『お前の仕事は終わった』と捨てられた令嬢——だが婚約破棄の書類を作ったのは私で、無効にできるのも私だけだった
インクの匂いが好きだった。
羊皮紙の上を万年筆が滑る音。封蝋が溶ける甘い香り。朝日が差し込む書記室で、私は今日も書類と向き合っている——はずだった。
「マティルダ。話がある」
公爵家の大広間に呼び出されたのは、秋の午後のことだった。
グランツ公爵家の嫡男、ディートリヒ様が大広間の中央に立っている。その隣には見慣れない令嬢が一人。薔薇色の頬、蜂蜜色の巻き毛、絹のドレス。ルイーゼ・フォン・ベッカー男爵令嬢——最近、ディートリヒ様が頻繁にお茶会に招いている方だ。
使用人たちが広間の隅に控えている。公爵閣下と奥方様も列席されていた。わざわざ観客を揃えたということは、これを「見せ場」にするつもりなのだろう。
——ああ、今日か。
私は内心、静かに息を吐いた。遅いくらいだ。三ヶ月前から、この日が来ることはわかっていた。
「お前との婚約を破棄する」
ディートリヒ様の声が、天井の高い広間に響いた。朗々とした、自信に満ちた声。社交界で「黄金の公爵子息」と呼ばれるだけのことはある。人前で話すのは上手い。書類を読むのは、壊滅的に下手だが。
「書類仕事など下男にやらせればいい。お前の仕事はもう終わった。僕にはルイーゼがいる」
ルイーゼ嬢が控えめに、けれど誇らしげに微笑んだ。ディートリヒ様が彼女の手を取る。絵になる光景だった。金髪の貴公子と薔薇色の令嬢。社交界の華。私のような地味な書記官とは、華やかさが違う。
使用人たちの視線が、同情を含んで私に注がれた。奥方様が気まずそうに目を伏せている。
哀れなマティルダ。書類しか能のない伯爵令嬢。使い捨てにされた法務書記官。
——そんなところだろう。周囲の心中は、おおよそ察しがつく。
でも、それでいい。
「……左様でございますか」
私は一つ、頷いた。驚いた表情を作る必要すらなかった。この瞬間のために——この瞬間が来ることを見越して——私は三年を費やしたのだから。
「承知いたしました。では——婚約破棄の手続きを進めましょう」
懐から、一通の書類を取り出す。
婚約破棄合意書。二十三条からなる法的文書。厚みのある羊皮紙に、私の最も丁寧な筆跡で記された条文の群れ。三ヶ月前に作成しておいたものだ。
「こちらにサインをお願いいたします。ディートリヒ様、そして——立会人として公爵閣下にも」
ディートリヒ様は書類をちらりと見た。いつもの癖で、最初の三行だけ目を通す。いや、目を通したかどうかも怪しい。二十三条もの条文が並んでいるのに、彼の目が留まったのは表題と署名欄だけだった。
「面倒だな。こんなものは形式だろう」
「ええ、形式です。ですが形式を踏まなければ、法的に婚約は破棄されませんので」
「分かった分かった」
ディートリヒ様が万年筆を取り、署名欄にさらさらとサインした。いつも通りの、読まないサイン。この八年間——いいえ、少なくともこの三年間、何百回と繰り返されてきた光景。
契約書にサイン。読まない。
訴状にサイン。読まない。
領地間条約にサイン。読まない。
一度たりとも——本当に一度たりとも——ディートリヒ様は私の書いた条文を読んだことがなかった。
公爵閣下もまた、息子に倣うように署名した。この方も——書類をお読みにならない。血は争えないとは、このことだろう。
私は静かに、書類を受け取った。
二つの署名を確認する。日付。立会人欄。公爵家の紋章入り封蝋。
全て、揃った。
「では」
私は微笑んだ。書記室で千枚の書類を仕上げた日と同じ——静かで、穏やかな微笑み。
「第七条の効力が、発生いたしましたね」
ディートリヒ様の眉が、ぴくりと動いた。
「第七条? 何のことだ」
「婚約破棄合意書の第七条です」
私は手元の書類を開き、該当する条文を指で示した。もっとも、読み上げなくても私は暗記している。自分で書いた条文だ。一字一句、間違えるはずがない。
「『婚約破棄を申し出た側は、違約措置として、自身が保有する鉱山採掘利権の百分の三十を相手方に移転する。本条項は署名をもって即時発効し、撤回を認めない』——そのように記載してあります」
