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2.Aチーム、特攻しないでじわじわ前進 (vol.4)

 外は相変わらず静かな月面だった。

 巨大な船体は、外部からでは特に破壊された様子も見えない。

 ピーターはしばらく、その場に立ち尽くした。

 ローバーが無い。

 それがあったはずの場所から、独立稼働する六輪のタイヤが付けた轍が、基地車の居る境界に向かって続いていた。

「マジかよ…」

 転送は、便利な能力だ。

 しかし、当然だが魔界内部でしか移動は出来ないし、イメージの確定した場所にしか行けない。

 指揮車内部に、転送ポイントは設定していた。

 作戦中の軍用車で、個人がここまで空間を占有するのは非常識だという事くらいは分かっていたが、必要だから居直って指揮車の片隅にテープを張って立ち入り禁止にしていた。

 目標が多少移動しても、明確なイメージがあれば転送は可能だ。

 地球では、移動するワンボックスカー内に転送ポイントを置いて、ちょっと人には言えない荒稼ぎをした事もある。

 だが、転送ポイントをきっちり確保してくれる仲間が居たから出来た事だ。

 内通者が居て、トラブルの最中で、現在位置も内部情報も分からない場所へ転送する事は出来ない。

「ああ、もう、転送能力なんてろくな事ねぇ。いつもこうだ」

 パシリ向きの自分の能力を、ほんのちょっとの間呪ってから、気を取り直して船体を見上げた。

 良い様に使われる事も多かったが、自分にとって…姉や仲間にも有利な事の方が多かった。

 しゃーねーなとつぶやきながら、見上げた船体の、潜入口がまだ開いたままなのを発見した。

 ピーターはアホの子だったが、世間一般の基準で頭が悪い訳では無い。

 深く考える習慣が無いだけだ。というか、物事全般を、あんまり考えないタイプだ。

 しかし、さすがに深く考えないピーターでも、開いたままの潜入口はおかしいと思った。

 自分らが入った時は閉じられたはずだし、Cチームがここから入ったとしても、同じ様にしたはずだ。

 空きっぱなしの点検口に取り付き、通常使用は考慮されていない、狭く急なステップを登った。

 重力は低いが、宇宙服を着ていては中々困難な作業だった。

 最初の潜入は、宇宙慣れしている人が同行していたから、楽に通り抜けられたのだ。

 まぁ、潜入してからは、ハイブリットの暗視能力が役に立ったので、特に引け目には感じないが、ステップの途中で一度足を滑らせ、地表まで落ちた時は、思わず周囲を確認した。

