「お前との婚約を破棄する!」と断罪されたのですが、大変申し上げにくいことに私は【ただの配膳係】です。
王都の大手人材派遣ギルド『シルバーサーブ』の新人研修において、最初に叩き込まれる鉄則がある。
一、何があってもトレイの上のグラスを割るな。
二、貴族同士の痴話喧嘩には絶対に目を合わせるな。
三、どれほど理不尽な事態に遭遇しても、まずは笑顔で『左様でございますか』と受け止めよ。
――そして今、私はその三つの教訓をフル稼働させていた。
煌びやかな魔導シャンデリアが天井を埋め尽くす、王立学園の大広間。
卒業記念パーティーという名の、若い貴族たちによる権力誇示と見合いの祭典である。
流れていた優雅なワルツの演奏が、突如として不協和音を奏でて止まった。
中央の壇上。
見事な金髪を夜会の風もないのにファサッと靡かせ、純白の礼装に身を包んだ第一王子カイル殿下が、劇場の主役のように大股で歩み出てきたのだ。
そして、ビシィッ! と勢いよくこちらを指差した。
「エレオノーラ・フォン・グランヴェル! 貴様のような嫉妬深く悪毒な女との婚約は、本日この時をもって破棄する! 我が国から永久に国外追放処分と言い渡すッ!」
シン……と、会場の空気が完全に静止した。
殿下の背後には、守るべきヒロインを気取った男爵令嬢リリア様が、怯えた小鹿のようにその逞しい(?)腕にしがみついている。
殿下の取り巻きである騎士団長の息子や魔導士長の息子たちも、周囲を威嚇するように腕組みをしてドヤ顔をキメていた。
完璧なシチュエーション。
誰もが息を呑む、劇的な断罪劇の開幕である。
――ただ一つ。
本当に、ただ一つの些細な問題を除いては。
壇上からビシッと指を突きつけられている私の両手には、冷えた高級シャンパンが六つ載った、重厚な銀の配膳トレイが握られていた。
私はトレイの水平を寸分違わずキープしたまま、瞬きを二回。
そして、研修で叩き込まれた『最もクレームを穏便に収める角度(三十度)』で、優雅に頭を下げた。
「恐れ入ります、お客様」
「な、なんだその態度は! 命乞いか! 今さら反省しても遅いぞ!」
「大変申し上げにくいのですが……人違いかと存じます」
しん、と会場の温度がさらに二度ほど下がった。
私はアニー。十八歳。
平民街の長屋生まれ長屋育ち、本日限定の臨時雇用で雇われた『時給八百エルの配膳スタッフ』である。
本日のドレスコードは、ギルドから支給された糊の効いた黒のエプロンドレス。
髪は後ろでキッチリと一本のお団子にまとめ、ネットで固定している。
化粧っ気はゼロ。肌の潤いもそこそこ。
どう好意的に解釈しても、国内屈指の大貴族である公爵家の令嬢には見えないはずだった。
「な、なにいぃっ!? 人違いだと!? 見苦しい言い逃れをするな、エレオノーラ!」
「いえ、言い逃れではなく事実確認でございます。わたくし、胸元に『シルバーサーブ社認定・一級配膳士アニー』と刻印された真鍮のネームプレートを着用しております」
私はトレイのバランスを崩さないよう、器用に左手の人差し指だけで胸元のプレートをトントンと叩いて見せた。
周囲を取り囲んでいた貴族たちから、ざわざわ……と不穏なざわめきが広がり始める。
『……おい、あの子……どう見てもスタッフじゃないか?』
『髪の色も茶色だし、何よりさっきから完璧な足さばきでローストビーフを配っていたぞ……?』
『公爵令嬢様って……もっとこう、黄金の縦巻きロールで、瞳が紫で、全身から「私が法です」みたいなオーラを出してらっしゃいませんでしたっけ……?』
ひそひそ話が波のように会場を満たしていく。
しかし、完全に悲劇のヒーローになりきっているカイル殿下の耳には、観客のツッコミなど一切届いていなかった。
「黙れ! そのような粗末な変装で罪から逃れられると思うな! 貴様の悪事はすべて調べがついているのだ!」
「はあ……。左様でございますか」
私は心の中で『接客マニュアル・第4章【興奮状態のクレーマーには反論せず、まず相槌を打て】』のページを開いた。
