なにもかも台無しにしちゃったみたい
『どうした、アリシア。なにがあったんだ?』
シートに取り落とした携帯から、父の声が聞こえた。
アリシアは返事をしなかった。ちゃんと聞いていればいい。こんなことだって起こる。
アリシアが欲しいのは安全じゃなかった。安全なんて、ガラス細工と同じだ。なにかのはずみで簡単に壊れてしまうものだ。
アリシアは任務を通じて、それを肌に刻むようにして理解した。アリシアが欲しかったのはもっと他の、確かに感じられるものだった。
でも、きっとパパには分からないわね。ママを理不尽に奪われたせいなのかしら、それともあたしが、パパの望むような子供じゃなかったから?
「べつになにも。銃を持った男たちがいて、あたしたちを狙ってる。大丈夫よ。目的はあたしだから。すぐには殺されないし、ボディガード達にも手出しはさせない」
ほらね、それって立場がある人間の配慮でしょ。
『アリシア! どういうことだ?』
「たぶん、身代金目当てよ。パパとあいつらで、あたしに値段をつけてね。どれくらいの値段がつくのかしら? フェラーリより安かったら、ちょっと切ないわね」
襲撃者は馬鹿じゃなかった。少なくとも立案者は。ちゃんと襲撃のストーリーは筋道が通っていた。
装甲車でもエンジンを冷やす必要はある。冷却装置まわりは無防備だ。襲撃者が、二人がかりで十二.七ミリの対物ライフルを運んでいるのが見えた。
冷却装置を抜いて、エンジンを破壊したのだ。レクサスは数十メートルを走って停車した。
『アリー!』
「……だってあたしのせいじゃないもの」
襲撃者は、一般的なアメリカ人の服装をしていたけれど、一般的なアメリカ人はカラシニコフを携行したりしていない。肌が黒い男たち。アリシアはリジエラにいるような錯覚を起こす。
男たちは六人いて、アサルトライフルを油断なく構えながら、英語で書かれた紙切れをフロントガラスに押し付けた。
――大人しく娘を渡せば、危害を加えるつもりはない。
と、アピールしつつ手には焼夷手榴弾を持っていた。防弾ガラスを抜けなくても、蒸し焼きにすることはできるぞ、という意味だ。
ボディガード達は、生存本能と職業倫理の板挟みになって苦しんでいるように見えた。懐に強力な火器を隠してはいたけれど、狭い車中で効果的な応戦は不可能だった。
「いいのよ、大丈夫。あたしが行けばいいの。誰も死なないし、誰も傷つかない」
「しかし――」
「しかし、なんなの? なにか手がある? それとも職業意識が傷つくだけ? ふざけないでよ。あなた達の命は、あたしが自分の命で買うわ。だから忘れないでね、あたしが身代りになったこと」
なにを言っているんだろう、あたし。こんなに性格悪かったっけ?
アリシアは、ボディガードたちの上着から銃を抜き取り、窓の隙間から外へ落とした。正義感に捕らわれて、事故で死なれたりしたら寝覚めが悪いから。
アリシアは通話が繋がったままの携帯を、よく音が聞こえるように、シートの上に置いた。
それから、ドアのロックを外して、堂々と外に出た。
途中、ボディガードの膝の上に座ることになったけれど、アリシアは、まずまず大人みたいにふるまえたと思っていた。
襲撃者たちは、まだ戦闘経験が浅いようで、周囲警戒も援護もない、まるで素人同然の連中だった。
特別、乱暴なことはせずに、用意したアイマスクで、アリシアの後ろから目隠しをした。
何事が起ったのかと、野次馬の集まる気配があったけれど、カラシニコフの威嚇射撃で、悲鳴をあげて逃げ散っていった。
襲撃者たちは、逃走用の車を用意していて、それは信じられないくらいにチープなシートの感触で、アリシアは車酔いするな、と思いながら。小さく十字を切って、見たこともない母親に祈った。
ごめんね、ママ。あたし、なにもかも台無しにしちゃったみたい。




