052 下巻
◆
上機嫌のまま目的の本屋にたどり着いたルシードは、今度ばかりは躊躇なく店に入り、店員の女性に挨拶をしてから目当ての本を探す。
すると、すぐに目的の本の一冊を見つけることができた。
それはもちろん、辞書だ。村と都会とでは、同じものでも微妙に意味合いや、呼び方などに違いがある。いちいち興味本位で聞き返していては、相手に良い感情を与えないかもしれない。少しでも勉強しておこう思い、探していた本の一つだ。
値段はいくらだろうかと本の値札を見ると、銀貨五枚。ルシードが思っていたよりも高いが、この分厚さだ、それも仕方ないのかもしれない。しかし、この先必要になることは間違いないだろう。本棚には返さず、手に持って次の本を探す。
本の題名に目を留めては手に取りたい衝動に駆られるが、誘惑に負けじと目的の本を探して数分、ルシードの目的の本は見つからなかったが、洗濯技術に関する本を見つけたので手に取る。大銅貨五枚だが、この本を読んで洗濯技術が上がることを考えれば安いものだ。
最後に目的の本だが、やはりこの店にはないのかとルシードは考たところで、自分で探すより店の人に聞いた方が早いではないかという結論に至り、店の入り口近くにいる店員に話を聞こうとして――足を止めた。
店員のいる場所の近くには、張り紙に特売品と書かれた箱があり、その片隅に目的の本があるのを見つけたのだ。
ルシードは手に取り、値札を確認すると――小さく銅貨一枚と書かれていた。しかも上下巻のセットである。
しかし、箱に入った他の本の値札も見るが、どれも安くて大銅貨二、三枚だ。この本だけ異様に安い。
何故、この本だけ安いのかルシードも気にはなるが、この本の続きを読んでみたいという気持ちは変わらない。まだ上巻しか読んでいないのだ。下巻を読んで、どうしてもその結末を知りたかった。
ルシードは目的の本を手に、店員のもとへと向かう。
「すみません、会計をお願いします」
ルシードは手に持った三冊を店員に渡し、会計を願い出る。
「はい、こちらの辞書と……あの、この本を買われるのですか?」
特売の本を見た店員は、値札を確認する手を止めると、ルシードに聞いてくる。
「……いけませんか?」
「い、いえっ、売り物ですし、いけなくはないのですが……あまりお勧めはできないと言いますか……その、私が好きじゃないだけなんですけどね」
これから買おうとしている本の内容を言うわけにもいかないのだろう、店員は困ったふうに言う。
とはいえ、上巻を読んだルシードも内容はあまり好ましいものではなかったことから、その気持ちもわかる。ルシードがお勧めの本を聞かれても、この本の名前はだけは、決して口に出したりはしない。
「そうですか。……いえ、それでも買います。会計してください」
「……わかりました。それでは、こちら三点でお会計、銀貨五枚と大銅貨五枚、銅貨一枚になります」
ルシードは硬貨を取り出し、支払いをすます。
「ありがとうございました。……また来てくださいね、他にも良い本はたくさんありますから」
「はい、それでは……」
ルシードは店を出る。店員の女性の言い方に嫌な予感を覚えるが、気のせいであって欲しいと願うしかない。
大通りに設置された時計を見ると十八時四十分。今日は帰ってゆっくり本を読んで過ごそうとルシードは考え、家路を急ぎつつも、浮つく気持ちは抑えられない。他に通行人もいないと見て、これなら誰かにぶつかることもなさそうだと、買った本の中から洗濯技術の本を取り出して読む。
しかし、上機嫌もここまでだ。しばらくして、ルシードは道すがらに読んでいた洗濯技術の本を閉じ、背中を伝う冷や汗に身震いする。
「危なかった……服に変なタグがついてるとは思っていたけど、洗濯する時に水洗いできる物とできない物があったのか。他にも色々マークがあるみたいだし、覚えておかないとな……。それに、色移りも気をつけないと……これにはベアトリクスさんの服が全部一緒で助けられたってところか」
洗濯とは、ただ水と洗剤で洗えばいいというものではなく、色々と注意しなければいけないことがあったのだ。今回はベアトリクスの趣味に助けられたが、一歩間違えればすべて弁償しなければいけないところだった。
