離婚宣言?
立花実咲様主催のチャリティ企画【One for All , All for One ……and We are the One オンライン作家たちによるアンソロジー~】参加作品。「vol.2」(販売期間:2011/4/30~2012/01/31)に掲載されていました。再掲載解禁とのことなのでこちらに再掲載させていただきます。
「離縁して欲しいんだ」
ウィラート・ジュス・ローシェ伯爵は妻と二人で付いた朝食のテーブルの席で、いきなりそう言い始めた。
ちょうどお茶のカップを自分の口に運ぶ途中であった時にそんなことを言われた、妻のマリエラ・アンエリゼ・ローシェ伯爵夫人は、だけど、一瞬運ぶ手は止めたものの、またすぐに動きを再開させた。
ウィラートはじっと妻を見つめ、彼女がカップに口をつけて一口飲むのを見守った。
カチリと、小さく音を立ててカップが皿に戻されるのを見届けて、ウィラートは更に言った。
「好きな女性ができたんだ。それで、彼女と一緒になるために、お前と離縁したい」
いきなり夫にこんなことを言われたら、普通の妻はショックを受け泣き喚くだろう。
だけど、ふわりと笑みを浮かべて三歳年下の夫の顔を見つめたマリエラの口から出た言葉は――。
「私はかまいませんよ……?」
という何とも淡白な返事だった。
ウィラートの口元がヒクッと引きつった。
そんな夫の表情に気付いているのかいないのか、それとも気にしないだけなのか、マリエラは更に言った。
「いつにしますか? 私はいつでもいいですよ? だけどあまり先に延ばすと、貴方の再婚するのが遅くなってしまうわね。私と離縁してすぐの結婚は醜聞が悪くてできないでしょうから」
そして少し何か考えるそぶりをした後、マリエラは笑顔になった。
「そういえば半月後に前伯爵さまの誕生パーティがあるんでしたわ。私の両親も来ますから、その時に離縁のことを話せばわざわざ両家に足を運ぶ手間が省けますね。一度の説明で済むんですから。それから手続きするとなると……一ヵ月後くらいでしょうか? それでいいですか、ウィラート様?」
笑顔のままテーブルを挟んで目の前の夫を見やったマリエラは、あら?と首をかしげた。
どういうわけだか、ウィラートは俯いてフルフル震えている。
テーブルに置かれた手が血管が浮き出るくらいギュウっと握られていて、その拳も心なしかワナワナと震えているようだった。
「どうしましたか? 一ヵ月後では遅いですか?」
「……っ……」
夫が何事かつぶやいた気がしたが、残念ながらマリエラの耳には何を言ったのか判別つかなかった。
だから勝手に夫の様子から推測した。
一ヵ月とはいえ、愛する人と結ばれるのを我慢するのが辛いのだろうと。
「分かりましたわ。私に任せてください。お義父様たちや私の両親に伝えるのは離縁した後にすればいいのですから」
「……なんで…………だ?」
俯いてワナワナ震えたままのウィラートがボソボソと何か言った。
だけどまたしても聞こえなかったマリエラは、かまわず話の先を進めた。
「すぐにでも離縁して、ウィラート様とその好きな女性を結ばせてあげますね」
――ぶっちん。
ウィラートの堪忍袋の緒が切れる音がした。
「なんで、お前はそんなに簡単に離縁を了承するんだ!!」
バンッッ!と手をテーブルに叩きつけて勢いよく立ち上がったウィラートは、キョトンとする妻に叫んだ。
「おかしいだろ!? 普通は夫に好きな人ができて離縁したいと言われたら、泣き叫ぶか夫を罵倒したりとかするだろう!? なんでそんな簡単にさっくりと別れを承知するんだよ!?」
ウィラートの顔は怒りの為に真っ赤だった。
「ですから、あなたに好きな方と結ばせてあげたいと思いまして……」
何でそんなに怒っているのかしら。
内心首をかしげながら激昂する夫を見やるマリエラ。そこには離婚を切り出された妻としての悲哀は一切ない。
そんな妻に更にウィラートは怒りを募らせた。
「俺に好きな人が出来たからって、簡単にこの結婚を諦められるんだな、お前は!」
「ですから――」
「もういい!」
マリエラの言葉を遮ったウィラートは、目の前の妻の顔を睨みつけ――それからぷいっと視線を外すと咆えるように言った。
「朝食はもういい! 仕事に行く!」
そして踵を返し、足音も高く扉に向かった。
そんな夫にマリエラは声を掛ける。いつもと変わらない穏やかな声で。
「ウィラート様、離婚の手続きは?」
ピタ。
ウィラートの足が止まる。
そして、いきなり振り返り――ギリッと効果音が流れそうなほど鋭い目つきでマリエラを睨みつけながら叫んだ。
「離婚はしない! お前はずっとずっとこの先も俺の妻だ!」
***
「あんた馬鹿ですか?」
机に顔を伏せて落ち込むウィラートに、サウス・エンヴァルド・ライエン子爵は呆れたような口調で言った。
ウィラートの肩がピクッと跳ねる。
それにかまわずサウスは未処理の書類を持ち上げながら言った。歯に着せぬ言い方で。
「妻に愛されているか確かめるために、どうして離婚宣言なんてするんでしょうね、あんたは。馬鹿としか言いようがない。もし本当に離婚されたらどうするんです?」