広間が、静まり返った。
使用人たちが息を呑む音が聞こえた。ルイーゼ嬢がディートリヒ様の腕にしがみつく。公爵閣下が、ゆっくりと顔を上げた。
「……何だと?」
「お読みにならなかったのですか?」
私は首を傾げた。心からの不思議そうな表情で——少なくとも、そう見えるように。いいえ、演技ではない。私は本当に不思議だったのだ。二十三条の法的文書にサインする前に、なぜ内容を確認しないのか。法務書記官の私には、それが心底理解できなかった。
「第七条。ちゃんと書いてありましたのに」
ディートリヒ様の顔から、血の気が引いた。書類を奪い取るように私から引ったくり、目を走らせる。だが——条文を読み慣れていない人間に、法律用語の羅列が一目で理解できるはずもない。
「——嘘だろう。こんな条項、僕は認めた覚えはない」
「サインをなさいました。たった今。お手ずから」
「読んでいない! こんなもの——」
「読まなかったことは、法的に抗弁とはなりません」
私の声は、静かだった。いつも書記室で書類を読み上げる時と同じ声。感情を交えず、条文を朗読するだけ。それが私の仕事だ。八年間、ずっとそうしてきた。
「署名は合意の証です。内容の不知は署名者の責に帰すべき事由であり、契約の効力に影響を及ぼしません。——王国法第四編第二章第十一条」
ディートリヒ様が声を荒げた。
「父上! これは無効だ! こんな条項は——」
公爵閣下が眉をひそめた。だが、この方もまた署名欄にサインをしている。立会人として。文書の有効性を——公爵家当主自らが——保証してしまっている。
「……マティルダ嬢。これは、本当に有効なのかね」
「はい。合法です。婚約契約に違約条項を含めることは、王国法上認められております。商取引における違約金条項と同じ法理です。そして公爵閣下がご署名くださったことで、立会人要件も満たされております」
私は深く、お辞儀をした。
「八年間お世話になりました。私の仕事は——おっしゃる通り、これで終わりでございます」
話を、少し巻き戻そう。
なぜ、こうなったのか。
私がグランツ公爵家の法務書記官になったのは、八年前のことだ。
アイゼンベルク伯爵家の令嬢として、十六歳でディートリヒ様と婚約した。公爵家と伯爵家の結びつき。政略結婚だったが、私は嫌ではなかった。
ディートリヒ様は明るく、社交的で、人を惹きつける才覚があった。私に足りないものを全て持っている方だと思った。私が書記室に籠もって万年筆を走らせている間に、彼は社交の場で人々を魅了する。正反対で、だからこそ補い合える——そう信じていた。
婚約と同時に、私は公爵家の法務書記官に就いた。
契約書。訴状。婚姻届。遺言書。領地間条約。鉱山利権の許認可。通商協定の細則。贈与証書。抵当権設定契約。訴訟代理委任状。——公爵家が関わる全ての法的文書を、私が一手に担った。
朝は日の出前に書記室に入り、夜は蝋燭が燃え尽きるまで万年筆を走らせた。インクの染みが指先から消える日はなかった。休日も書記室にいた。法律書を読み、判例を調べ、条文を研究し、公爵家の権益を守るための文書を、一字一句の誤りもなく仕上げた。
誰にも褒められなかった。当然だと思われていた。
けれど。
「マティルダ、この契約書にサインすればいいんだな?」
「はい。内容をご確認いただいてから——」
「いい、いい。お前が書いたんだろう? 間違いはないだろう」
ディートリヒ様は、一度も書類を読まなかった。
最初は信頼の表れだと思っていた。私の仕事を認めてくださっているのだと。私が徹夜で仕上げた契約書を、ディートリヒ様が内容を確認せずにサインするのは——それだけ私を信頼してくれているからだ、と。
違った。
彼はただ、面倒だったのだ。文字の羅列に目を通す労力を、惜しんでいたのだ。
法務書記官の仕事を——私の八年間を——その程度のものだと思っていたのだ。
気づいたのは、五年目の冬だった。
ディートリヒ様が社交の場でこう言っているのを、偶然、耳にした。廊下の角を曲がった先、開いたままの扉の向こうから聞こえてきた声。
