こんな情けないのにやられちゃったの?
唯斗の眠りは、いつも泥みたいだった。物心ついてから、すっきり目を覚ましたことなんて一度もない。
それが生活習慣のせいなのか、それとも心の鬱屈のせいなのか、唯斗には判断がつかない。両方なのかもしれないし、両方とも見当はずれなのかもしれない。
目が覚めたのは、乱暴に玄関のドアを叩く騒音のせいだ。集金人や宅配のドライバーはこんな無遠慮でぶしつけな真似はしない。
唯斗は、頭に被った湿っぽい布団の中で苦悶した。
なんなんだいったい。借金取りか?
いやいやでも玄関を開ける気になったのは、苦痛から逃れたいためだった。マンションの室内では金属音が反響する。
頭が割れそうだ。いい加減にしてくれ。
「……だれ?」
とドアを開けると、目の前に、栗色の髪で、ふっくらと桜色をした唇の少女が立っていた。
寄宿学校の制服みたいなきっちりとしたチェックの服を着て、長い髪はまとめて、ちっちゃいベレー帽の中にしまっている。瞳はお人形さんみたいな茶色がかった薄緑だった。
白人の、完璧な容姿をした、幼い女の子。澄ましていると、表情からは感情を読み取ることができない。よく西洋人が東洋人の表情はわからないというけれど、日本人にだって、アングロサクソンの表情はわからない。
唯斗は発作的にドアを閉めた。
考えてもみてほしい、何気ない朝、自宅のドアの前に『完璧な容姿をした白人の少女』が立っていたら、その状況はゴシックホラー以外のなにものでもない。
シャイニングとか、オーメンとかそんな感じだ。もし現れたのが双子だったら、唯斗は震えあがって、おしっこを漏らしている。
恐怖にかられ、ドアをロックし、チェーンをかけた。とっさに逃走路を確認したが、ここはマンションの五階だ。火災用の梯子……いや、降着用のロープか……無理だ。唯斗は高所恐怖症だった。
唯斗がパニックに襲われていると、ドアの向こうから、どこかで聞いたことのある声が届いた。
「なにを怯えてんのよ、失礼ね。べつに取って喰いやしないわよ」
『ハルシオン』の作戦任務中に、何度も聞いた声だ。女王様気取りの高飛車なセリフ。
「あ、アリー⁉」
「そうよ、思っていた以上の美貌なんでびっくりした?」
「いや、思っていたより――」
唯斗が頭に描いていたアリーは、ハイスクールのチアリーダーみたいな、肉食系の女子だ。
「――思っていたより、ちんまい」
「ちんまい? イングリッシュではどういう意味?」
「いや……忘れて。それより、どうしてここがわかったんだよ!」
「あたしのパパは、フォーブスのランキングでTOP3に入る企業の最高経営責任者よ。本気で調べて、わからないことなんてないわ」
「どうやって?」
気がついていないかも知れないけれど、〈アリー〉は『ハルシオン』の軍事行動について、根幹を揺るがすような重大発言をしている。
個人情報の暴露はピクシードライバーにとって死を意味するのだ。身元が秘匿されているから、危険な任務にも従う。命の危険を冒してまで、作戦に参加する人間はいない。
「普通に最寄りのアクセスポイントくらいわかるもの。あとはその地域の不登校児童をしらみつぶしに当たっただけ、何百人もいるわけじゃない。その筋のプロに頼めばすぐにわかるわ」
「マジすか……」
「あんたの安全なんて、あたしの手の平の上よ……どうして、そんなにびくびくしているのよ! ムカつくわね」
唯斗はおそるおそる、先ほどから気になっている質問をする。
「あの……怒ってる?」
「昨日の訓練のこと? 別に……ノーカウントになったし。それよりこのあたしをいつまでここに立たせとく気なの? さっきからすごく見られてるんだけど」
見られてる? それはまずい。ただでさえ近所ではろくなことを言われてないのだ。
唯斗はあわてて、玄関のカギをあけた。
「やれやれ。あたし、こんな情けないのにやられちゃったの?」
マンションの通路で腕組をして待っていたアリーは、ネコ科動物のしなやかな動きで、唯斗の横をすり抜けた。
唯斗の鼻を、たぶん体臭に由来する甘ったるいにおいがくすぐった。
「な、なに赤くなってんのよ。気味が悪いわね。ボディガードを呼ぶわよ?」
〈アリー〉は日本の文化について興味があったらしい。膝立ちで抜いだ靴を玄関に揃え、シツレイシマス、と片言で言ってから、家に上がった。きっと習い事でお茶の稽古かなにかをしているのだ。