机に伏せていったウィラートはその言葉にパッと顔を上げて叫んだ。
「離婚なんてするもんか! 双方が合意しないと離婚は成立しないんだからな。俺は絶対マリエラと別れない!」
「あー、ハイハイ。あんたが奥様激ラブなのは分かってますよ」
それどころか、それが唯一この上官の欠点であると認識しているサウスだった。
といっても、別に自分の妻を愛するのをダメだと思っているわけではない。それどころか、傍から見てもお似合いの夫婦が仲が良いというのは大いに結構だと思ってる。
まずいのは――この上官の妻に対するヘタレっぷりだ。
ウィラート・ジュス・ローシェ伯爵。
国王陛下にも覚えめでたき若き財務庁長官。数字に強く頭のキレる、若干二十一歳の若さでその座に就いたローシェ伯爵家当主。
目に鮮やかな金髪に空の青を映したような瞳を持つ、端整な顔立ちの美青年。すっと通った鼻筋に長いまつげ。切れ長の目。唇は官能的なラインを持ち、その唇から出る声は涼やかで心地良い。
品行方正で公明正大。身分が高かろうが低かろうが分け隔てなく接するその態度は、若くして重要な位につくことの周囲の懸念や妬みも払拭するものだった。
城勤めをしている侍女の間でよく話題に上がる『美形貴族』のトップ5に入るのも頷ける。
自身もトップ10に入っているのを知らずに、サウスは今度は机に向かって何やらブツブツ言い始めている上官に生暖かい目を向けた。
「もうちょっとショックを受けてしかるべきだろう……?」「あんなにあっさり離婚を承知するなんて、俺の事を何とも思ってないのか……?」
よくよく聞いてみると、そんな事をつぶやいている。
……侍女が見たらトップ5どころか10に入るのも怪しくなるようなヘタレっぷりだった。
サウスがウィラートと出会ったのは社交界の場だ。
同じ歳で、伯爵家の息子という境遇も似ていたためにすぐに親しくなった。もっともウィラートは嫡男でこっちは三男だという立場の違いはあったが。だが、だからこそ二人は親しくなれたのかもしれない。競争相手や勢力争いの相手にはならない立場だったから。
そうして二人は友人付き合いを続け――一年前にウィラートが財務庁長官に任命されたと同時に副長官にサウスも抜擢されて今に至る。
やりがいのある仕事に、人間として尊敬できる友人兼上官。先ごろ父であるヴァローナ伯爵からライエン子爵の爵位を譲りうけ、そこそこの領地と収入も手に入れて生活も安泰だ。サウスに不満はない。
強いて不満を上げるとすれば――奥方に関する些細なことでヘタレ化する上官だろうか。
未だに何やらブツブツつぶやく友人にかわらず生暖かい視線を送りながら、しばらくは使い物にならないな、と冷静に考えるサウスだった。
初めて出会った十六歳の頃にはすでに何でもそつなくこなす、今現在の巷の評判通りの男だったウィラート。だからサウスはウィラート本人がいつか笑いながら、『昔の俺はわがままで腕白でどうしようもない生意気な子供だった』と告白しても本当は信じていなかった。
だが――マリエラ・アンエリゼ・ハウゼント伯爵令嬢が登場してからその認識は一転する。
ウィラートは幼馴染兼婚約者であるマリエラの前だと全然態度が違った。冷静さの欠片もない振る舞い――と聞こえはいいが、ようするにわがままで尊大でまるでお子ちゃまのような言動を取るのだ。
――どんなツンデレだ、それは。
そうサウスが心の中で突っ込むほどだった。
ウィラートが以前言っていた『わがままで腕白で生意気な子供』というのは本当だったと言わざるをえないだろう。
なにしろ、そんな態度を取られているマリエラが「ウィラート様は昔からお変わりありませんね」とにっこり笑って言ったくらいなのだから。
そう言われた時のウィラートの愕然とした顔を思い出し、サウスは笑いがこみ上げてくるのを感じた。
これまたウィラートが以前言っていたことだが、彼は三歳年上である婚約者に釣り合う男になりたいと願って自分を磨いてきたというのだ。その努力があって、今日の評判の良い彼があるらしい。
ところが、マリエラの一言で今までの努力が全てが水の泡になったのだ。ウィラートとしては愕然とするしかなかっただろう。サウスが思わず笑ってしまったほどの哀れっぷりだった。
だがそれも自業自得だ。マリエラの前ではまるで子供なのだから。
もっとも、その後のヘタレ&ヤサグレモードに入ったウィラートは鬱陶しくて仕方なく、サウスはこっそりマリエラにそれは言わないであげて欲しいと嘆願してしまったのだが――。
とにかく、ウィラートはマリエラの前では彼女に一目惚れした幼少の頃に戻ってしまい、わがままでヘタレな婚約者になる。
それは結婚して二年になる今でも変わらず、わがままでヘタレな夫に移行しただけだった。
相変わらず机に向かってブツブツつぶやく上官に、サウスはやれやれと思いながら言った。
「そんなに離婚したくなければ、そろそろ子供でも作ったらどうです? 奥方の性格なら子供がいたなら絶対自分から離婚するなんて言い出さないと思うんですがね」