「うちの書記官? ああ、マティルダか。地味で退屈な女だよ。でも書類だけは正確だから、便利に使っている」
便利に使っている。
会話の相手が笑った。ディートリヒ様も笑った。私の五年間が、社交場の笑い話になっていた。
私は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。手が震えていた。万年筆を握りすぎた右手の指が、ぎゅっと拳を作っていた。
——そう。
その夜、書記室に戻った。蝋燭を灯し、新しい羊皮紙を広げた。
泣かなかった。泣く代わりに、万年筆を取った。涙はインクを滲ませる。書類を汚すわけにはいかない。
「便利」で結構。ならば——最後まで、便利に使ってもらおう。
ただし。
私の「便利さ」には、正当な対価が伴う。
仕込みは、三年がかりだった。
焦らなかった。急ぐ理由がない。法は時間を味方にする。一つずつ、丁寧に、合法の枠の中で——私は保険を設計した。
最初に手をつけたのは、婚約契約書だ。
公爵家とアイゼンベルク伯爵家の婚約契約。ディートリヒ様と私の婚約の法的根拠となる文書。この契約書の改定を提案した。
「ディートリヒ様。婚約契約書の更新手続きがございます。領地法の改正に伴う形式的な修正ですが」
「面倒だな。お前に任せる」
「……かしこまりました」
形式的な修正は事実だった。領地法は確かに改正されたし、それに伴う文言の調整は必要だった。だがそこに、私は第七条を加えた。
婚約破棄の違約条項。破棄を申し出た側が、保有する鉱山利権の三十パーセントを相手方に移転する。
違法ではない。婚約契約に違約条項を含めることは、王国法上認められている。商取引における違約金条項と同じ法理だ。むしろ、このような保全条項がない婚約契約のほうが法務の観点からは不備がある。
ディートリヒ様は——もちろん——読まずにサインした。私が差し出した書類にサインしない日は、八年間で一度もなかった。
次に仕込んだのは、鉱山利権契約だ。
グランツ公爵家の主要収入源である三つの鉱山——グランツ鉱山、ノルドベルク鉱山、ヴァイス鉱山。その採掘権・精錬権・輸送権の各契約を管理していたのは、他ならぬ私だった。
契約の更新時期に合わせて、保証人条項を追加した。法務書記官マティルダ・フォン・アイゼンベルクを契約の保証人として明記する。保証人が辞任または罷免された場合、契約は再締結を要する——と。
これも違法ではない。保証人条項は契約実務上ごく一般的だ。取引の安定性を担保するための措置として、むしろ推奨される。ただし、保証人が去った後のことまで想定している契約は——あまりない。なぜなら通常、有能な法務官を自ら追い出す当主などいないからだ。
「この契約にも保証人欄がありますが」
「お前が入ればいいだろう。他に誰がいる」
「……ええ。私が入りましょう」
ディートリヒ様の言う通りだった。他に誰がいる? 公爵家の法的文書を理解できる人間は、私しかいなかった。ディートリヒ様ご自身を含めて、誰一人として。
最後に、領地間条約。
グランツ公爵領と近隣三領地との通商条約。この条約に「法務担当者の継続的関与」を有効性の条件として盛り込んだ。
法務担当者が交代する場合は、新任者の署名による更新手続きが必要——一見すると官僚的な形式要件に過ぎない。だが、法務担当者が「いなくなった」場合のことは、誰も想定していなかった。交代ではなく、消滅。後任者がいない状態。
三年。
千を超える書類に目を通し、百を超える契約を管理し、その合間に——一条ずつ、一契約ずつ、保険を織り込んだ。
私は一文字も嘘を書かなかった。一つも違法な条項を入れなかった。全て合法。全て条文の範囲内。全て、読めばわかること。
ただ——お読みにならなかっただけ。
復讐のつもりはなかった。怒りに任せた報復でもなかった。
正当な対価だ。
八年間の労働。千枚の書類。眠れない夜。インクに染まった指先。その全てに見合う——法の枠内での——保険。
私は法務書記官だ。違法な条項を作る能力は、持ち合わせていない。
さて。
話を、大広間に戻そう。
私が「八年間お世話になりました」と告げた後、広間はしばらく沈黙に包まれていた。