この本を買っておいてよかった、とルシードは心の底から思う。今こうして読んでいなければ、次に洗濯の依頼を受けた場合、失敗するところだったに違いない。他にも洗剤を入れすぎないことや、水の温度は少し温いくらいがちょうどいいなど、ためになることが多々書かれている。
ルシードは先人の知恵に感謝し、本を閉じて冒険者カバンに戻すと、家に近いところまで来ていることに気づき、家路を急ぐべく止めていた足を再び動かした。
◆
ルシードが玄関の扉を開けると、ルーファが何か考えるように目を瞑って腕を組み、ホールを右往左往している姿が目に入る。
部屋の間取りを把握しているにしても、目を瞑ったまま歩くとは器用だな、と思いつつ、何かあったのだろうかと声をかける。
「ただいま。何かあったのか?」
ルシードの声に気づいたルーファは足を止め、半身の状態から首だけをゆっくりと動かしてルシードの姿を目に入れると、顔を赤くし、今度は素早い動きで風呂場の方を、次にホールからも見える二階の部屋の扉を見て回る。
「……どうかしたのか?」
ルーファの動きは、まるで他に誰かいないか探しているかのように見えるが、ここは彼女たちの家で、更に言えば玄関ホールだ。ルシードもルーファに習って周囲を確認するが、何も見つからない。ルーファは何を警戒しているのだろうかと、不思議に思うことしかできないで終わる。
「い、いや、なんでもねぇ……じゃない。おかえり、早かったな……でもないだろ、さっきまで練習してたじゃねぇか。しっかりしろ、アタシ!」
ルーファはいったい何をしているのだろうか……ルシードに背を向けて赤くなっていた頬をパシパシと両手で叩いたかと思うと、振り返り――
「お、おかえりなさいませ」
にっこり笑って言う。
しかし、普段の彼女を知る身としては、違和感しか覚えられないだろう。
「……変な物でも食べたのか?」
「な、なんでそうなるんだッ――なるんですか。アタ、わたしは何も変じゃな――変ではありませんよ」
本当に何があったのだろうか。顔も赤く、言葉遣いもおかしい。もしかして熱があるのかもしれない。
ルシードは熱を測ろうとルーファに歩み寄り、おでこに手を伸ばす。
「な、なな、何?」
ルシードの伸ばされた手に驚いたのか、ルーファは大きくうしろに仰け反った。そのせいで、ルシードが伸ばした手はルーファに届くことなく、空を切る。
「……熱でもあるのかと思って。本当に大丈夫か? 熱があるなら休んだ方がいいぞ?」
「いや、ホント大丈夫だか――ですから、ちょっと言葉遣いを女っぽく――女性っぽく変えようと練習をだな――練習をしているんです。お前も――ルシード……さんもそう思うだ――でしょう? ほ、ほら、好きな人ができた時とかに、良い印象を与えたいって言うか……」
言葉を途中で言い直したりするせいでわかりにくいが、ルーファの言いたいことをルシードは理解した。
「俺は別に気にしないけどな……。人の個性ってのもあるし、逆にそういうところが良いって人もいるんじゃないか? 好きな人がって言うなら、そういうのも含めて好きになってくれる人の方が堅苦しくなくていいし……。まあ、どうしてもその人じゃなきゃダメだって言うなら話は別だけど、いきなり無理に直そうとしても直らないもんだしな。俺だって男らしい言葉遣いをしたいと思ってるけど、相手が目上の人だったりすると必要に応じて変えるし、まだ子どものころの言葉遣いだって抜けてないところもある。こういうのはゆっくり矯正していく……って聞いてる?」
ルシードは色々と御託を並べてみたが、ルーファは最初のあたりから話を聞いていないかのようにボーっとしていた。
「……あ、ああ、聞いてる。そうだよな、お前が……あ、相手が気にしないなら、別に無理に変える必要もないよな!」
「……そうだな」
ルシードの言いたかったことは伝わったようで伝わっていないような、なんとも微妙な感じではあるが、本人が納得したのならそれでいいだろう。それよりも、ルシードにはルーファに伝えておかなければいけないことがある。シエラに宝石を預けてあることだ。
