤカーを引いてゴミを集める、近所の子たちが「ぎんぎら大将」と呼ぶおっちゃんの声だ。
「聞いたかタカ坊。お前なぞあのゴミ屋に出しちゃるとまさ子母ちゃんは言うとったぞ」
伯父さんは声楽家なので叱る声もいいバリトンだ。
「そんなんうそじゃあ」
「参ったといえ。ひいひい喚けば許したる」
「お断りじゃあほう」
体つきの大きな伯父はなかば楽しそうにタカちゃんを組み敷いている。
「ギブアップ、ギブアップじゃあ」タカちゃんがばんばん畳を叩く。
「あんた、もういいかげんにし、タカ坊が壊れてしまうがな」祖母が隣室に向けて咎めるように声をかける。そうしながら、女たちは樫の大きなテーブルを囲み、のんびりと名物の白桃を剥く。
黒一点の茂一伯父は、やせっぽちでいたずらばかりしてはお目玉を食らっている甥っ子の隆志をいじっていつも所在無さをごまかしているようだった。
「ほんとにねえ、うちのタカ坊も彩芽ちゃんみたいにお行儀がよければよかったんじゃけど」まさ子叔母が楊枝で刺したひと切れを口に放り込みながら言う。
「そんなん、この子もこれで結構手がかかるんよ」彩芽の母親が面映ゆそうに答える。
「うちの根性曲がりに比べりゃ楽なもんじゃが。ああ、おばちゃんも持つなら娘がよかったなあ。あんなひいひい坊主じゃなくて、彩芽ちゃんみたいな、目の大きなお利口さん」
自分に向けられた視線がこそばゆくて、彩芽は誤魔化すように丸のままの白桃にかじりついた。彩芽は東京では結構なお転婆なのだが、なぜか岡山に来ると「お行儀のよいお嬢さん」を演じようとする変な癖があって、自分で自分を窮屈に思っていた。
「おとなしいお利口さんならさなちゃんかなちゃんもじゃろ、なあ」渡された肥後守で桃を丁寧に切り分ける双子に向かって母が言う。
「なんの、うちの二人はおとなしいだけで、頭はからきし」
「大人しいのが一番じゃ。うちは一度子どもあかんようにしたからなあ、あれが縁の最後じゃったか」まさ子叔母は昔、女の子を死産したことがあるらしかった。当時はそれは泣きぬれて食事ものどを通らなかったという。いまさら詮無いことじゃと言いながら折に触れては口に出し、今も影膳をかかさない。
「生まれていればもう六歳じゃ」
「数えても子どもは大きゅうならん」眉を寄せて祖母が言う。
「数えるぐらいしたいんじゃわ」
「いない子にゃ苦労はしない、なあ、名言じゃがまさちゃん」母は東京では家の中以外、方言を封印して標準語をしゃべっていた。ここに戻れば遠慮はいらない。はじけるように故郷の言葉が飛び出す。彩芽は水田で揺れる稲穂のように自然なその音節を聞くのが好きだったが、すると今度は愛想のない自分の標準語が妙に気恥ずかしく思えて来るのだった。
「わしにも桃、ひとつくれ」伯父から解放されたタカちゃんが赤い顔をしてかけこんできた。
「あんたは当分おやつは禁止」まさ子叔母は横目で息子を睨みつけた。
「なんでじゃ」
「自分がしでかしたこと考えてみい」
「ちゃんと謝ったが」
「謝っても着物は元通りにならん」
「あんたそんなきつうに言わんでも」祖母が口を挟む。「食べ物で子どもに切ない思いさせたらいけんわ」
「ええわ、もういらん」タカちゃんは一言いうと奥の部屋へ引っ込んでしまった。
「タカ坊、これから婆ちゃんのお使いしてくれるか。ちゃんとやったら婆ちゃんが桃やろう」奥に向かって祖母がなお声をかける。
「あの子は午前中に桃を二つもむいて食べよったからいいんよ。口が卑しいんよ」と答えた後、まさ子叔母は彩芽に顔を近づけ、
「おばちゃんの子にならん?」と、小声でささやいた。
彩芽は下を向いたまま首を横に振った。
いくつも和室の連なる、薄暗くだだっ広い空間の隅で、ちゃぶ台を囲み、女の子組は昼間はたいていお絵かきをした。叔母たちは連れ立って天満屋(町一番のデパートだ)へ出かけ、伯父は縁側で、離れから起き出してきた祖父と碁を打っている。
さなちゃんかなちゃんは二人とも透き通るように色が白くおかっぱで、目が細い。二人並ぶと、一対のこけしのようだと、彩芽はいつも思う。
「彩芽ちゃん一番絵がうまいね」
「うん、すごく上手」
二人は彩芽が女の子の絵をかきだすと、すぐ手を止めて覗き込んでくる。彩芽はお姫様の髪を黒く塗りながら聞いてみた。
「さなちゃん、ジョロウグモって、悪い女の人の化身だっていってたね」
「そういうお話があるんよ。でもほんとにばけてるひともおるかも」
「田舎にジョロウグモが多いのは、悪い人が多いのかな?」
「でもね、蜘蛛にとりつかれてる人はおるよ」かなちゃんがこともなげに言う。かなちゃんは唇の下にほくろがあるので、見分けるのに役立った。
「取りつかれてるって、どういうこと」彩芽は顔を上げて聞いた。
「町あるいてるとね、ときどき、うしろに蜘蛛がついてる人がおる」
「背中に?」
「そうじゃなくて」さなちゃんとかなちゃんは顔を見合わせた。
「黒い、……影みたいな」
「蜘蛛みたいな何かを、背負っとるんよ」
彩芽は二人の顔を交互に見た。
「ふたりとも、見えるの、それ? ついてるの、蜘蛛だけ?」
「のっそり帯みたいに、ながあいもんがついてってるひともおる。男の人に多い」さなちゃんがさらりと言う。
「前も言うたが。そういうの、わたしたち、見えるんよ。ときどき。でもこの話あんまりしたらお母さんが怒るから、やめよ」
ときどき、と言われて思い出したが、彼女たちは「灰色のひとがたくさんいる」と言って、お墓参りを嫌がるのだ。ゆり子叔母は、怖がりだから言い訳してるだけじゃ、と笑っていたが、そのときになって初めて、彩芽は彼女たちが本当に「何か」を見続けていたことを知ったのだった。
けれどそんなこともこの土地の、埃臭い、生き物臭い風の中では自然なことのようにも思われた。