その沈黙を破ったのは、ディートリヒ様だった。
「待て。待て待て待て。鉱山利権の三十パーセントだと? そんな馬鹿な話があるか!」
「馬鹿な話ではございません。婚約契約書第七条に明記された、正当な違約措置です」
「こんなもの、罠だ! お前が仕組んだ罠だ!」
私はゆっくりと首を振った。
「罠ではございません。書類に書いてある通りのことが起きただけです」
「父上! この女を——」
「お待ちください」
私は穏やかに遮った。怒鳴り声に対して、私の声は低く、静かだった。法廷で条文を読み上げる時の声。感情のない、正確な声。
「もう一つ、お伝えしなければならないことがございます」
ディートリヒ様が口を噤んだ。公爵閣下も、眉を寄せたまま黙っている。ルイーゼ嬢は何が起きているのかわからないという顔で、ディートリヒ様と私を交互に見つめていた。
「私が公爵家を去るということは、鉱山利権契約の保証人が不在になるということです」
「……何?」
「グランツ鉱山の採掘権契約、ノルドベルク鉱山の精錬権契約、ヴァイス鉱山の輸送権契約。いずれも私が保証人として署名しております。私の退去に伴い、保証人辞任届を本日付で王立裁判所に提出済みです」
公爵閣下の顔色が変わった。
この方は——ディートリヒ様よりは聡明だ。長年公爵家を治めてきた経験がある。私の言葉の意味を、即座に理解したらしい。
「保証人不在の場合、契約は再締結を要する。取引先は当然、条件の見直しを要求してくるだろう。……マティルダ嬢、まさか」
「はい。その通りです。そして加えて、近隣三領地との通商条約も、法務担当者の交代手続きが必要になります。新しい法務担当者がご着任されるまで——条約の法的有効性に、疑義が生じます」
一つ、一つ、丁寧に説明する。私の仕事は書類を作ることだ。そして書類の内容を、正確に伝えること。最後まで、きちんと仕事をする。
「通商条約が宙に浮けば、近隣領地からの物資の流通が滞ります。鉱山の契約が再締結になれば、取引先はより有利な条件を要求するでしょう。そして——それらの交渉に必要な法的文書を作成できる人間が、公爵家にはもういません」
広間が、凍りついた。
ルイーゼ嬢が不安そうにディートリヒ様を見上げている。彼女は——法務のことなど何もわからないだろう。華やかな社交術は持っているかもしれないが、契約書の条項を読み解く能力は、おそらく持ち合わせていない。
それは彼女の責任ではない。ただ、ディートリヒ様が「書類しか能がない女」を追い出して「書類が読めない女」を迎えた——その選択の結果が、これだ。
「これは——脅迫か」
ディートリヒ様の声が、低く震えた。琥珀色の目が、怒りで赤く充血している。
「脅迫?」
私は目を瞬いた。心底不思議そうに——演技ではなく、本当に不思議だった。
「いいえ。私はただ、事実をお伝えしているだけです。婚約を破棄されたのはディートリヒ様のご意志。私を追放されるのもディートリヒ様のご意志。その結果として生じる法的効果を、ご説明申し上げているに過ぎません」
感情で契約は覆りませんわ。
あなたがご自身のお手でサインなさったのですから。
「撤回だ! 婚約破棄を撤回する!」
ディートリヒ様が叫んだ。広間に反響するほどの大声だった。ルイーゼ嬢が怯えたように身を縮めた。
「撤回はできません」
私は静かに答えた。
「何故だ!」
「署名が完了し、立会人の認証も終わっております。合意書第二十三条をご確認ください。『本合意は署名をもって確定し、双方の新たな書面合意なくして撤回することを得ず』と。法的に成立した合意は、一方的には覆せません」
第二十三条。これも私が書いた条文だ。撤回防止条項。万が一ディートリヒ様が「やっぱりやめた」と言い出した場合に備えて、最初から仕込んでおいた。
ディートリヒ様が、ルイーゼ嬢が、公爵閣下と奥方様が——それぞれの形で、凍りついていた。
八年間、書類を読まなかった代償。それが今、この広間に満ちている。
私は静かにお辞儀をした。
「長い間、お世話になりました。公爵家の法務書記官として働けたことは、私の誇りです。——書類は全て、引き継ぎ用の目録を書記室に残してございます。ただし」