上官の呟きが止まった。だがこちらに向けてきた顔は暗く沈んだ表情だった。
「マリエラとの子供は欲しい。確かに欲しい。……だけど、彼女の気持ちがこっちに向いてないうちに子供なんて出来たら――彼女を取られてしまうじゃないか!」
そこまで言ってウィラートはパッと片手で顔を覆った。
「ダメだ、耐えられない! あの笑顔が俺だけのものじゃなくなるなんて。まだしばらくは独占していたいんだ! だから子供はもう少し後でいい!」
――阿呆だ。阿呆がいる。
あきれ返りながらサウスは言った。
「だけど、結婚して二年。全然兆候もないなら奥方は周りからいろいろと言われているんじゃないんですか? まさか夫が妻を独占したいために子供が出来ないようせっせと気をつけているなんて思わないでしょうから」
「う……」
ぐっと詰まったところを見ると図星らしい。
「その手の圧力を奥方だけに押し付けるなんて男らしくないですよ。素直にまだ二人きりの生活を楽しみたいから子供はもう少し後だと宣言でもしてフォローするべきで……」
言いながらふとサウスはある事が気になった。
マリエラはウィラートが避妊する理由を知っているのだろうか、ということが。
ちらりと答えを求めて上官の顔を見つめ――その端整な顔にヘタレな色を見て取ったサウスは悟った。奥方にはいっさい理由を伝えてないのだと―――。
わがままでヘタレでお子様な上にツンデレ入ってるからな……と情けない気分でサウスは思った。
そして、心底マリエラに同情した。
「あんた……それはマズイですよ、本当に」
今度はサウスが片手で顔を覆って呻いた。机に置いてある分厚い書類でこの上官を叩いてやりたいと思いながら。
だが、マリエラの心情を考えたら叩くだけではとても足りないだろう。
結婚当初から理由も言わずに避妊する夫。自分との子供を夫が欲しくないのではないかと妻が考えてもおかしくない。なのに周囲からは子供はまだなのかと責められて――。
あげくに今度は離婚宣言だ。
もちろんそれはウィラートの狂言だったわけだが、マリエラにしてみたら夫には実は好きな人がいて、だから自分との子供が欲しくないのだろうと誤解してもおかしくない状況だ。
しかも、このヘタレは『離婚はしない』と言っただけで、好きな人ができたという言葉は取り消してない――。
……これは、奥方の方から離婚宣言されてもおかしくないのでは――――?
そうなった時のウィラートの壊れっぷりを想像すると背筋が寒くなるサウスだった。
「……いいですか、ウィラート」
サウスは覆っていた手を下ろして、端整な顔に気弱な表情を浮かべている上官を真剣な目で見つめた。
「今日仕事が終わって屋敷に帰ったら、必ず奥方に今朝の離婚宣言を取り消して下さい。狂言だったと、自分に好きな女なんていないとちゃんと言うんです。それから、奥方に『これからも傍にいて欲しい』って頼みなさい。それと忠告しておきますが、子供の頃のように黙っていても自分の気持は相手は分かってくれるなんて思わないように。飲み物が欲しいとか眠いとかそんな幼児レベルの欲求と違うんですから。言葉にしなければ気持なんて相手には伝わらないのをいい加減に理解しなさい」
「あ、ああ……」
サウスの迫力に押されたように、ウィラートは頷く。
こいつ、本当に分かってるのか?と思いつつ、サウスは更に畳み掛けた。
「現にあんたは言葉にしてもらってないから奥さんの気持が分からずにオロオロしてるんでしょう? それでどうして奥さんが自分の愛情を理解してるなんて思えるんです? あんただって、奥方に一度だって愛してるなんて言ってないのに」
「う……」
「いいですか、照れくさいとか恥ずかしいとか考えないで、素直に自分の気持を伝えるんです。でないと、今度は奥方から離婚宣言されますよ」
その言葉にウィラートの顔色がサーっと青ざめる。
「それは嫌だ!」
「なら、きちんと話し合いなさい。分かりましたね? さぁ、そうと決ればこの書類を処理しますよ。さっさと仕事終わらせて屋敷に帰って奥方と話し合うんです」
サウスはウィラートと自分の机に積み上げられた書類の壁を指しながら言った。
「分かった。マリエラを失いたくないからな」
頷くウィラートの表情は一瞬前までとは別人のようだった。
どうやら自分の中でヘタレわがまま夫から有能なローシェ伯爵にスイッチが切り替わったらしい。
ホッと安堵するサウスの目の前で、ウィラートは自分の机に置かれた書類の束の一番上のものを手に取った。
真剣な眼差しでさっと目を通すと、すぐに顔を上げ、
「サウス、この書類を担当部署に叩き返してくれ。こんなメチャクチャな見積もりで税金を無駄遣いするつもりなのかと一言添えてな」
と言って手にした書類を『差し戻し』と書かれた箱に投げ入れる。
さっきまでの情けなさや気弱な色はなく、責任感と威厳のある――まさに世間が若き財務庁長官だと思っている男がそこに居た。
「了解しました」
サウスがそう返事をする間にも次の書類に手を延ばすウィラート。
次から次へと書類を処理する上官にやれやれとため息を付きながら、自分の仕事をするべくサウスも行動を開始した。