「今ちょっと時間あるかな? 話があるんだけど」
「へ? 話? ……アタシに?」
「ああ、都合が悪いならあとでもいいけど……明日までにはしておきたいかな」
「だ、大丈夫だ。今なら邪魔も……じゃない、とにかく大丈夫だ」
またしてもルーファは周囲を見渡したが、やはり何もない。ルシードは勘繰りすぎかと、話を続ける。
「それで話なんだが、昨日のワイヤーのお返しになりそうな物を探してたら宝石の原石を持っていたのを思い出したんだ」
「ほ、宝石?」
「ああ、今はアヴリーヌ宝石店ってところで加工してもらってる。それをワイヤーのお返しにと思ってるんだけど、どうかな?」
「へ、へー、宝石ね。あ、あれかな? 昨日言ってたスピリティア・ストーン」
宝石と聞いて、ルーファは昨日、スピリティア・ストーンが売れないかと聞いたことを思い出したのだろう。名前を出したが、ルシードはスピリティア・ストーンが売れたとしてもワイヤーの価値には届かないことは百も承知だ。
「いや、それとは違う宝石なんだ。シエラさん――アヴリーヌ宝石店の店長さんが言うには大金貨一枚の価値はあるそうなんだけど、今なら在庫が少ないそうで大金貨三枚で買い取ると言ってくれているんだ」
「へ? あ、あれ? 宝石は売るのか?」
大金貨三枚の話をしたあたりで、あからさまにルーファの顔が曇るが、ルシードは気にせず続ける。
「ルーファがお金で欲しいならって話だよ。この紙を持って行けば宝石か大金貨三枚か、どちらかと交換してくれる。どっちにするかはルーファが決めてくれ」
ルシードは冒険者カバンからシエラにもらった宝石の引換用紙を取り出してルーファに手渡す。
「……ア、アタシが決めていいのか? 今なら大金貨三枚なんだろ? ……アタシは宝石を選ぶぞ? お前からだって言うなら、お金より宝石がいい。い、いや、宝石じゃなくてもいいんだけどさ! お、贈り物って意味で!」
ルーファはなかなかに嬉しいことを言ってくれる。これならルーファに宝石を持っていてもらうのが一番いいだろうと、ルシードは頷く。
「ああ、ルーファが決めてくれ。どっちを選んでも、ルーファがもらってくれて構わないから」
「……わかった。い、今から取りに行けばいいのかな?」
すでに玄関の方へと体を向けて出て行こうとするルーファを、ルシードは慌てて止める。
「待ってくれ。明日の朝以降って話なんだ。今は加工してもらってるから、今行ってもダメなんだ」
「あ、そっか。そうだったな。あ、あはは、悪い悪い。ちゃんと聞いてたはずなのにな」
ルーファは先程赤いと思った顔を更に赤くさせて引換用紙を冒険者カバンに仕舞った。本当に熱がないのか、ルシードは心配だ。
「それで、みんなはどうしてる? 今日は夕食が要らないって伝えておきたいんだけど」
「へ? 飯食わないのか?」
「今日知り合ったお店の人からお弁当を買ったんだ。セラフが朝、夕飯はできたてのご飯を出してくれるって言ってたから謝っておかないと」
「なんだ、そういうことか。セラフはアルマリーゼと一緒に夕食の材料買いに出たっきりだ。帰ったら伝えておくよ。サーシャは今日も子どもたちのところかな? 昼頃出てったけど、時間も時間だし、そろそろ帰ってくると思う。ミラはさっき飯の前に風呂に入るって言って、風呂場に入って行った」
「そうか。……それじゃあ、悪いけど、セラフが帰って来たら伝えておいてくれないか? 俺も直接会った時に謝っておくよ」
「わかった。アタシに任せてくれ」
セラフへの言伝をルーファに頼み、ルシードは自分の部屋へと階段を上る。
部屋に入り、ロザリーの弁当と買った本を取り出して机に置くと、横を向いて椅子に座った。行儀は悪いが、今日は夕食を取りながら本を読むつもりだ。
弁当の蓋を開いてから膝の上に本――表紙に『ティム』とだけ書かれた本を置く。
この本は友人を守るために人を殺した少年の話だ。助けた友人に距離を取られ、家族からも嫌われて家を出る。そこで上巻は終わっていた。そのあと少年がどうなったのか、ルシードがそれだけを知りたくて探した本だ。どうしても、この本の結末だけは知っておきたかった。
――ルシードは少し緊張をはらんだ手で、ページを捲る。