 誰も見てない、当たり前だ。

 誰か居た方がまだマシだという事に気が付いた。

 数時間前に通った船体内部は、様変わりしていた。

 前方からの風圧がある。

 外界で、スーツのセンサーやシールド内のディスプレイが正常に動作していたら、多分ここには入らなかっただろう。

 エンジンルームには、異様な光が点滅していた。

 スーツの内部温度が、一瞬で上昇した。

 数値では表示されないが、体感と魔力の感知で分かる。

 宇宙船のエンジンがどういう原理で動いているのかは、全く分からないが、ここに居たらヤバイ事だけは分かった。

 数メートル先に、倒れている人影が見えた。

 急いで駆け寄り、外に引きずり出した。

 がつっとシールドを接触させて、相手を覗き込む。

 Cチームとして潜入したはずの一人、ロンだった。


「ああ、指揮車と連絡取るどころか、面倒な物件ばかり増える」

 鯖丸は愚痴った。

「すみません、僕、足手まといで」

 ショーティーは俯いてしゅんとなった。

「君の事じゃない」

 鯖丸は、表面が熱と破片で劣化したスーツを脱がされ、床に横たわっているロンを見た。

 ピーターとファニーメイで回復魔法をかけているが、まだ目を覚まさない。

 そりゃそうだ。防護壁が作動する程破壊されたエンジンルームに居たのだ。無事な訳がない。

「お前も手伝えよ。いくらジャンパーだからって、転送以外の事までパシらすな。どうせ無駄に魔力高いんだろ」

 ピーターは、愚痴っている鯖丸を非難した。

 鯖丸は、はぁとため息をついた。

「いいか…どうせ船内も混乱してるんだろうし、思い切り魔法使って感知されても」

 スーツの胸部プレートを倒し、片腕を引き抜いて、ロンの首筋に触った。

 そのまま、手加減無しに根本治癒の魔法を送り込む。

 ぐったりしていたロンの体が、びくびくと痙攣した。

 意識がある状態で使っても、もう一回落ちるくらいの、容赦ない魔法だ。

 ロンは目を覚まさなかったが、少なくとも呼吸は安定した様だ。

 もう一度スーツを着装させ、床に寝かせる。

 軍用の高性能スーツだ。

 ヤバくなったら自動で水分やカロリーの補給もされるし、シールドも閉じる。

 魔界での動作実験も済んでいる。

 これ以上の事はもう出来ない。

「じゃあ、貨物室に戻るぞ。時間は押したが、定位置で待機、トリコの連絡を待つ」

 鯖丸は、自分のスーツと刀を両手に抱えて立ち上がった。

「待てよ、こいつはどうするんだ。目を覚ますまで待って話を聞かねぇのかよ。それに、他のCチームの奴らの救助は…?」

「自力で脱出したんでなきゃ、もう死んでる」

 鯖丸は、苦々しく言い捨てた。

「乗客の救出が優先だ」

 ピーターは、言い返そうとしたが黙った。

「それに、動力系が破壊された」

「いや、俺だってその程度の事は分かるし…」

「だから、生命維持装置も非常用に切り替わったはずだ。時間がない」

 足下からは、まだ生きているエンジンの振動が伝わって来た。

 四基ある補助エンジンの内、まだ二基は生きている。

 おそらく、エンジンルームに爆薬を仕掛けるか、もしくは魔法で破壊したのだろうが、姿勢制御の為の補助エンジンは系統が違うので、全ては破壊されていない。

 生きている二基の内一基は、伝わって来る振動が不安定だが、まだ持つはずだ。

「どれくらい持つんだ」

 ピーターは、真顔で聞いて来た。

