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E10-04 赦し

「魔術師さん……!」


来てくれた――。


胸の奥に、じわりと熱いものがこみ上げる。


「……っ」


立ち上がろうとするが、足元がふらついた。


レイヴがすかさず腕を伸ばして支える。


身体を預けて見上げると、琥珀の瞳が案じるようにエルを見つめていた。


契約の婚約者。


それ以上でも、それ以下でもない――はずだった。


それなのに、いつの間にかこのひとは、エルの心の中に深く入り込んでいた。


飄々としているのに、熱くて。


強いのに、偉ぶらず、押しつけない。


不器用なエルに、そっと寄り添ってくれるひと。


「……何をされた?」


怒りを押し殺した低い声だった。


エルは自分の姿を見下ろす。


ドレスの胸元は無惨に破れ、銀の髪はほどけて乱れている。


「何もされてないよ。……ちょっと、危なかったけど」


エルに向かって、剣は今にも振り下ろされる寸前だった。


鋭利な刃物のようなレイヴの視線が、アスラドとグラディウスに向けられる。


「おまえはアスラド王子だな。そっちの魔術師は誰か知らんが――よくも人の婚約者に手を出してくれたな。

おまえら二人、命はないと思え」


湧き上がる怒気に気圧され、アスラドはレイヴから目をそらし、グラディウスの背に隠れる。


「グラディウス! お、お前が何とかしろ!」


矢面に立たされた老魔術師は、最強と謳われるレイヴを前にしてもなお傲慢さを滲ませていた。


「レヴィアンどの。儂は魔術師グラディウス。我らは魔術に通じる者同士。良い協力関係を築けるとは思いませんかな?」


レイヴは眉を上げた。


即座に倒すのは容易い。


だが、ここで話を聞いておかねば、また同じようにエルが狙われるかもしれない。


「……おまえの名は聞いたことがある。星塔アストラリウム研究の第一人者か。確か、禁術に手を出して追放処分となったんじゃなかったか?こんなところで何してる」


「儂の名をご存知とは光栄の至り。禁術とは誤解ですぞ。ただ――罪人どもを被験者として使っただけのこと。この世界の不要物が、崇高な研究の糧となる。その素晴らしさが理解できぬ者ばかりだったのです」


恍惚と語るグラディウスだが、レイヴは表情を崩さない。


「戯言はいい。話があるなら手短にしろ」


「くくく、では、単刀直入に。

貴殿の婚約者――エルシア=ノーラは、悪の権化なり。

ですが、そやつを使えば、星塔アストラリウムの力を制御し世界をも動かせるのです」


「寝言は寝て言え」


レイヴの返事は冷ややかだ。


「信じがたいか。では真実を教えて差し上げましょう。

あの星落の災厄――八年前の大災害は、星塔アストラリウムの暴走ではない。

器であるこの女が、魔力を暴走させて引き起こしたのです!」


「……グラディウス!それはどういうことだ!?」


アスラドが大仰な態度で口を挟む。


だが、その体はグラディウスの背に隠れたままだ。


グラディウスは仄暗い嗤いを浮かべた。


人の不幸と絶望こそが、生きる糧であるかのように。


「おぞましきかな。災厄の夜――この女は星塔アストラリウムを通じてカストゥールの霊脈を壊した。その結果、王都は火に呑まれ、軍も政府も消滅し、カストゥール王国は崩壊した。生存者はほぼ皆無!」