最後に、もう一つだけ。
「目録は私の手書きです。筆跡が読めない方には、少々難しいかもしれませんが」
微笑んで、大広間を後にした。
背後で、ディートリヒ様の怒号が聞こえた。公爵閣下の低い声が、それを制している。使用人たちのざわめき。ルイーゼ嬢の不安げな声。
私は振り返らなかった。
八年分のインクの匂いを纏ったまま、グランツ公爵邸の門を出た。
公爵家を出た私は、王都の小さな宿に身を寄せた。
荷物はわずかだった。衣服が少しと、法律書が数冊。万年筆とインク壺。そして——八年分の書類の写し。全ての契約書、条項設計のメモ、法的根拠の一覧。私の「仕事」の全記録。法務書記官として作成した文書は、常に写しを手元に残している。それが私の流儀だった。
宿の小さな部屋で、私は窓を開けた。秋の冷たい風が頬に触れる。
……終わった。
八年間の日々が、たった一枚の署名で終わった。正確には——たった一枚の署名で、あるべき形に決着がついた。
涙は出なかった。泣くような結末ではない。全ては計画通りだ。全ては——書類に書いた通りだ。
翌朝、宿の扉を叩く者がいた。
「マティルダ・フォン・アイゼンベルク嬢ですね」
濃い茶色の髪に深い緑色の目。痩身の青年が、法律書を小脇に抱えて立っていた。背は高くないが、姿勢がまっすぐで、知性的な目が印象に残る。そして——指先にインクの染みがあった。
「私はヨハン・フォン・リヒター。王立裁判所の判事です」
「……ヨハン判事。存じ上げております。法曹界でお名前を知らない者はおりません」
王国随一の法学者。二十五歳で判事に任命された異例の秀才。権力に媚びない公正さで知られ、貴族間の紛争調停を数多く手がけてきた方だ。
「光栄です。——少し、お時間をいただけますか。あなたが作成された契約書について、お聞きしたいことがある」
王立裁判所。なるほど、もう動いたのか。
公爵家の取引先が早速、契約の有効性について裁判所に照会を出したのだろう。保証人不在の契約が山ほどある。裁判所としても対応せざるを得ない。
「どうぞ。お入りください」
小さな宿の一室。狭い机の上に法律書を広げ、私は八年分の書類をヨハン判事に提示した。
婚約契約書。鉱山利権契約。領地間条約。保証人条項の設計根拠。条件発動型条項の法的先例。一枚一枚、丁寧に並べる。この書類たちは、私の八年間の結晶だ。
ヨハン判事は黙って、一枚一枚を読んでいった。
長い沈黙だった。
書類を読む人の沈黙だ。私が八年間、ディートリヒ様から一度も受け取ることのなかった——真剣に文書と向き合う者の静寂。条文の一行一行に目を走らせ、眉を寄せ、頷き、時に前のページに戻って確認する。そうだ。書類とは、そうやって読むものだ。
やがて、ヨハン判事が顔を上げた。
「この条項設計は……天才的だ」
淡々とした声だった。だが、その緑色の目に浮かんでいたのは——驚嘆だった。法律を知る者だけが理解できる驚き。
「合法でありながら、これほど精密な保険を仕込めるとは。違約措置の条件設定、保証人条項の構造、条約の法務担当者要件——全てが一つのシステムとして連動している。どれか一つが欠けても、これほどの効力は発揮しない。しかも、一つとして法に触れていない」
「当然です。私は法務書記官ですので。違法な条項を作る能力は持ち合わせておりません」
「これを、三年かけて?」
「はい。一条ずつ、一契約ずつ。全ての改定機会を利用して——合法の範囲内で」
ヨハン判事が、ふ、と息を吐いた。笑みとも嘆息ともつかない表情。
「グランツ公爵家は、とんでもない人材を手放したな」
「お褒めの言葉と受け取ってよろしいのでしょうか」
「事実を述べただけです。——マティルダ嬢」
判事は姿勢を正した。法廷で判決を言い渡す時のような、凛とした声で。
「王立裁判所で、法務官として働く気はありませんか」
私は——少し、驚いた。
「裁判所に?」
「あなたの才能は、公爵家の書記室に収まるものではない。王国法の運用に関わるべき人材だ。……率直に言って、うちの裁判所にも、あなたほど条項設計に長けた者はいない」