 シグマシリーズが搭載しているヒューリンゲン社のエンジンは、他には特にいい所はないのだが、とにかく安定している。

 まだ行ける。

「十時間くらいかな…」

 希望的観測を言う訳にはいかないので、最悪の事態を言ってみた。

「もちろん、もっと持つ可能性もあるし、簡易宇宙服も非常用のシャトルも、人質の人数に対しては余裕がある。テロリストを排除すれば、問題無い」

「問題だらけだろ…」と、ピーターが反論しかけた所を、ファニーメイが止めた。

「私は、ライフライン確保の為に来ています」

 可愛いパールピンクのスーツの、開いたシールド越しに、東洋人としてはそこそこ背の高い鯖丸をきっと見上げた。

「この船なら、今の装備でも二週間は持たせて見せます。だから…」

 ファニーメイは言った。

「お願い、誰も見捨てないで」


 ファニーメイに言われたら、説得力がある。

 半年もの間、魔界に墜落した実験プラントU08に一人で取り残されて、それでも立ち直ってここに居る少女の言葉には、無視出来ない力があった。

 でもまぁ、感情論で行動を決める程、鯖丸も甘くない。

「分かった。出来る限りはそうする」

 無難な答えを出した。

「それから、ショーティー」

 子供の方を向いた。

「安全に避難出来る場所が無くなった。君も貨物室に戻ってもらう。嫌ならこの場で待機してもいいが、どうする?」

 子供は、即断で答えを出した。

「僕は、友達や先生を助けたいです。だから、邪魔になるならここに残るし、役に立てるなら一緒に行きます」

「そうか」

 鯖丸は、少し考えた。

 船内なら、何処に居ても危険なのは変わらない。

 それなら、目の届く場所に居てくれた方がいい。

「じゃあ行こう。ピーター、貨物室に転送」

「勝手だな、お前」

 ピーターは文句を言ってから、貨物室とバックヤードを仕切る壁ぎりぎりまで、皆を移動する様に手招きした。

 指示した場所に皆を立たせて、壁越しに前方を睨んだ。

 四人はその場からかき消えた。


 ジョン太とレビンは、通気口に居た。

 破壊されたのが船体のどの部分かは分からなかったが、振動はここまで伝わった。

 客室内はざわめいていたが、四隅に控えたテロリスト達が、ライフルを構えて威嚇すると、じきに静まった。

 乗客達の中に、トリコが倒れている。

 アウラと、レディーUMAと、研修旅行を引率していた教師の一人が、トリコの側に座って、咎められない程度に回復魔法をかけている。

 トリコが撃たれた時、何も出来なかった。

 百人以上の人命がかかっていては、迂闊に動けない。

 おそらく、ボスとバニーも反対側で見ているはずだが、手出しはして来ない。

 フリッツが、トリコの傍らで俯いていた。

 床には、血溜まりが広がっていたが、出血は止まっている様子だった。

 致命傷ではない。

 外界でなら救急病院に搬送するレベルだが、アウラがいい仕事をしている。

 レディーUMAと教師の一人も、素人ではあるが魔力は高そうで、懸命にアウラをサポートしていた。

 殺すつもりはないらしいが、行動不能にするのが目的らしく、アウラが的確に回復させようとすると、後頭部に銃口が突き付けられる。

 だが、フリッツがノーマークだ。

 いや…トリコやアウラと一緒に捕まって、明らかに警戒されているが、扱いが軽い。

 こちらの情報は、確実に漏れている様子だが、もしかして、魔法整形の所為で、フリッツだと特定出来ていないのでは…?