***
「……結局真夜中か……」
ウィラートは寝静まり静寂に包まれた自分の屋敷の廊下を、小さな燭台の灯りをたよりに寝室に向かって歩いていた。
歩きながら彼の口から深いため息が洩れる。
サウスの忠告を受けて、今日は早く帰ってマリエラと話すつもりだったのに。
夕食時の和やかな雰囲気の中で彼女に思いのたけを打ち明けるつもりだったのに。
何でこういう日に限って……。
あの書類の量ならこんなに遅くならないうちに帰れるはずだったのに――なぜか次から次へと追加の未処理の書類が持ち込まれたのだ。
しかもそれは急を要するものばかりで――。
明日に回すわけにもいかなかった書類をウィラートとサイスは泣く泣く残業して処理した。
それでようやく帰宅できたのだが、すでに夕食の時間はとうに過ぎ、それどころかおそらくマリエラはもう眠っていることだろう。
仕事で遅くなるので先に眠るようにと遣いをやったのはウィラート自身だった。でないとマリエラは寝ないで自分が帰宅するのを待っていたはずだ。
ウィラートは眠っているであろうマリエラを起こさないようにそおっと夫婦の寝室の扉を開け、滑り込むようにして部屋に入った。
ところが真っ暗だと思っていた寝室は、小さな柔らな光に包まれていた。
おや、と思ってその光の元を辿ったウィラートの目に飛び込んできたのは、ベッドではなく壁際に置かれたソファの上で座ったまま目を閉じている愛しい妻の姿。
おそらく伝言にもかかわらず寝ないで本を読んでウィラートの帰りを待っていたのだろう。膝の上には頁が開いたままの本が乗っていて、その本にはマリエラの白い優しい手が添えられていた。
ウィラートは吸い寄せられるようにソファに近づき、彼女の前に跪いた。
そっと顔にかかった髪をかきあげてもマリエラは反応しない。深く寝入ってしまっているのだろう。
髪を下ろし、白い夜着の上に白いガウンを羽織ったマリエラはいつもより幼く見えた。と同時に柔らかな光に照らされたその身体は金色を帯びて神々しくも見えた。
「マリエラ」
ウィラートはそっと呼びかけた。だが反応はない。
こんなところで寝ていては風邪をひいてしまう。揺すって起こすか、ベッドに運んでやるべきだろう。
そう思ったウィラートだったが、なぜかどちらもする気になれず、ただ無防備に眠る妻をじっと見つめていた。
傍に居て欲しいたったひとりの人――最愛の妻。
「マリエラ……愛してる」
ウィラートは思わず口にしていた。彼女の瞳が開いてるときはなぜか口にできない言葉を――。
「……好きな人ができたなんて言ったのは嘘だ。お前が俺をどう思っているのか知りたかっただけ。少しはお前が俺の事を好いてくれてるなら、離婚と言われたら動揺するだろうと思って。……ああ、馬鹿な事を言ったと自分でも思う。サウスにも叱られた」
友人であり部下であるサウスが言うとおり、自分はヘタレだと思う。マリエラの前に出るとまるで初めて出会った七歳の頃に戻ってしまうのだから――。
ウィラートがマリエラと初めて出会ったのは、前ローシェ伯爵の友人であるマリエラの父親のハウゼント伯爵が、任地から戻ってきたことを報告するために屋敷に訪れた時だった。
ハウゼント伯爵夫妻の横に立ってやさしい笑顔で挨拶する年上の少女に、ウィラートは一目惚れした。彼は七歳、マリエラが十歳の頃の事だ。
二人で遊んで――実際は年上のマリエラがウィラートの子守をしていただけなのだが――すっかり彼女が気に入り傍にいて欲しいと思ったウィラートはその日のうちに求婚した。
『俺と結婚しろマリエラ。それでずっとずっと一緒にいて遊ぶんだ!』
それは実にわがままいっぱいな子供らしいプロポーズの言葉だった。まだ幼い彼は「ずっと傍に居てもらう=結婚」だと思い込んでいたのだ。
ところがその言葉に思いもかけず喜んだのは求婚されたマリエラではなく、彼と彼女の両親のローシェ伯爵夫妻とハウゼント伯爵夫妻だった。
仲の良い彼らは自分たちの子供を結婚させたいと前々から思っていたのだ。身分も釣り合っているし、互いに申し分のない相手だと。
当のマリエラはウィラートのプロポーズを本気とは受け取らず、笑いながら『結婚は大人になってからするんですよ』と肯定なのか否定なのか分からない微妙な受け答えをしていたのだが――すっかりその気になった両親によってその日のうちに婚約が成立していた。
もちろん、ウィラートのプロポーズは本気だった。当時は一緒に居て欲しいというただそれだけの欲求で求婚したのだが、成長して結婚の本当の意味が分かった後も意志は変わらなかった。
ウィラートは大人になって結婚した今でもマリエラにプロポーズをした当時の自分を「よくやった!」と褒め称えたい気分になる。
会えずに離れていた間やウィラートが一人前になるまでマリエラを他の誰にも取られずに済んだのは、ひとえにあの婚約があったからだ。
――ウィラートとマリエラが幼いながらも婚約者として頻繁に会うことができたのは、彼が十歳になるまでだった。
ハウゼント伯爵が再び他国に赴任することになってしまったからだ。
