インライブラリー
「暑い……」
余りに暑苦しいものだから、私は寝返りをうちつつ唸った。今年で通算十七回目の夏を迎えたわけだけれど、真夏の暑苦しさにはやっぱりいつまでたっても慣れない。それに外から聞こえてくる耳障りな蝉の鳴き声が、この暑さを更に助長しているような気さえしてくる。
Tシャツにハーフパンツ、そしてお腹を出して四肢を投げ出している私の格好は、この辺りじゃ有名なお嬢さま学校に通っている淑女としては、明らかにはしたない。そこまでして自らをなげうっているのに、この暑苦しさだ。本当たまったもんじゃない。夏休みという長い休日に入って、一時は舞い上がったりもしたけれど、この暑さに根負けしてしまい、今ではこんな状況である。
「ああ、暑いわ……」
そうして今日何度目かもう失念してしまった寝返りを再びうったときだった。
勉強机の上におきっぱなしにしてあった携帯が鳴り響いた。
「え、電話ぁ?」
正直なところ、電話をとるために起き上がることすら億劫で、スルーしてしまおうかと思った。
いかんいかん、お嬢様学校の生徒として、最低限の振る舞いというものはある。
そう思い直して私は仕方なく体をおこした。
誰からの着信か確認もせずに電話に出る。
『もしもし、愛理さん?』
「あ、芽衣さんっ?」
その声の主は、日頃からなにかと仲の良い、クラスメイトの芽依さんだった。まさか芽依さんから電話がかかってくるなんて想いもしないから戸惑ってしまい、お嬢様学校の生徒にあるまじき対応をとってしまった。
これはまずいと冷静になり、言葉を取り繕う。
「あ、えと……はい、もしもし。ええ、愛理です」
外行きに声をつくり、お嬢さま然としたしゃべりを意識した。
『愛理さん、一週間ぶりかしら。最近本当に暑いわよね。参っちゃうわ』
「ええ、本当に。今だって、芽衣さんから電話がかかってくるまでは、だらしない格好で寝転がっていたくらいだもの」
こんな恥ずかしい話を笑いながらできるのは、芽衣さんくらいのものだ。本当に親しい人でなければ、こうして自分をさらけ出すことなんて出来はしない。
『ふふ、愛理さんらしいわね』
私がおちゃらけた話をすると、芽衣さんはいつも笑ってくれる。電話越しだから顔を見ることはできないけれど、きっと上品な微笑みを、その端正な顔に湛えていることだろう。私は芽衣さんのそんなやさしい笑顔が大好きなのだった。
「あの、芽衣さん? それでなんのご用だったの」
『あ、いけない。愛理さんのお話に気を取られて忘れていたわ。まあ、そんなに大した用でもないのだけれど』
「なにかしら?」
『あのね、今から、図書館で一緒に夏休みの課題をやりましょう……って誘うつもりだったのよ。ほら、図書館は静かだし、冷房も効いているでしょう? 二人で協力すればすぐ終わるでしょうし、愛理さん、どうかしら?」
思いがけない友人の誘いに、私はなんと答えてよいものか、一瞬言葉に詰まってしまった。
暑いから外出したくない――そんな出不精たる私のだらけきった根性が顔を出したから。
しかし。
それ以上に、芽衣さんに会いたい、という思いもあったのだ。
暑さから逃げ、家に引きこもっているか、暑さに耐えて天使芽衣さんに会うか。
両天秤にかけた結果、私は電話の向こうの芽衣さんにこう告げた。
「ええ、喜んで」
――と。
じりじりと肌を焼かれるような日差しに苛まれ陰鬱な気持ちになりながらも、私は自転車を走らせた。
いくらお嬢様学校に通っているといっても、私の家庭は一般的なそれと対して変わりはない。
だから、この炎天下の中、私は額から溢れ出る汗を拭いながら懸命に自転車をこいでいる、というわけなのだった。黒のでかい高級車での送り迎えなんて、私みたいな似非にはあるわけないし、だいたいあんなのアニメやドラマだけのものでしょう。
視界さえぼやける暑さに耐えながら約十五分ほど走って、ようやく目的地である図書館が見えてきた。この図書館は、私たちの通う姫乃宮女学園からだいぶ近い。芽衣さんはソフトボール部に所属しているから、きっと夏休みの練習の帰りにそのまま向かったのだろう。
館内に入るとすぐに、私の全身はひんやりとした心地よい冷気に包まれた。先ほどまで体中を駆け巡っていた多量の汗が途端に引いていくのを感じる。
そこから、中をきょろきょろと見渡してみる。夏休みだからか、中にはたくさんの人がいた。小学生と思しき少年たちがテーブルに向かって宿題とにらめっこしていたり、幼稚園くらいの子がお母さんに絵本を読んでもらっていたり。
その中には、涼みに来たついでに宿題をやっていたり本を読んでいたりする人もいるんだろう。なにせ私もそうだから。
図書館に来るのは久しぶりだったけれど、人によって、読む本によって、その表情も千差万別で面白かった。人間観察もなかなか悪くない。
しかし、そんな様々な人の中から、肝心の芽衣さんを見つけることはできなかった。
――まだ来ていないのかな。
心の中でそうつぶやいたけれど、それが違うであろうことは分かっていた。
だって、あの後いろいろと準備に手間取ってしまい、ここに到着するまでに約三十分もかかってしまったから。それだけの時間があったら、練習があったであろう芽衣さんはとっくに着いているはず。
そんなわけで、芽衣さんはどこかに隠れているんだろうという結論に至ったのだ。
とりあえず探そうと足を勧め、本を求め放浪している人たちの間をぬって捜索をスタートした。