 或いは、二人の女よりもあからさまに魔力が低い事は、多少熟練した魔法使いなら判断出来るし、軽視されているだけかも知れない。

 どっちにしても、こちらには都合が良い。

「お前ら、けっこう長い間組んでるんだろう。ボス達と連絡手段はないのか」

 ジョン太は、背後のレビンに聞こえるか聞こえないかの声で話しかけた。

「連絡係はピーターだったからな…。まぁ、バニーのやりそうな事は分かるが」

 微妙な口調で、レビンとバニーがリンクしている事は分かった。

「バニーは、キレて暴れる寸前だろうが、ボスが止めてるはずだ。心配ない」

 俺だって、出来れば思いきり暴れたいよ…と、ジョン太は考えた。

 ここから飛び出して、人質に手出しする閑も与えずテロリスト四人を行動不能にする事は、おそらく出来ただろう。

 戦闘用ハイブリットが二人も居るのだ。

 相手に魔法使いが居ても、先制攻撃の速さで後れを取るはずがない。

 実行犯がここに居る四人だけなら、迷わずそうしていた。

 実際には、その三倍程度の人数が、船内に居る。

 能力の高いハイブリットにありがちだが、ジョン太も割合力ずくで物事を解決しがちなのは自覚していた。

 魔力はともかく、身体能力では自分を遥に凌ぐフリッツが、パートナーのトリコを傷つけられて、良く我慢しているな…と感心した。

 実質、この作戦の指揮を執っているのだ。迂闊な行動は出来ない。

 ジョン太は、鯖丸の様に全体の状況を把握しようとはしなかった。

 目の前の現状にだけ集中した。

 指揮官のフリッツも、救出しなければいけない人質も、目の前に居る。

 後は、独断ではなく命令に従って、最善の判断で動くだけだ。


 トリコが撃たれたのは、エンジンルームが破壊される少し前だった。

 ドリーが送り返され、しばらく客室内には嫌な空気が立ち込めていた。

 自分が対象ではなくとも、目の前で圧倒的な暴力を見せられれば、たいがいの人間は怯む。

 研修旅行の子供達の中に、もう限界だったのか、泣き出した者が居た。

 それが気に障ったのは、子供がテロリスト側と政治的に揉めている文化圏に住んでいる民族に見えたからだ。

 実際には、それは人種的には近いだけの、全く関係ない国の出身で、そもそも宇宙移民の二世なので、政治的にも思想的にも無縁だった。

 もしかしたら、テロリスト側も追い詰められていて、冷静な判断が出来なかっただけかも知れない。

 撃たれた瞬間に、トリコが庇った。

 もちろん、魔法で障壁を張れば、銃弾程度は余裕で跳ね返せる。

 しかしそれをやったら、せっかく潜入出来た事が、全て無駄になってしまう。

 防御する替わりに、ダメージを最小限に抑えて、相手のなすがままになった。

 撃たれた瞬間、フリッツが死にそうな表情でこっちを見た。

 そんな顔するな、冷静になれ。

 この作戦の指揮官でなければキレていただろうが、フリッツは責任感の強い男だった。

 とっさにトリコを庇ったが、ハイブリットの身体能力を匂わせる様な行動はしなかった。

 トリコには、その時点ではまだ、余裕があった。

 意識がはっきりしていれば、自分に回復魔法をかけるのは、他人にやるより簡単だからだ。

 後頭部を銃丁で殴られた時点で、その計画は頓挫した。

 ドリーは、けっこう流血しながらもメッセンジャーとして送り返されたが、トリコは、魔力では圧倒的に高くても、身体能力は平均よりちょっと下の、日常あんまり運動しない主婦だ。

 周囲がやろうとした回復は阻止された。

 トリコが、魔法使いだと相手にバレている。

 回復させようとしたアウラも、銃口を向けられている。

 アウラなら、気が付かれない程度に回復させるのは可能で、実際そうしていた。

 レディーUMAは、世界的に有名なシンガーだが、元はプレイヤー(魔界に不法侵入してプレイする事を目的とした、非公式な魔法使い)なのではないかと思うくらい、魔力が高かった。

 だが、熟練度がお話にならないくらい低いので、単に才能のある素人だと分かる。

 アーティストの様な、特殊なパーソナリティーを持っている人間は、一般人よりも魔力の高い傾向がある。

 しかし、こいつは破格だ。

 今まで特に興味も無かったが、地球に戻ったらアルバムをダウンロードしてみよう…と、トリコは何となくほんやりと思った。

 ぼんやりとしか思えない時点で、ちょっとヤバい。

 目の前の床に、赤黒い固まりが広がって行く。

 流れ出している自分の血液だと云う事に気が付くには、少し時間がかかった。

 この程度の危機的状況に陥った事は、何度かあった。

 困ったけど、別に死なないだろうな…とは思った。

 ただ、連絡係の自分が行動不能になるのは、まずい。

 目の前に流れ出している液体に魔力を送り込み、フリッツの方を見た。

『済まん、暫くの間頼む』

 伝えた所で意識を失った。


『緊急事態だ』

 目の前に黒猫が現れた時、鯖丸はちょっと焦った。

 それが、トリコではなくフリッツの声でしゃべったからだ。

 声が違うだけなら、何かの都合でフリッツがトリコの魔獣を仲介していると思っただろう。

 違和感があった。

 作戦行動の連絡に使っている英語に、訛りがなさ過ぎる。

 いくら、フリッツと付き合い出してから英会話を習っていたり、結婚後はカナダの英語圏に住んでいたりしても、魔界出身で、外界での高等教育を全く受けていないトリコの会話は、かなり訛っている。

 コロニー訛りが全然直っていない自分が云うのも何んだが、意思の疎通は出来ても、細かいニュアンスは伝わらないレベルだ。(一緒に暮らしているフリッツには、伝わっているのだろうが…)