マリエラの父親は外交手腕に非常に長けた人物で、国と国との架け橋になるべく当地に赴いて向うの大臣と会いこちらの意思を伝えたり、情報を収集したりする仕事――つまり外交官の職に就いていた。
その仕事は相手の国に常駐する必要があり、家族をこよなく愛するハウゼント伯爵は必ず一家揃って移り住むことにしているからだ。
マリエラと会えなくなるのは嫌で、実際「嫌だ! 行くな!」とわめきまくったウィラートだったが、こればかりは仕方なかった。
『また会える日を楽しみにしています、ウィラート様。どうか身体には気をつけて下さいね』
別れの日、涙をこらえるウィラートの額にキスをしてマリエラが言う。それに頷くだけで精一杯だった彼は、彼女を乗せた馬車が遠くなっていくのを見送りながら決心した。
彼女に相応しい男になろうと。
三歳年上のマリエラはウィラートより先に大人になってしまう。だから、せめて隣に並んでも遜色ない――いや、夫として堂々と傍らにいられる人物になりたかった。
だから努力した。勉強や武術も必死になって身につけた――マリエラの為に。
彼女に恥をかかせたくなくて社交術も学んだ。そうして、社交界に本格的に出入りできる歳――十六歳になる頃には、評判の良い未来のローシェ伯爵ができあがっていた。
人脈を作り、社交界に確固たる地位を築き、王族に目をかけてもらえるほどになったウィラートが当初の目標――マリエラの夫として遜色ない人物になる――に近づいたと自信をつけ始めていた時だった。
ハウゼント伯爵が任務を終え、マリエラともども王都に戻ってきたのは。
それはウィラートが十八歳――あと少しで十九歳になろうという時だった。
挨拶に来たハウゼント伯爵夫妻と共に現われたマリエラに、ウィラートは言葉を失った。
薄い緑色のドレスを身に纏った想像以上に美しく成長した女性に――一目惚れならぬ二目惚れをした瞬間だった。例え幼い頃に出会って婚約してなかったとしても、今この瞬間に跪いて求婚していただろうと断言できるほどだ。
「まぁ、ウィラート様、大きくなりましたね」
自分より遥かに背が高くなったウィラートを見上げてマリエラは微笑んだ。やさしく包み込むようなその笑顔は昔のマリエラと変わっていなかった。
だがウィラートはなぜか舌が貼りついたように動かせなくて、うまく言葉が出なかった。
こんなことは初めてだった。
王と初めて謁見した時ですらこんな緊張して混乱したことはない。心臓がバクバク言い、頭の中が真っ白になって何を言っていいか分からなくなるなんて。
だけど、頭が働かずうまく言葉が出なくても、何とか口にしていたらしい。
「はい。お手紙のやり取りは頻繁にしていましたけど、こうして会うのはすごく久しぶりです、ウィラート様」
と、マリエラが笑みを浮かべて受け答えをしていたからだ。もっともウィラートは自分で何を言ったか全然覚えてないのだが……。
その後もぎこちなく言葉を交わすウィラートにマリエラは相変わらず笑みを――包み込むような柔らかな笑顔を見せながら、父親の赴任先の出来事を面白く語った。
その言葉をうっとりと聞きながら、だけど、不意にウィラートは傍らの女性の異性関係はどうなのだろうかと気になった。
手紙のやり取りの中ではそういうことは一切書かれてなかったが、こんなに美しい女性をかの国の貴族の男どもは放っておくだろうか。
自分なら無理だ。例え他の誰かと婚約していても、言い寄らずにはいられない――。
もちろん、これまでだって気にしなかったわけじゃない。離れている間、別の男がマリエラに近づかないだろうかと気を揉んでいた。だけど、マリエラという美しい女性の実物が傍らにいる今、その懸念がやけに現実に迫ってくる。
誰かその手に触れさせた男がいたのだろうか。心に留めた男はいたのだろうか。自分と婚約していたから泣く泣く諦めた男がいなかっただろうか……。非常に気になった。
そんなもやもや気分に襲われていた時だ。マリエラが急に真剣な顔になって問いかけてきたのは。
「ウィラート様、この婚約を本当に進めていいんですか? もしウィラート様のお心に留めるような方がいるなら、私は解消してもかまいませんよ?」
ウィラートはその言葉を聞いて愕然となった。
次いで襲ってきたのは沸々とした怒りと焦燥感。
婚約を申し出たのはウィラートの方だ。七歳の頃からずっとずっとマリエラを想ってきた。それなのに他に女性がいると――そして、そういう女性がいながら結婚話を進めようとしている不実な男だと思われているのか?
だがそのこと以上にウィラートを動揺させたのは、マリエラが婚約を迷っていることと、あっさり解消してもかまわないと言ったことだった。
簡単に婚約を解消できるほどなのだろうか、彼女の中の自分という存在は?
……もしかして誰か他に結婚したい相手がいるのか? だから解消してもいいなんて……?
そう考えた瞬間、自制心が吹き飛んだ。ずっとマリエラに相応しい男になろうと思って封印していたかつての自分が顔を出す。
――嫌だ! 他の誰にもマリエラを渡すものか!
