ただ、ピアノを演奏するのが上手だ、とだけ
FBIの交渉人が犯人グループと対話を続ける間にも、ピーター・エバンスの自宅には、妻カーラの指や、耳が次々と送り届けられた。
しびれを切らしたピーター・エバンスは、捜査陣には知らせることなく身代金の受け渡しを自分自身でセッティングした。得意のITテクノロジーで電子的に安全な受け渡し方法まで(仮想通貨を経由して、現金化をする手法だった)用意して、犯人グループと接触。
犯人グループに受け渡しが安全であることを証明しさえすれば、妻カーラは自宅に戻れる筈だった。
だが、心無いマスコミから、電子的な決済は原理的に追跡可能である旨の報道があり、激昂した犯人グループは、カーラをリボンがかかった五つの小箱に詰めて、ピーター・エバンスの自宅に届けた。
当時、セレブを目標にした外国人グループによる誘拐がアメリカ国内で頻発しており、一説によると、治安当局者は『身代金受け渡しの成功』によって、身代金目的の誘拐が実現可能であると認識されることを恐れた。とも言われている。
マスコミの失態は、治安当局者の意図的なミスリードによるものだと。
四歳のアリーは、リボンのかかった小箱を抱えて、よろけながら、無邪気に、父へ届けたそうだ。
ピーター・エバンスが書いた自叙伝には、妻のことは書かれていても、娘についての記述はほとんどない。
ただ、ピアノを演奏するのが上手だ、とだけ。
娘のプライバシーに配慮したのか、それとも娘に関心がなかったのか。テキスト情報だけでは、唯斗には判別がつかなかった。