 トリコを介していれば、言語間のフィルターがかかる。

 それが全く無い。

 フリッツが、トリコの魔獣を使って、直接こちらに連絡している。

「今更言うなよ」

 だいぶ前から、恒常的に緊急事態だ。

「内通者の名前は、そっちに伝わってんの? どういうトラブルなの?」

『トリコが、一時的に行動不能になった。この通信は、作戦に関わる者全員に、通信可能範囲内で送信している。プロジェクトはCに変更』

「待てぇ、聞いてないぞそれ。軍の連中は、エンジントラブルで事故ってんじゃないのか。それともてめぇら何か企んで…」

『魔法使い達は、人質の安全を最優先して自己判断で行動。交渉役が戻った時点で、予定の作戦行動に移る』

「おい!! その交渉役が戻ったかどうかも、こっちからは確認出来ないんだよ」

 鯖丸は反論したが、黒猫はゆらぎながら、一方的に話し続けた。

 こちらの言葉が、全く伝わっていない。

 いくらリンクしていても、魔力では格下のフリッツが、無理矢理トリコの魔獣を使っているのだ。

 相当に無理をしているだろう通信は、終わるとその場から霧散する様に消えた。

「何があったんだよ」

 ピーターが聞いた。

「分からん、確認して来る」

 鯖丸は、宇宙服を脱いだ。

 靴を履いて、通常の服装になる。

 コンテナの上に上がって、トイレの床を外し始めた。

「待てよ。指示を待つんじゃないのか」

「指示する奴が、こっちに自己判断を丸投げしてるんだよ」

 魔法使いの使い方としては、その方が正しいが、百人以上の人命がかかっている状態で、責任取るからお前ら好きにしろ…は、豪快過ぎる。

「現状確認して来る」

「それ、便所から行かなくても、引き返して別ルートから確認した方が安全なんじゃ…」

 万が一誰かがトイレに入った時の事を考えてないのか、こいつは。

 雑な青少年さえ危惧したが、鯖丸は返答した。

「大丈夫だ。その程度は魔力で感知出来るし」

 皆の方を向いて、きらーんと笑った。

「今俺、めっちゃうんこしたい」

「スーツの中でしろ。くそうんこたれがぁ」

 ピーターは、鯖丸の首をネックハンギングツリーで絞めた。

 重力が低いので、技はかなり簡単に、綺麗に決まった。


 旅客宇宙船のトイレは、自分が知っている物より、随分快適になっていた。

 ショーティーが貨物室に逃れて以来、使用した痕跡が無い。

 トイレは、乗客達が集められている客室後方にもあって、そちらの方が使用頻度としても元々メインだ。

 男女別に二つのブースに別れていて、腰掛け式で、地球人にも使用時の抵抗感が少ない構造だ。

 客室中央のトイレで、鯖丸は暫く座ったまま考えた。

 設計図を記憶しているので、外部に使用中の表示を付ける配線は切ってある。

 一応無重力にも対応した作りだが、地球のトイレに馴染み切ってしまった自分にも、違和感は無かった。

 無かったからと云って、本気で使用する辺り、鉄の神経ではあるが、中装宇宙服の排泄ユニットは、重装服と違って簡易な作りだ。使用感は悪い。

 ちなみに、旅客宇宙船に配備されている簡易スーツは、基本非常用なので、長時間使用では垂れ流しになってしまう。

 一応、呼気に排泄物が流入しない考慮がされている程度だ。

 トイレは、霧状に噴射した極少量の水分で洗浄した後、風圧で仕上げるシステムになっていたが、音がするとヤバイので、ミスト噴射だけで止めた。

 地球人を乗せる旅客船は、たいがいペーパーも設置しているので、ちょっと拭いてから、ドアの向こうに意識を集中した。

 多数の人の気配に交じって、馴染みのある気配があった。

 トリコだ。

 怪我をして動けない。

 だが、致命的ではないし、時間があれば自力で回復出来る。

 近くにジョン太の気配もある。

 それが安定していたので、急速に落ち着いた。

 バイトの魔法使いを始めた頃は、ジョン太の指示に従っていれば、間違いは無かった。