「ダメだ! 婚約は解消しない! お前との結婚話はそのまま進める!」
気付いたら、かつての子供の頃の自分そのままの口調で叫んでいた。だけど、一度溢れたものは止まらなかった。
そして――このことがそれからのウィラートのマリエラに対する態度を決定付けてしまったのだった。
「どうして俺はお前の前だとこんなに不器用で口下手で、それでいてわがままな子供みたいな態度になるんだろうな……」
ウィラートは眠るマリエラの語りかけるように囁いた。
こんな素直が言葉が出るのもマリエラが寝ていて聞いてないと分かっているからだ。
「そんな自分が嫌で、お前の傍らに立つのに相応しい夫になりたくて努力したのに、肝心のお前の前だと子供の頃の態度に戻ってしまうなんて……サウスにヘタレ呼ばわりされても仕方ない。だけど……頼む。嫌わないでくれ。離婚宣言なんて二度としないから。お前の気持を試すなんてことはしないから……」
ウィラートは素直に自分の気持を吐露する。
もっともサウスがこの場面を見ていたら「奥方が寝ている時に言っても何にもならんでしょうが!」と突っ込んでいただろうが。
だがウィラートにとっては目を閉じて眠ってようがマリエラの前で言えたことは大きい意味を持つ。
こうして少しずつ馴らしていけば、目を開けているマリエラの前でも素直に気持を――いや、努力して取得したような大人の余裕な態度をいつか取れるようになるだろう。……多分。
ウィラートは小さく吐息をついて、立ち上がった。
もう夜も遅いし、マリエラをベッドに運んで自分も眠ることにしよう。正直、彼も精神的にも肉体的にも今日はいろいろありすぎて疲れ果てていた。
ウィラートはマリエラの膝から本を取り上げてテーブルに置くと、彼女をそっとソファから抱き上げベッドに運んだ。そして、細心の注意を払ってシーツの上に降ろすと、上掛けを手繰り寄せてマリエラの身体を包んだ。
その間、マリエラが起きた気配はなかった。
マリエラが本を読むため用意したテーブルの上の灯りを消しに行き、部屋の照明をベッド脇の小さな灯りだけにすると、ウィラートはマリエラの隣に滑り込んだ。
柔らかな妻の身体を抱き寄せ――その暖かさにホッと息を付いたウィラートは不意にまだマリエラに言ってなかった言葉を思い出した。
サウスにも言えと言われた言葉だった。
――過去にも幾度となくマリエラに言ってきた言葉でもある。
ウィラートは妻の額にキスを落としながらつぶやいた。
「マリエラ。俺の傍に……これからも傍にいて欲しい。ずっと、ずっと」
そして目を閉じた。
――明日。
明日、目が覚めたら必ずマリエラに今の言葉を言おう。
離婚宣言も取り消して、好きな女なんて他にいないことを告げよう。
できれば……愛してるという言葉も伝えたい。
明日。
明日になったら―――。
***
ゆらゆら。身体が揺れている――。
空に浮いて運ばれているのを感じてマリエラは目を覚ました。
すると、夫のウィラートにベッドに運ばれている最中だった。
これにはちょっとびっくりした。
慌てて目を閉じて寝たフリをしながら、どうしてこうなったかを思い出してみる。
確か、彼が仕事から戻ってくるのを寝ないで本を読んで待っていたハズで――。
だが、こうしてベッドに運ばれているのを見ると、どうやら途中で眠ってしまったようである。
マリエラが伝言にあったように先に寝ないでウィラートの帰宅を待っていたのは、今朝の離婚宣言が気になった――からではなくて、ベッド脇の小さな灯りを彼はいつも「放っておけばそのうち消える」と言って眠る時に消そうとしないからだった。
だから時々寝たフリをしてウィラートが寝入った後に彼女が消しているのである。
実はウィラートが消さないのは、「妻の寝顔が見たいから」という微笑ましい理由があるからなのだが、そんなこととは夢にも思わないマリエラは倒して火事になったら大変、という現実的な考えからこっそり消しまくっていたのだった。
ベッドに降ろされ、上掛けが被せられる。
マリエラが本を読むために用意した灯りがウィラートの手によって消された。が、やはり夫はベッド脇の灯りは消さないでベッドに潜りこんでくる。
……やれやれ、やっぱり私が消すしかないのだわ。
そう思っていたマリエラは、次に抱きしめられ、額にキスされながらウィラートがつぶやいた言葉に、ベッド脇の小さな燭台のことを忘れた。
「マリエラ。俺の傍に……これからも傍にいて欲しい。ずっと、ずっと」
――傍にいて欲しい。
その言葉に幼い頃の彼の言葉が重なる。
『ずっとずっと傍に居ろマリエラ。俺の傍に』
胸がじんわりと暖かくなった。
幼い頃の「マリエラだけのものだった小さなウィラート様」が帰って来たようで嬉しかった。
初めてマリエラがウィラートに会ったとき、彼女はこんなに綺麗な男の子がいるのかとびっくりした。
だけどやんちゃでわがままで子供らしいウィラートはすぐにマリエラの心を掴んだ。彼女はずっと弟か妹が欲しいと思っていたのだ。
父親が外交官の仕事をしている関係上、赴任先のマリエラの周りにいるのは大人ばかりだった。兄がいたが歳が離れていたために一緒に遊ぶ機会も少なく、彼女はずっと弟か妹がいればいいのにと思って過ごしてきた。
だからウィラートを見た時に彼の姉のような存在になりたいと願った。
突然の求婚にはびっくりしたが、傍にいて欲しいと――実際は傍にいろという命令だったのだが――言われて嬉しかった。
結婚に関しては大人になればきっと気が変わるに違いないと思ったが、それまでは婚約者ごっこを楽しもうと考えていた。
――だけど一緒に居られた時間はたったの三年間だった。
マリエラの父親であるハウゼント伯爵の外国への赴任が決ったのだ。
彼女がもう少し年嵩であれば、婚約者の立場でローシェ伯爵家に居候できたかもしれないが、まだまだ親の庇護の元にあるべき歳のマリエラは父親に従って外国へ行くしかない。
マリエラは泣く泣く国を後にした。その赴任がマリエラの予想より長期になるとは思いもよらなかった。数年経てば帰れるとばかり思っていたのに。
結局、ウィラートと再会することができたのはそれから九年後のこと。
マリエラは二十一歳になっていた。
再会したウィラートはすっかり立派な大人に――しかも美男子になっていた。
本国におけるウィラートの評判をマリエラは記憶にある彼と比べて疑問視していたのだが、帰国の挨拶に出向いたローシェ伯爵邸で再会した本人はまるで絵に描いたような貴公子ぶりで、その評判も納得できるものだった。
物腰はやわらかで礼儀正しく――昔は会うと「マリエラ、マリエラ聞いてくれ!」とばかりにお喋りだった少年はすっかり寡黙になっていた。
立派な大人になって――と嬉しかったが、反面、もうあの慕ってくれたわがままだけど闊達だった少年はいないのだと思って寂しくなった。
マリエラだけのものだったあの子はもういないのだ――。
居るのはすっかり大人になった――女性に非常にモテそうな美男子だ。
こんな素敵になった貴公子が自分の婚約者だなんて――そう思うとなぜか胸がドキドキするのを感じた。
じっと自分を見つめてくるその青色の瞳にも、どういうわけだか気恥ずかしさを覚えた。と同時に嬉しさも。
この感情は子供の頃にはなかったものだ。
「久しぶりだね、マリエラ」
マリエラを見つめながらウィラートが言う。少し掠れたように聞こえたその声は低い大人の男性のもので、マリエラは改めてウィラートが成長したことを思い知る。
だけど、涼やかで素敵な声だ。これが彼の今の声――。
「はい。お手紙のやり取りは頻繁にしていましたけど、こうして会うのはすごく久しぶりです、ウィラート様」
笑顔で応えながら、マリエラはウィラートが自分の知らないところで立派に成長し、誰もが認める貴公子になったことを受け入れた。
そして新たな目でウィラートを見つめて――突然不安になった。
これだけ素敵な男性に成長したウィラートだ、さぞかし女性にモテるだろう。
やり取りした手紙にはそんなことは微塵も書かれていなかったが、他の女性がこのウィラートを放っておくわけはない。今だって恋人がいるかもしれないのだ。
もし、自分という婚約者がいるから、その人と結ばれないと考えているのだとしたら……?