ここで「違います」と真っ向から否定すると、相手はプライドを傷つけられてさらに暴走する。まずは言わせておくのがプロの仕事だ。
「リリアの教科書をハサミでズタズタに切り裂き、階段から突き落とし、果ては彼女が大切に育てていた中庭の花壇に除草剤を撒いたな! なんという浅ましい嫉妬か!」
「おやおや、それは大変痛ましいことで」
「さらに! 先週の放課後には、リリアの靴箱に凶悪な毒毛虫を三匹も投げ入れたと聞いている! リリアは恐怖のあまり、夜も眠れずに毎晩枕を濡らしていたのだぞ!」
「お客様のご心痛、お察し申し上げます」
「貴様のような悪魔を、我が国の国母として迎えるわけにはいかない! 貴様には人の心というものがないのか!?」
「あいにく業務時間中のため、個人的な感情の出力は規約により制限されております」
「なんだと貴様ぁっ!?」
カイル殿下が顔を真っ赤にして壇を踏み鳴らす。
隣にしがみついていたリリア様も、さすがに何かがおかしいと察したのか、引きつった笑顔で殿下の袖を引っ張った。
「あ、あの……カイル様ぁ? エレオノーラ様、なんだかいつもと雰囲気が違うというか……その、背丈もちょっと小さいような……?」
「騙されるなリリア! こやつは悪賢い女だ! あえて平民の薄汚い服を着て、自分を哀れに見せかけることで同情を買おうという魂胆に決まっている!」
「薄汚いは余計でございますお客様。こちらは今朝クリーニングから上がってきたばかりの特注エプロンでございます」
思わずピキッと青筋が立ちそうになったが、プロ失格なので笑顔で受け流す。
殿下の演説はさらにヒートアップしていった。
「言い訳は聞かん! 近衛兵! この場でこの悪女を拘束し、即刻地下牢へ叩き込め!」
殿下が勇ましく号令を下す。
……が、周囲の近衛兵たちは誰一人として動かなかった。
槍を持った屈強な兵士長が、冷や汗をダラダラと流しながら殿下へ歩み寄り、小声で囁いた。
「あ、あの……カイル殿下。大変申し上げにくいのですが……あちらの女性、先ほど私どもに『お疲れ様です、冷たい麦茶をどうぞ』と差し入れをしてくださった、本日の派遣スタッフのアニー殿かと……」
「貴様まで買収されていたのか近衛兵ッ!? この女の魔の手はそこまで伸びていたというのか!」
「いや買収っていうか、ただの親切な麦茶だったんですけど……」
兵士長が困惑顔で後退りする。
周囲の貴族たちも、最初は事態の展開を固唾を呑んで見守っていたものの、今や全員が「これ……殿下が盛大にやらかしてるのでは……?」という生暖かい目で壇上を見つめていた。
このままでは、私の業務スケジュールに重大な遅延が発生してしまう。
二十一時までには会場後方のデザートビュッフェの設営を完了させなければ、ギルドの評価査定に響いてしまうのだ。
私は腕時計(平民用の安物)をチラリと確認し、すっと右手を掲げた。
「お客様。大変恐縮ではございますが」
「な、なんだ! まだ何か言い逃れをする気か!」
「わたくしへの断罪を一旦保留していただき、本物のエレオノーラ様をお探しになることを強くお勧めいたします」
「だから目の前にいる貴様がエレオノーラだろうがッ!」
「いえ、本物のエレオノーラ様なら――あちらの三番柱の陰にいらっしゃいます」
私は銀のトレイを左腕一本で支え、空いた右手で会場の最深部――大広間の巨大な大理石の柱の陰を、すっと指し示した。
照明係のスタッフ(私の同僚)が気を利かせたのだろう。
カツン、という音とともに、会場内の大型魔導スポットライトがグググッと動き、その柱の陰をピンポイントで照らし出した。
そこに現れた光景に、会場中の数百人の視線が吸い寄せられた。
最高級のシルクとレースを贅沢に使った、目の覚めるような深紫の夜会ドレス。
見事な黄金の縦巻きロールの髪。
見る者を平伏させるような凛とした美貌――。
紛れもない、公爵令嬢エレオノーラ・フォン・グランヴェル様その人であった。