公爵家で八年。私の仕事は「下男にやらせればいい」と言われた。「地味で退屈な女」と笑われた。「便利に使っている」と——社交の笑い話にされた。
それが今、王国の最高司法機関から招聘を受けている。
「……光栄です」
声が、ほんの少しだけ震えた。感情は法的根拠がないと思っていたのに。おかしな話だ。
「謹んでお受けいたします」
それから、数ヶ月が経った。
グランツ公爵家がどうなったか。少し語ろう。
まず、鉱山利権の三十パーセントが私の持分として正式に確定した。王立裁判所の審査を経て、婚約契約書第七条の有効性が認められたのだ。ヨハン判事は審査の担当を自ら辞退した。「当事者との個人的関係がある」と。生真面目な人だ。公私を分ける。法に携わる者として、正しい姿勢だと思った。
取引先との契約は案の定、大混乱に陥った。保証人不在の契約は再締結が必要だが、公爵家には条項を読み解ける法務官がいない。急遽雇った法務顧問は三人が三人とも、私が八年かけて構築した契約体系を前にして匙を投げた。
「前任者の仕事が精密すぎて、引き継ぎが不可能です」と。
領地間条約も宙に浮いた。近隣領地は法的不安定を嫌い、通商量を減らした。公爵領の市場に品物が届かなくなり、領民が困り始めた。
そして——ディートリヒ様。
風の噂に聞いた。
ルイーゼ嬢が距離を置き始めたそうだ。法務の泥沼に巻き込まれることを嫌がっているらしい。華やかな社交の場ではなく、裁判所への出頭と契約書の再交渉ばかりの日々。それは確かに、彼女が望んだ婚約生活ではないだろう。
ディートリヒ様自身も、ようやく書類を読まなければならないことに気づいたようだ。だが——八年間、一度も書類を読まなかった人間が、突然読めるようになるはずがない。法律用語は一朝一夕では身につかない。
因果応報、というのだろうか。
いや、違う。因果も応報もない。ただ書類に書いてあることが、書いてある通りに起きただけだ。
王立裁判所での日々は、穏やかだった。
朝、法務官室に入る。法律書と判例集が壁一面に並ぶ部屋。インクの匂い。羊皮紙の手触り。万年筆の重み。公爵家の書記室と——道具は変わらない。
変わったのは、周囲の人間だ。
ここでは、誰もが書類を読む。判事も書記官も法務官も、一字一句を確認してからサインする。条文について質問する。疑問があれば議論する。それが当然だ。それが——当たり前の世界。
私が八年間、一度も得られなかった「当たり前」が、ここにはあった。
「マティルダ」
昼過ぎ、ヨハン判事——いや、最近はヨハン様と呼んでいる——が法務官室を訪れた。手に法律書を二冊抱えている。相変わらず指先にインクの染みがついていた。
「新しい判例集が届いた。一冊は君のだ」
「ありがとうございます。……ヨハン様、それはわざわざお持ちいただかなくても。配達係に頼めば——」
「通りがかりだ」
通りがかりではない。法務官室は裁判所の東棟にあり、判事室は西棟だ。建物の反対側から「通りがかる」ことは物理的に不可能である。これは事実として指摘可能だが——指摘しなかった。
「隣の席が空いています」
ヨハン様が判例集を開きながら言った。何でもないことのように。でも、耳の先がほんの少し赤い。
「——法律書が、もう一冊あるので」
不器用な人だ。好意を法律書で包んで渡す人。「一緒に読みませんか」と素直に言えばいいのに、「法律書がもう一冊ある」と理由をつける。法廷では雄弁なのに、法廷の外ではこんなにも口下手だ。
でも——それが、心地よかった。甘い言葉を囁かれるより、法律書を並んで読む方が、ずっと。
「では、お言葉に甘えて」
私は隣の椅子に座り、判例集を開いた。
二人の間に、静かな時間が流れる。ページをめくる音だけが、法務官室に響いている。秋の午後の陽光が、窓から斜めに差し込んで、二冊の法律書を照らしていた。
ヨハン様の指先にも、インクの染みがついていた。私と同じだ。
……ああ。
「ヨハン様」
「ん?」
「この判例の第三項ですが、先日の鉱山利権訴訟にも適用できそうです」
「どの部分だ」
「ここです。保証人辞任後の契約効力に関する先例で——」