考えすぎかもしれない。だけど、マリエラは自分がウィラートが物事の判断もつかない幼い頃に選んだ婚約者であることを忘れたことはない。
婚約した時、自分は思ったではないか――大人になればきっと気が変わるに違いないと。これは婚約者ごっこなのだと。
それに自分は年上だ。適齢期は過ぎてて嫁き遅れの娘であることは否めない――婚約者がいるから他の男と交流する必要も機会もなかったせいではあるが。
そんな自分に遠慮して婚約解消を言い出せないのだということも十分に考えられた。
マリエラは話が聞こえる範囲に両親たちがいないのを確認すると、ウィラートに問いかけた。
「ウィラート様、この婚約を本当に進めていいんですか? もしウィラート様のお心に留めるような方がいるなら、私は解消してもかまいませんよ?」
後半の言葉を付け加えたのは、自分を重荷に思って欲しくなかったから。
だが、その言葉を聞いたウィラートの反応は――目を見開いてマリエラを凝視したかと思うと、顔を赤く染めて彼女を睨みつけるというものだった。
そしていきなり叫んだ。
「ダメだ! 婚約は解消しない! お前との結婚話はそのまま進める!」
――その口調もいきり立った表情も非常に見覚えのあるものだった。
その瞬間、マリエラの心を占めた感情は――喜び。
婚約を解消しないと言われたこともさることながら、昔のウィラートが帰って来たのが嬉しかった。感情をむき出しにして自分にそれを向けてくれるのが――「私だけの小さなウィラート様」が戻ってきてくれたようで、たまらなく嬉しかった。
だけど、同時に罪悪感も芽生える。
口をぎゅっと結ぶその表情は昔のわがままで感情の思うままふるまっていたウィラートそのものだ。……だから分かってしまった。
――自分から婚約を言い出した手前、後に引けなくなっているのだと。
彼がその表情をするときは何かに意固地になっている時なのだから。
こんな顔をした時のウィラートは、マリエラがいくら言ってもダメだ。自分の意思を頑固に通そうとするだろう。昔からそうなのだ――マリエラの小さな婚約者は。
今の彼は彼女を本当の意味で愛しているわけではなくて、子供の時に慕った感情の残滓のような好意しか持ってないだろうに。
――仕方ないですわね。
微苦笑しながらマリエラはこの時密かに決心した。
――もしこの先、ウィラートに好きな人ができた時は。
その時は――二つ返事で彼を解放してあげようと。
再会から一年後、ウィラートとマリエラは結婚した。
その間、本当に結婚するつもりなのかと尋ねるたびに「絶対お前は俺と結婚するんだ!」と子供の頃の口調で返され、マリエラはこの様子だと本当に付き合っている人も好きな人もいないのかと安堵していたのだが――。
「子供はまだいい」
初夜の時にそう言われて、再び不安が息を吹き返した。
本当は自分との子供は欲しくないからそう言って避妊するのではないだろうか。本当に愛する人が出来たときにマリエラと別れやすくするために……。
ついそう考えてしまう。ウィラートとの交わりは情熱的だったが、彼は注意を怠らない。マリエラは子供が欲しくない理由として『自分との子供は欲しくない』からだとしか考えられなかった。
寂しくも悲しくもなったが、それでももし彼に真に愛する人ができたなら、喜んで身を引こうという決心は変わらなかった。
その一方で、ウィラートが自分の前で子供っぽい態度を取ることは密かなマリエラの喜びにもなった。
彼女は夫が自分の前でだけは評判のローシェ伯爵の仮面を捨てて昔の『小さなウィラート様』のようにわがままで感情をむき出しにしていることを知っていた。
ウィラートの友人で部下でもあるライエン子爵がこっそり教えてくれたのだ。あの態度を取るのはマリエラの前だけだと。それと、年上であるマリエラに追いつくために大人になろうと努力したことも。
だけど肝心のマリエラの前でだけはなぜか昔に戻ってしまうのを、彼女は嬉しく思っていた――昔の姉を慕うような感情だけだとしても、自分に気を許している証拠だからだ。
だから子供っぽく癇癪を起こしても構わない。もっとわがままになってくれても構わない。
『私だけの小さなウィラート様』でいて欲しい――。
そのかわり、もし好きな人ができたら――その時は潔く身を引くから。
マリエラはウィラートが寝入ったのを確認すると、自分に絡みつく腕をそっと外して上半身を起こした。
そしてベッド脇の灯りを消そうと手を延ばして――ふと思い立って、傍らの夫の寝顔を見下ろした。
時々こうして消す前に寝顔を拝見させてもらっていたりする。もちろん、ウィラートには内緒だ。
安らかな顔で眠るその顔は歳より幼く見えて――昔を髣髴とさせた。だから見たくなってしまうのだ。