ただし。
彼女は今、特大のガラスの器に入った『完熟イチゴと生クリームの贅沢パフェ(本日三杯目)』を抱え込み、銀のスプーンを口いっぱいに咥えた状態で、完全にフリーズしていた。
「………………あぐっ」
エレオノーラ様の頬が、リスのようにぷっくりと膨らんでいる。
彼女の足元の小テーブルには、すでに綺麗に平らげられた『濃厚ティラミス』の皿が二枚と、『とろけるカスタードプリン』の器が三つ、綺麗に積み上げられていた。
静寂。
夜会場が、先ほどとは比べ物にならないほどの、絶対的な静寂に包まれる。
「…………んぐっ、ごくん」
エレオノーラ様はパフェを器用に喉の奥へ押し込むと、侍女から受け取った最高級シルクのナプキンで、トントンと優雅に口元を拭った。
そして、信じられないものを見る目で自分を凝視しているカイル殿下へ向かって、心底うんざりしたようなため息を吐き出した。
「……はぁ。見つかってしまいましたのね」
エレオノーラ様が、優雅極まりない足取りで壇上へと歩み寄ってくる。
その全身から放たれる本物の大貴族のオーラに、周囲の貴族たちが自然と道を開けた。
カイル殿下は、目の前の私(配膳係)と、歩み寄ってくるエレオノーラ様を、壊れたからくり人形のように何度も見比べた。
「エ……エレオノーラ……!? な、なぜ貴様がそこにいる!? じゃあ、俺がさっきから必死に罵倒していたこの女は一体誰なんだ!?」
「ですから最初から申し上げております通り、時給八百エルの配膳スタッフでございます」
私はもう一度、完璧な角度でお辞儀をした。
エレオノーラ様は壇上に上がると、扇子をパチンと鋭い音を立てて開き、冷ややかな視線で殿下を見下ろした。
「殿下。まさか、ご自身の婚約者の顔すら覚えていらっしゃらなかったとは……恐れ入りましたわ。わたくし、髪の色も目の色も身長も、あちらの配膳の方とは何一つ似ていませんことよ?」
「う、うるさい! 貴様が普段から地味で目立たないのが悪いのだ!」
「公爵家の正装である紫のドレスを着て、頭にティアラを載せている人間を『地味』と仰るなら、殿下の目は節穴どころか素通しの素焼き土管ですわね」
「素焼き土管だとッ!?」
エレオノーラ様の容赦のない舌鋒に、殿下がたじろぐ。
隣のリリア様は、本物のオーラに気圧されて完全に青ざめ、ガタガタと震え始めていた。
「だ、だが! リリアを虐めた罪は消えんぞ! 教科書を破り、毒毛虫を入れ――」
「それらの茶番についてですが」
エレオノーラ様は扇子を閉じ、侍女から分厚い革表紙のファイルを受け取った。
「リリア様が主張される『虐め』の全件について、王立学園の風紀委員会および王都警備隊へ捜査を依頼しておりましたの。その結果、すべてリリア様ご自身が男爵家の従僕に小遣いを与えて行わせた【完全な自作自演】であることが証明されました」
「なっ……なにいぃっ!?」
「こちらが従僕の自白調書、そして除草剤や毒毛虫を購入した店舗の領収書(リリア様のサイン入り)の控えでございます。ついでに申し上げますと、殿下がリリア様に買い与えるために王室費から不正に流用された宝石類の購入明細書も添付してございます」
「ひっ……!?」
リリア様が短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
殿下は目玉が飛び出そうなほど見開き、がくがくと膝を震わせる。
「そ、そんな……リリア、お前、俺を騙していたのか……? 俺の愛を利用して……!?」
「殿下、騙される方も大概ですわ。わたくしが夜会の隅でパフェを食べていたのは、殿下とリリア様の浅ましいイチャつきを見せつけられて胸焼けがしたからというのもありますが……何より、殿下が公衆の面前で取り返しのつかない大失態を演じるのを待っていたからですの」
「な、なんだと……!?」
「言い逃れの余地を完全に無くすためですわ。……さあ、いらっしゃいませ、お父様」