「ああ、なるほど。確かに。マティルダ、それは面白い着眼だ」
法律の話で目が輝く人。書類を読むことに敬意を払う人。私の仕事を——「下男の仕事」ではなく「天才的」と言ってくれた人。
私はインクの匂いが好きだった。
今も変わらない。
ただ、一つだけ変わったことがある。
このインクの匂いを、隣で同じように嗅いでいる人がいること。
先日、一通の手紙が届いた。
グランツ公爵家からだ。公爵閣下のご名前で、マティルダ・フォン・アイゼンベルク宛て。封蝋に公爵家の紋章。八年間、何百回と見てきた紋章だ。
内容は——法務書記官としての復帰要請。
鉱山利権の持分返還と引き換えに、元の職に戻ってほしいと。ディートリヒ様との再婚約も検討すると。
手紙の文面は丁寧だったが、どこか焦りが滲んでいた。おそらく公爵閣下ご自身が書かれたのだろう。ディートリヒ様の筆跡ではなかった——あの方は、手紙すら書かないのだろう。
私は手紙を読み終え、丁寧に折り畳み、書類棚に収めた。受領記録として、日付と差出人を台帳に記入する。法務官の習慣だ。どんな書類も、記録する。
返事は、一行だけ書いた。
「ご依頼の件、拝辞申し上げます。なお、鉱山利権の持分は婚約契約書第七条に基づく正当な権利であり、返還の義務は生じません。王国法第四編第二章第十一条をご参照ください」
法の言葉で書いた。それが私の言語だから。
感情を込める必要はなかった。条文が、全てを語ってくれる。
封をして、公爵家の使者に渡した。使者は不安そうな顔をしていた。この返事を持ち帰ったら、ディートリヒ様はきっと怒鳴るだろう。少し気の毒に思ったが——書類に書いてある通りのことを伝えただけだ。
あの日、大広間で私に向けられた言葉を思い出す。
「お前の仕事はもう終わった」。
——ええ、そうですね。公爵家での仕事は終わりました。
でも私の仕事は、まだ続いている。
王立裁判所で。新しい法律書を開いて。隣に、法律書をもう一冊持った人がいて。
私の仕事は——私の書類は——嘘をつかない。
法は、読んだ者の味方です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「知略型×発覚型」の組み合わせです。今作のテーマは「書類を読まなかった代償」。法務書記官という職業に特化した、ちょっと変わった「ざまぁ」を書いてみました。
マティルダがやったことは、実は一つもズルくありません。全て合法。全て条文の範囲内。ただ「書いてあることを読まなかった」だけ。契約社会において、署名した文書の内容を把握していないことがどれほど危険か——現実世界にも通じるテーマだと思います。
もう一つ大事にしたのは、マティルダの動機です。復讐ではなく「正当な対価」。八年間の労働に見合う保険。彼女は怒りではなく、法の論理で動いています。だからこそ、最後まで品位を保てる。法は感情ではなく、条文で語るものですから。
ヨハンとの関係も気に入っています。甘い言葉ではなく法律書で好意を伝える不器用な判事。インクの染みが二人のお揃いの勲章——そんな「法務官同士の恋愛」を書けて楽しかったです。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
・「お前は道具だった」〜【知略型】
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・「『お前の取り柄は計算だけだ』」〜【知略型】
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・「毒が効かない体になるまで」〜【断罪型】
→ https://ncode.syosetu.com/n6633lu/
・「公爵家の家政を10年回した私が」〜【静かな離脱型】
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・「通訳など辞書で足りる」〜【職業特化型/通訳型】
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