人の生死を、自由にしてもいいと、思った?
どうして、こんなことになってしまったのか、アリシアは思い出せない。
おなかが減ったし、頭がズキズキした。美少女はカロリーの蓄えが少ないので、二時間に一度のペースでおやつが必要なのだ。目の前のこいつはそんな当たり前の常識も知らない。
なにしろしつこい。諦めるという事がない。
〈ヌエ〉は、たぶん、女の子にもてない。アリシアは秘かに断定した。
猿と一緒だ。というより猿のほうがマシだ。猿は、つまらないゲームの勝敗にこだわって、年端もいかない少女を五時間も軟禁したりしない。
「くそっ……手加減なしとか……いじめだろ、これ」
「手加減してるわよ。あんたが弱すぎるんじゃないの?」
「……もう一回」
唯斗は歯痒げに、スタートボタンを連打した。
アリシアと唯斗が繰り返しプレイしているのは、『剛拳』という古いゲームタイトルだ。一世を風靡し、今も新作が発売される伝統のタイトル。【カブレラ・ストーン】の『剛拳』は、その記念すべき一作目に当たる。
仕方なく付き合うけれど、アリシアの関心は、もうゲームから離れていた。
「ねぇ、人を殺すのってどんな感じ?」
唯斗の操作する、年老いた武道家のキャラクターは、十二ヒットコンボを受けて、床に倒れ伏した。あんたの負けの文字が、大きく画面に踊る。
「また、その話か。なんでそんなことを聞くんだよ」
唯斗はゲームパッドを床に投げた。大きく伸びをして、足を投げ出す。
「あたしは、たぶん無理。そうするべきだと思ってもできない。どうして、ヌエは殺せるの?」
唯斗は、ぼんやりした表情でアリシアを見つめた。東洋人の表情はよくわからないし、唯斗の視線は、アリシアを通り過ぎて、どこか知らない所を見ているような感じもある。
よく見ると、部屋に積み上げた古い本も、なんだか難しげな物が多かった。日本語と併記された、アリシアにも読める著者の名前は、ホワイトヘッド、カール・ポパー、フォン・ノイマン。哲学書なのか科学書なのかわからないけれど、時代がかった名前の著者たちは、アリシアにはぜんぜんなじみのない物だった。
アリシアは思想的な本は読まない。それは手で触れることができない物だから。アリシアの心を埋めてくれるのは、もっとシンプルで、もっと安心ができるものだ。
「べつに殺そうと思っていたわけじゃない。同じことが二度と起こらないようにしただけだ」
「自分なら、それをしても許されると思ったの?」
人の生死を、自由にしてもいいと、思った?
「なにその言い方。そんなこと思ってない」
唯斗はむっとして、アリシアを睨んだ。
「じゃあ、神の声でも聞こえた?」
アリシアは、べつに揶揄するつもりはなかった。本当に知りたかった。アリシアも間接的には人を殺す。対戦車弾頭を使って、死体を見ずに。でも、それは正義だと信じてやっていることだし、命令があるからできることだ。
アリシアはキリスト教徒だった。
人を殺すのには、自分以外の誰かが背中を押してくれる必要がある。アリシアは、そう思っていた。
「ぼくは無信仰だよ。必要だからやった。それだけだ」
「正義感からなの? だって人を殺したら、自分も傷つくでしょ?」
「ちがう。ぼくは正義なんか信じてない」
「じゃあ、なんで?」
どうして、ヌエにはできるの?
「『ハルシオン』と同じだよ。すこしだけマシになると判断した。世間ではいろいろ言うけど、ぼくの見たところ、『ハルシオン』のアルゴリズムには、人道も友愛も関係ない。ただ『人の死』を最少化するように『世界』を操作しているだけだ。理念なんかない」
唯斗の言葉は、アリーには理解できなかった。アルゴリズムはアリシアを温めてくれない。手を握ってくれないし、声を聞かせてもくれない。
「大学の研室室で行われるセル・オートマトンと同じ。ただの思考実験だ。ぼくも同じだよ。世界に干渉してみた。理不尽な死が最少になるように。おかしいかい?」
「……ごめん、わかんない」
ごめんね、理解しようとはしたけど。
「だよね。アリーは唯物主義者だと思った」
唯斗は、寂しげな笑みを浮かべた。
「あたしは目に見えない物は信じない。ヌエはどうしてそんなことでがんばれるの?」
「がんばるって?」
「『バルバロイ』のことよ。見たところそれほど『ハルシオン』に共感しているわけでもなさそうだし」
アリシアは、ゲームのコントローラを置いて、隣で座る唯斗に、にじり寄った。
「な、なに……なんなの?」
唯斗は動揺してのけぞったので、アリシアは唯斗の足の間に膝をついて、覆いかぶさる形になった。