雑誌コーナー、文庫本が並ぶコーナー、外国文学コーナーと順にさがしたけれど、いなかった。
そうしてたどり着いたのは、児童書コーナー。
さすがにここにはいないだろうけど、一応確認だけでも、ってその区画に突入したら――いた。
本棚と本棚の間にはちょっとした椅子があって、そこに座って読むことができるようになっている。本棚のすぐそばにあるから、立ち読みしなくてもいいようにとの配慮だろうか。
そこに、芽衣さんは座っていたのだ。
「芽衣さ――」
声をかけようとして、やめた。離れた距離からはわからなかったけれど、近づいていく過程で、芽衣さんの瞳が閉じられていることに気がついたからだ。
芽衣さんはすーすーと穏やかな寝息をたてながら、眠っていた。白くて柔らかそうな頬をほんのり赤くして、眠っていたのだ。そんなのを見てしまったら、起こす気になんてなれるわけがない。
よく見ると芽衣さんはその手に本を持っていた。半分くらいのところで、開かれている。読んでいる途中で睡魔に襲われたんだろう。私が来るまで本を読んで待っていよう、と芽衣さんが考えたであろうことは、容易に想像できた。
「芽衣さん……」
起こさないよう、小さい声で彼女の名をつぶやき、私はそっと隣に腰をおろした。
まだ、芽衣さんは目をさまさない。練習で疲れていることもあって、完全にリラックスしているらしかった。芽衣さんの寝顔はまるで童話のお姫様のように優美で、上品で、かわいらしい。この美しい横顔を、ずっと見ていたいと思った。
リズムを刻むような芽衣さんの寝息を横で聞きながら、私は持参した文庫本のページをめくる。彼女の寝息は、私を夢の世界へ誘っているようにも思えた。
――それにしても。
芽衣さんがこういう本を読むとは、意外だった。
芽衣さんが読んでいた本の表紙には、今小学生の間で人気があるという、キャラクターのイラストが描かれている。その本は私が小学生くらいのころからずっと続いている人気シリーズで、私くらいの年代の人ならば懐かしさにかられて思わず手にとったりすることはあるのかもしれない。じっさい私もその口で、数時間かけて読みふけってしまったこともあるほどだ。
けれど、芽衣さんがこれを読むというのは、私の抱く芽衣さんのイメージが壊れる行為ではあった。芽衣さんというのは、いつも小難しい専門書だとか海外文学を原語で読んでいたりしているものだから。
まあ私が勝手に抱いている芽衣さん像ではあるんだけれど、その意外性は抜群だった。
もちろん悪い意味じゃない。
私と芽衣さんは、曲がりなりにも同じ時間を共に過ごすかけがえのない親友だと思っている。それでも、互いに知らないことはいくつもある。だから、こうした私の知らない芽衣さんの一面を垣間見ることができて、むしろ嬉しかった。
少しずつ、少しずつ。
互いを理解していって、絆を深めていく。その感覚は、たまらなく心地いい。
心が幸福で満たされていく。ちっぽけな幸せだけれど、そのちっぽけだけでも、私には十分すぎるほどだ。
芽衣さんが持っていた本は、気付けば彼女の太腿の上にまで移動していた。もちろん本が勝手に移動したわけじゃない。眠っていて身動ぎするうちに、本を持っていた手を離してしまったのだろう。
そうして空いたその手はどうなったかというと、となりに座る私のところへとやってきたのだった。
けれどそんな状態になっても、その気品が失われることはない。鼾をかいたり、涎を垂らしてしまったりということがないのは、さすがお嬢様といったところか。
眠っているからかほのかにぬくもりを帯びた芽衣さんの手を、私は両の手でそうっと包み込む。
「もう、芽衣さんったら……」
思わず表情がほころんでしまったけれど、生理現象だからしかたない。
私は再度友人の寝顔をその目にしっかりと映した。
信頼しきっているように、安心しきっているように。その表情はやっぱり穏やかだった。
冷房が効いているこの図書館のなかで、私と芽衣さんをつなぐこの手だけが、じんわりと温かかった。
芽衣さんが目をさましたのは、それから十分を過ぎた頃だった。
「おはよう、芽衣さん」
ん、とちいさく声を上げた芽衣さんに、そう声をかける。覚醒した芽衣さんは、すぐ隣にいる私をみて、それはもう、今までにないくらいに取り乱した。
「えっ、い、いつからここに? 私、眠っていたの?」
などと私を質問責めにした後、自らが持っていた本に気がつき、顔を紅潮させた。
「あ、あの、これは……えっと、幼い頃に一度だけ読んだことがあって、懐かしくなったものだから思わず……」
別に言い訳なんかする必要ないのに、やっぱり恥ずかしいのか必死に弁解しはじめた。あわてて本を棚に戻そうとしてうまくいかず、ほかの本を巻き添えにして落としてしまったりして、もうてんやわんやの大騒ぎ。
いつも落ち着いている芽衣さんが、そんな風にあわあわしているというギャップが面白くて、私は笑った。芽衣さんも笑っていた。
そんな、「らしくない」芽衣さんも、やっぱり可愛らしいなと思ったけれど、それは口に出さなかった。
その思いは、誰にも気づかれないよう胸にしまっておこう。
私だけが知っている、芽衣さんのかわいい一面。みんなに、心の中でこっそりと自慢してやるのだ。
「愛理さんたら、起こしてくれればよかったのに」
「ふふ、芽衣さんの寝顔、本当に気持ちよさそうだったわ」
「もう!」
――それは夏休みのとある日に起きた、たわいもない出来事。
だけど私にとってそれは、すごく大きな出来事だった。