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「カンナ様。旦那様がお呼びです。」
ラークスター家の庭で、ゼラニウムの花を摘んでいたカンナは、侍女の呼びかけに驚いた。
お父様がこんな時間に家に戻ってこられるなんて、何があったのかしら?
侯爵である父は、王宮に詰めていることが多く、ほとんど家に帰ってこない。
「すぐ参ります。」
慌てて父親の書斎に行くと、いつもと変わらず穏やかな顔をした父が出迎えてくれた。
「何かあったのですか?」
「カンナは宰相閣下の次男のジーク殿のことは知っているね?」
「はい。」
「…カンナ。ジーク殿との結婚が決まったよ。」
カンナは驚いて、一瞬、言葉に詰まった。
ジークは、カンナの初恋の相手だ。今でも彼のことを思い続けている。
相手も自分も貴族の子どもだから、家が決めた相手と結婚するしかないと、自分の気持ちに蓋をして生きてきたのに、数多ある嫁ぎ先から、彼と縁付いたことが心から嬉しい。
だけど…―――。
ジーク様といえば、1年前に最愛の聖女様を失った美しい悲劇の人だ。
市井では、彼らの悲恋が歌や劇になって大変な人気を博している。
どんなに頑張っても愛してはもらえないことは明白だけど、私でもあの方を少しでも支えられるかしら?
父はそっと娘を抱きしめ、彼女の不安に揺れる瞳を覗き込んだ。
「カンナ。すまない。陛下が選ばれた相手だから断ることは出来ないんだよ。父さんはカンナが政略結婚をしなくても良いくらいに頑張って働いてきたんだけどね。天国の母さんもがっかりしてるかな。」
「父様。私は、ずっとジーク様をお慕いしていました。こんな偶然があるなんて、私は本当に幸せ者です。」
自嘲気味に話す父をギュッと抱きしめ返して、にっこり微笑みながら、カンナは自分が今までずっとジークが好きだったこと、自分は政略結婚するしかないと思っていたから、彼への思いはあきらめていたことを伝えた。
安心した父は、ほっと息をひとつ吐いて、式の日取りなどを教えてくれた。
「カンナ。お前が幸せであることを、祈っているよ。」
「父様。ありがとう。」
--*--
半年後にカンナとジークは結婚したが、ジークはカンナを避けていた。
蜂蜜色の髪に、穏やかな森を連想させる深い碧の瞳をしたカンナを可愛らしいとは思うのだが、彼女が妻の座に居ることが許せなかった。
もし奇跡が起こって聖女が再び現れたら、今度こそ離したくない。
必ず妻に迎えて、添い遂げたいという気持ちを捨てられずにいた。
居ないものとして振舞われる度に、カンナのココロは深く傷つく。
ほとんど邸に戻ってこないジークと何とか話す時間を持とうと頑張ってみるが、なかなかうまくいかない。
そんな生活が続いたある日、夜遅くに邸の前にラークスター家の馬車が止まった。
連絡を受けたカンナはすぐに玄関へと向かった。使用人たちも何事かと集まっている。
馬車から降りてきたのは、魔術師長でカンナの兄であるアレックスとそのアレックスに肩を借りてようやく立っているジークだった。
「ジーク様、どうなさいました!?」
「酷い熱がある。すぐに医者を呼びなさい。カンナ、彼を寝室へ運ぶから、案内して。」
アレックスは取り乱す使用人とカンナに指示をして、ジークを寝室まで運んだ。
駆けつけた医師に、熱は過労による免疫力低下が原因の風邪だと診断された。
帰り際に、見送りにきた妹へアレックスは、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「カンナ。…――幸せ?」
「…兄様。ジーク様の傍に居られるだけで、私は幸せなのです。」
アレックスは、ジークがどんなに聖女を愛していたか知っているし、それ故にカンナが疎まれていることも知っている。
薄く微笑む妹に、それ以上の言葉を見つけられず、邸を後にした。