レイヴは黙ったままだ。


アスラドの頓狂な叫びだけが響く。


「馬鹿な!そんな力が、器に……?」


「信じがたいでしょうが、先ほどそやつから放たれた『星色のマナ』――あれは、星塔アストラリウムが霊脈に干渉する際に発する独特の波長《星環式》。

もはや疑いようもない、星落の災厄の震源は、そこにいる化け物――この娘なのです!」


「…………そうだよ」


感情のない声で、エルが言った。


それはアスラドたちへ向けた言葉ではなく――懺悔のように、レイヴに打ち明けるものだった。


「わたしが……星落の災厄を起こした」


水底から浮かび上がる泡のように、エルは言葉を絞り出す。


「器にされて、閉じ込められて……毎日、カストゥールから飛んでくる攻撃魔術を受け止めるうちに、少しずつ星塔アストラリウムに干渉できるようになって。

あの夜、限界だった。だから……壊したの」


遠くを見つめるように、薔薇色の瞳が揺れる。


その肩は小さく震えていた。


「火の海が視えた。何人死んだのか、もう……わからない。

助けてって叫んでた誰かの声も、焼け落ちる街の匂いも全部、器の中のわたしに届いていたよ。

――あの夜、わたしは、逃げて、生き延びた。ただ、それだけ」


「……なぜお前は器にされた?」


レイヴの問いかけに答えたのは、グラディウスだった。


「その女の母親は、捕虜としてモルテヴィアに送られたカストゥール王家の娘。生まれながらに強大な魔力を持つ血の系譜ゆえ、器として利用されたのですよ」


アスラドがはっとしたように声を上げた。


「ちょっと待て……じゃあ……俺の父王が死んだのも……!?」


「わたしがやった」


エルはアスラドを見た。


その目は、記憶の中のモルテヴィアの前王ヴォルドゥスを見ているようだった。


「災厄の夜、ヴォルドゥス王が来たの。わたしを殺そうとしたから返り討ちにした」


アスラドの目に狂気が光る。


「は、は、は!なんてことだ! この女のせいでどれだけの人間が死んだのだろうな!? だがそんなことはもうどうでも良い。敵国カストゥールを滅ぼした力。その強大な魔力を手に入れられるのだろう!?」


グラディウスも嗤う。


「まさしく。星塔アストラリウムはカストゥールの地で休止状態にありますが、その力は絶大。その力を我らが手にすれば、モルテヴィアが第三大陸トリア・ゼラムのみならず、この世界すべてを席巻できる!どうですかな、レヴィアンどの!我らと組んで、世界を手に入れましょうぞ!」


アスラドがグラディウスの後ろから、ようやく出てくる。


「レイヴとか言ったな。お前もこんな化け物と結婚するくらいなら、モルテヴィアに寝返ったほうがよかろう?モルテヴィアが天下を取れば、女など掃いて捨てるほど寄ってくる。こちら側に来れば、重鎮として扱ってやろう。どうしてもその女が欲しいなら、器にする前なら好きにしても良いぞ!!」


「…………」


薔薇色の瞳は、断罪を待つ者のように凪いでいた。


誰の言葉も否定しない。


否定できない。


自分の背負うべきとがはわかっている。


「なるほどな」


レイヴの低く、静かな声が響いた。


エルの肩が、ふるりと震える。


軽蔑、罵倒――どんな言葉を浴びせられても、甘んじて受ける覚悟があった。


でも――辛い。


心が痛くないわけではない。


けれど、それが自分のカルマ


怖くて、瞳をぎゅっと閉じた。


その瞬間――


優しく、抱き寄せられた。


「…………!」


「で? それが、どうした?」


思いがけない言葉に、エルの目がゆっくりと開かれる。


「カストゥールが滅びたのも、モルテヴィアが腐っちまってるのも、自業自得だろう。

こんなちっぽけな娘ひとりに、その全部を背負わせるなんて――馬鹿馬鹿しいにもほどがある」


その声には、激しい怒りがあった。


だがそれは、エルを責めるためのものではなかった。


レイヴがエルを静かに見つめた。


琥珀の瞳に浮かんでいたのは侮蔑でもなければ、同情でもない。






――それは、受容だった。






「お前は、生きようとしただけだろ?」


「…………」


「おまえは、誰かを傷つけたかったんじゃない。ただ、生きるために逃げた。それだけだろう。それが罪だというなら、この世界の方が、おかしい」


「……どうして、そんなふうに言ってくれるの……?」


エルは泣かない。


泣けないのだ。


器から逃げたあとも、どうしても、涙が出ない。


それでも心はじんと震えた。


レイヴの言葉に、心が濡れていた。


「短い付き合いだが、おまえのことは少しはわかるつもりだ。

おまえは破茶滅茶なやつだが、無闇に人を傷つけるようなやつじゃない。

それに、アドリアンは、俺におまえを託した。

あいつが守りたかったのは――」


レイヴは亡き友を思い、言葉を切った。


今なら、あの手紙の意味がわかる。




『どうか、『自由』を守るのに力を貸してやってほしい。


お前に託す――』



「……はじめはノーラのことかと思っていた。貴族諸侯連中をなんとかして、もっと冒険者と手を取り合えってな。けど、違う。あいつが何よりも守りたかったのは、おまえ自身の『自由』だったんだ」


そう言うと、レイヴは、エルを抱く腕をふっと緩めた。


「それで、どうするよ?俺に任せろとは言ったが……おまえ、やられっぱなしでいいのか?」


エルは、口元に笑みを浮かべた。


ゆっくりと身体を離し、ふらつきながらも、自分の足で立ち上がる。


誰かに支えられているだけなのは、性に合わない。


――共に、立つのだ。


「……ありがとう、魔術師さん。わたしは、もう大丈夫」


薔薇色の瞳が、まっすぐに敵を射抜く。


もう、迷いはない。


「ここからは反撃の時間だよ。もちろん、やられた分は――自分できっちり、お返しするからね!」



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