「ふふ。寝顔、昔とちっとも変わりませんね」
自分の膝の上で昼寝をしていたあの頃と。
そう小さくつぶやいてマリエラはくすくす笑った。ライエン子爵から『昔と変わらない』の言葉は禁句だと言われているから、面と向かって言えないけれど。
子供みたいなウィラート。だけどちゃんと大人になった部分もマリエラは知っている。
妻の前では時々子供っぽいが、使用人に指示したり社交界の集まりに出かけた時などのウィラートは「評判のローシェ伯爵」そのものだ。貴公子然として、誰よりも頼りがいがあって、マリエラの誇りだ。
だけどそういうウィラートは少し自分からは遠い気がして、寂しくもある。
だから「マリエラだけの小さなウィラート様」の部分を探してしまうのかもしれない。
だから自分は「小さなウィラート様が慕った姉のような存在」でいることに固執してしまうのかもしれない。
――だけど。
「ウィラート様、今朝の離婚宣言、私、すごくビックリしたんですよ……?」
スゥーと静かな寝息を立てるウィラートを見下ろしながら小さくマリエラはつぶやいた。
本当は驚いたなんてものではない。一瞬目の前が真っ暗になったくらいにショックだった。
――とうとうその時が来たのかと思って。
ウィラートに本当に愛する人ができて、身を引く時がきたのかと――。
いつかはそうなると思っていた。だからずっとそうなった時に取り乱さないで黙って受け入れようと決めていた。自制心の全てをかき集めて、微笑んでその人に彼を譲ろうと。
はたして今朝、自分は考えていたように笑えただろうか。顔が引きつっていたりしなかっただろうか。
それは分からない。結局彼が離婚はしないとすぐ訂正してしまったから。
だけど、『お前はずっとずっとこの先も俺の妻だ!』と言われて胸が震えるほど嬉しかったのだから、自分はまだまだだと思う。
ライエン子爵から早掛けの馬で『あの離婚宣言やら好きな女性やらは狂言で、あなたがどう反応するか試したかっただけです。どうか早まらないように!』といった主旨の書きなぐったような手紙をもらって安堵してしまったのだから。
まだまだ笑って彼を譲るには修行が足りないようだ――。
「う…ん」
不意に隣でウィラートが身動ぎをした。起こしてしまったのかと一瞬思ったマリエラだが、再び静かになって寝息を漏らし始めた夫に安堵の息を吐いた。
「それにしても、狂言で私を試そうだなんて、仕方のない方ですね、ウィラート様」
隣で横たわるウィラートに咎めるようにマリエラは言った。
「そんなことで試さなくても、私はあなたに愛する人ができたらちゃんと身を引きますよ。安心して下さいな」
だから、私が離婚に応じてくれるのかどうかを試すための狂言なんてしなくていいんです――。
そう心の中でマリエラが続けた言葉をもしウィラートとサウスが聞いていたら、両者とも頭を抱えていただろう。だが、ここには片方は居らず、もう片方はすっかり夢の中で。
夫に深く愛されているとはそれこそ夢にも思ってないマリエラが、思いっきり斜め上の解釈をしてしまったことを誰も知るよしもなかった――――。
「ウィラート様。だからそれまでは――」
吐息のようにささやいて、マリエラはウィラートに上に屈み込んだ。
眠れる夫の額に優しくキスを落とす――さきほど彼がマリエラにしたみたいに。
「傍にいます……ずっとずっと――あなたが望む間は」
ささやいて顔を上げたマリエラはウィラートの幼い面影を残す寝顔を見下ろした。
その顔に浮かぶのは優しい微笑。
――愛してます、ウィラート様。あなただけを。
重荷になることを恐れて決して口に出せない言葉を胸の中でマリエラはつぶやく。――それは彼女だけの毎晩の儀式。
そうしてしばらく夫の寝顔を見つめていたマリエラだったが、手を延ばしてベッド脇の燭台の灯りを消すと、ウィラートの傍らに横たわった。
そして真っ暗闇の中を寄り添うようにして彼の暖かさを感じながら静かに目を閉じた。
――また明日も彼の傍らで目を覚ますことが出来るのを感謝しながら。
両思いなのに微妙にすれ違うローシェ伯爵夫妻。
そんな彼らが相手の想いを知るのは近い――かもしれない。
初めて企画モノに参加させていただいた作品です。
恋愛モノに非ず。最初から夫婦な設定なので、外した感がいっぱいの作品となりました。書いている本人はとても楽しんで書いたのですが……(笑)
でも、とても貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございます!
この場をかりまして、お誘いくださった立花実咲様ならびにチャリティ本制作にご尽力くださった方々、そして、本をお買い上げ下さった皆様に感謝したいと思います。