エレオノーラ様が優雅に手を振ると、会場の大扉がドォォン!と轟音を立てて左右に蹴破られた。
現れたのは、フルプレートアーマーを着込んだ近衛騎士団の精鋭たち。
そして――頭から湯気を立ち上らせ、今にも血管が破裂しそうなほど顔を真っ赤にした、国王陛下その人であった。
「カイルーーーーーッッ!!!!」
大地を揺るがすような怒声が響き渡る。
「ち、父上……!?」
「貴様という奴は! 無実の公爵令嬢を貶めたばかりか、国家予算を着服し、あまつさえ人違いで無関係の配膳係に八つ当たりして我が王家の恥を晒すとは何事かぁぁぁっ!!」
「ち、違うのです父上! 私はただ、真実の愛のために――」
「黙れ愚か者が! 貴様のような節穴に王位を継がせるわけにはいかん! 即刻廃嫡とし、辺境の鉱山へ送致する! 衛兵、二人を引きずり出せぇい!」
国王陛下の怒りの大号令により、騎士たちが一斉に雪崩れ込んできた。
カイル殿下とリリア様は、まるで市場の家畜のように左右から腕を固められ、みっともない悲鳴を上げながら会場の外へと引きずられていった。
「離せ! 俺は第一王子だぞ! エレオノーラ、助けてくれ! 俺が悪かった、婚約破棄はナシだぁぁぁっ!」
「いやぁぁっ! 鉱山なんて行きたくないぃぃぃっ!」
二人の絶叫が遠ざかり、大扉がバタンと閉じられる。
残された会場には、嵐の後のような静けさと、その後に巻き起こる貴族たちの拍手喝采が響き渡った。
「……ふぅ。これでスッキリいたしましたわ」
エレオノーラ様は満足そうに息をつくと、壇上から降りて私の前へと歩み寄ってきた。
「配膳係のアニーさん、でしたかしら」
「はい、お客様。空いたグラスをお下げいたしましょうか?」
「いいえ。……本当に巻き込んでしまって悪かったわね。あの馬鹿が、まさか本人の顔すらまともに見ずに怒鳴り散らすとは思わなかったのよ」
「いえいえ、滅相もございません。酔客のクレーム対応に比べれば、暴力の気配がなかった分、非常に安全な現場でございました」
「ふふっ、肝が据わっているのね」
エレオノーラ様はクスクスと笑うと、背後の侍女に合図を出した。
侍女が恭しく差し出してきたのは、ずっしりと手のひらに沈む、上質なビロードの革袋だった。
「これ、本日の迷惑料と……素晴らしい『冷静なプロの対応』に対するチップよ。受け取ってちょうだい」
「恐れ入ります」
私は両手でそれを受け取った。
革袋の口をチラリと確認すると――中には、まばゆいばかりの純金がギッシリと詰まっていた。
大金貨が少なくとも五十枚。
平民が汗水垂らして三年は遊んで暮らせる額である。
「……お客様。大変美味しく頂戴いたします」
「美味しく? ふふ、お金を食べる気配ね。もしギルドの仕事に飽きたら、いつでもグランヴェル公爵家にいらっしゃい。あなたのような優秀なメイドなら、月給金貨三枚で雇い入れるわよ」
「破格のご提案、心より感謝申し上げます。転職の際には履歴書を持参いたします」
私は本日一番の完璧な笑顔で、深々とお辞儀をした。
ふと壁掛けの大時計を見ると、長針がちょうど真上を指し、短針が九を指したところだった。
二十一時ジャスト。
「それでは失礼いたします。契約の定時となりましたので、これにて退勤させていただきます」
私は銀のトレイを脇に挟み、誰よりも素早い足取りで夜会場の通用口へと向かった。
背後からは「えっ、まだデザートの片付けが……」「いや彼女は派遣だから定時だ!」というスタッフたちの慌ただしい声が聞こえたが、タイムカードを切った後の労働は規約違反である。
夜風が心地よい王都の夜道を、私はポケットの重みを感じながら軽快に歩く。
時給八百エルの労働と、大金貨五十枚の臨時ボーナス。
そして明日のシフトは、別の伯爵邸でのガーデンパーティー配膳である。
――これだから、配膳スタッフはやめられない。
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評判良ければ連載も考えます。