 勤続年数が増えるに連れて、自己判断での仕事を任される様になったが、あの信頼感と安定感は、ずっとそのままだった。

 大変な思いをして、リンクまで張った相手だ。この近距離なら、通じるかも知れない。

 話しかけてみた。

『ジョン太。今、どうなってる?』


『お前、何処に居るんだ。貨物室じゃないな』

 返事は明瞭に伝わって来た。

 いくらリンクしていても、あまりに明瞭だったので驚いた。

 ジョン太は、表向き火炎系の魔法使いと云う事になっているが、銃弾を自在に操る能力は、どちらかと云うと物質操作系だ。

 二つの能力が混在する上に、魔力の出力調整が自在に出来ると云う、魔法使いとしても珍しいタイプだ。

 物質操作系を単独で使っている所は見た事が無いが、ジョン太がどうにかしてここと通気口を繋いでいるのは分かった。

 ていうか、会話、尻から聞こえるんですけど。

 配線、あっちから回ってたな…と、ポケットから図面を引っ張り出して確認した。

『ジョン太の目の前のトイレ』

 位置関係を確認した。

『それと、今の姿勢で動かないで。多分配線に近い場所に接触してるせいで、有線接続に近い形になってる』

『俺は壁に手を触れてるだけだが、お前、どこに何を接触してる』

『尻を…』

『やめろ、やっぱり聞きたくない』

 一応拒否してから、ジョン太は全く違う口調になった。

 いや…耳で聞いている訳では無いから、口調というのは間違っている。

 ジョン太は日本語で思考していなかった。

 外界でなら全く違って聞こえただろうが、それはバイトの魔法使いだった頃、ずっと頼りにしていた相棒の意識だった。

『現状を報告しろ』

『いいけど、ちょっと待って。長いから今まとめる』

 頭の中で情報を整理して、一気に流し込んだ。

 ジョン太の苦情と混乱が、一瞬だけ返って来たが、それはすぐに落ち着いた。

『バットの奴、また俺らを囮に使ったんじゃないだろうな…』

 バット…マクレーには、U08の件で前科がある。とは云え、百人以上の人質の安全を、疎かにする様な男ではないが。

『まぁ、想定の範囲内だな。後方支援はCチームに任せて、ドリーが戻り次第、予定通りに決行だ』

『待てよ、Cチームって全滅じゃないのか』

 鯖丸は聞き返した。

『お前は宇宙船の専門家だから、状況からそう思うかも知れんが、宇宙軍の特殊部隊を舐め過ぎだ。負傷者は出ても、全滅なんざしてねぇよ』

 ジョン太は言い切った。

『フリッツから指示があっただろ。指揮系統は二人も要らないって言ったのはお前だ。指揮官には従おうぜ』

 鯖丸の位置からは、トリコもフリッツも見えない。

 トイレのドアの微かな隙間から視認出来るのは、空の客席ブースと、反対側の壁だけだ。

 ジョン太の送り込んで来る映像も、通気口の格子越しで不明瞭だったが、気配だけは感じられた。

 トリコは、徐々に回復している。もうすぐ目を覚ます。

 フリッツは思っていたより冷静だ。

 押し潰されそうな重圧に耐えて、自分の任務を全うしようとしている。

 だったら自分も、彼の期待通りに動こうと思った。

 臨機応変に、魔法使いらしく勝手な判断で、乗客の安全を最優先に。

『ジョン太、俺は船外に出て、船の状態を確認する。ファニーメイとピーターも、一旦外に出すから、後はよろしく』

『そうか。いいけどタイミングは見誤るなよ』

 ジョン太は雑に黙認した。

『それと、次にこういう通信する時は、接触面は尻以外にしてくれ。お前のケツ毛の生え具合なんか、思い出したくもないからな』

『いや〜ん、嫁にはラブリーな尻って言われてるのに』

『地球に戻ったら、お前の嫁紹介してくれ。一時間コースで説教してやる。バカを甘やかすなってな』

 トイレの外壁に、近付いて来る気配があった。

 鯖丸は、トイレの床をめくり、隔壁を抜けて貨物室に戻った。

 固定し直したユニットの上を、人が入って来る振動が伝わって来た。

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