E09-02 異変の予感(フィリオン)
夜会開始から一刻あまり。
会場の隅、目立たない一角に一人の青年が佇んでいた。
ほっそりとした外見で、見ようによっては女性のようでもある。
上等な礼服に身を包み、喧騒から少し離れただけ――そんな雰囲気の、どこにでもいそうな貴族子息だ。
だが、その実体は異なる。
それは命を与えられた人ならざる存在。
ただの人間に見えるよう擬態された、魔自動機械――フィリオンである。
青く発光する髪は、くすんだ茶色へと染められていた。
虹彩の奥にある機械仕掛けの構造も「霊子干渉膜」と呼ばれる特殊な薄膜で隠され、人間と変わらぬ自然な光沢に抑えられている。
魔導式の補正により、フィリオンの視界は建物の構造すら詳細に映し出す。
大理石の床には微細なひび、壁には雑な修復跡。
煌びやかに見える会場は、実はつぎはぎだらけだった。
(表向きは煌びやかでも、内部は老朽化が認められます。過去の栄光を取り繕う虚構……というところですか。どうやら国庫は相当苦しいようですね)
フィリオンは思考処理領域でそう結論づけると、今度は人々の観察に移った。
人間の言う『社交』とは非効率かつ奇妙な行動形態である。
目線、会釈の深さ、互いの距離、声色、口角の角度、笑い声の大きさや抑揚――そのすべてが互いに牽制し合い、複雑な法則に従って駆け引きがなされている。
貴族同士の会話には一定の様式があり、一見無秩序のようなのに、実は目に見えない規則に従っているのがフィリオンにとっては興味深いのだ。
変化が訪れたのは、会場の大扉が開き、ひときわ艶やかな二人が現れたときだ。
(……来た)
フィリオンの視覚演算領域が、周囲の視線の集中度を数値化していく。
七十、八十、九十……上昇中。
フィリオンの視野がわずかに絞られ、光の粒をまとったようなエルの姿を捉える。
星の光を溶かし込んだような銀髪、気高い薔薇色の瞳。
ただそこに立っているだけで、場のすべてを圧倒する美貌と存在感。
現に、貴族たちの心拍数は急上昇し、呼吸の乱れ、視線の固定など、あらゆる生体反応が示されていた。
「――神々しい」
この言葉を、感情処理領域の中で定義しても、なお不十分だった。
彼女こそが創造主。
命を与え、名を与え、意味を与えてくれた、唯一絶対の存在。
エルの隣に立つのは、長身を漆黒の礼服に包んだレイヴだ。
戦闘経験値、魔力内蔵量、マナの制御レベレベル……あらゆる数値が、異常に高い。
それでいて、エルを導くのではなく、あくまでその手を取って寄り添う姿勢を崩さない。
(……あの方は、創造主の守護者としてふさわしい)
場が静まり返る中、甲高い声が響いた。
「まあ……さぞ目立ちたかったのでしょうね。あの色、ご覧になって? モルテヴィアでは一昨年の流行ですわ」
声の主は、モルテヴィアの若い貴族令嬢だった。
取り巻きを従え、勝ち誇ったように笑っている。
(愚かな……)
穏やかな声音で反論するエルの声、続く令嬢の狼狽、無知の露呈。
次第に追い詰められていく様が、会場の空気をわずかに震わせる。
エルが令嬢に一歩近づく。
刹那にも満たないわずかな一瞬で、魔力の圧を解放し、令嬢が悲鳴とともに倒れ込んだ。
何が起きたのか分からない者も多かっただろう。
けれど、フィリオンには分かった。
あれは創造主エルシアの力。
愚かな者を正しく導くための、戒めだ。
エルはレイヴの腕に軽く手を添えて、何事もなかったように歩き出す。
音楽が再び流れ、場の緊張は解けていく、……ように見えた。
(…………?)
だが、フィリオンの演算領域が、微細な違和感を検知していた。
フィリオンの位置から十歩ほど先、壁際の静かな一角。
会場のさらに奥の人気のない壁際に、年若い令嬢が生気のない表情で立ち尽くしている。
(……おかしい)
壁の花というのでもない。
どこかが奇妙なのである。
光学補正を再調整しようとしても無駄だった。
演算領域に誤計算が生じ、フィリオンにしか聞こえない警告音と窓が多数浮かび上がる。
その令嬢の横を給仕が通り過ぎた。
(…………!なるほど、理解しました)
光源との矛盾。
反射率の異常。
違和感の正体は、令嬢の足元にあった。
――影がない。
会場の床には照明があたり、柱や食卓の脚ですら明瞭な陰影を落としているのに。
(実体がないということでしょうか)
その令嬢が、ゆっくりとこちらを見た。
まるで空洞のような瞳だ。
目が合った――そう思った瞬間。
青白い唇が、わずかに動いた。
音にはなっていない。
けれど、確かに聞こえた。
《……タ ス ケ テ》
次の瞬間、フィリオンの感知範囲からその令嬢が消えた。
音もなく、気配もなく、痕跡すら残さず。
あまりにも自然に、まるで最初からそこにいなかったかのように。
人目につかない場所なので周囲の人間も誰も気がつかない。
あまりにも静かな異変だった。
(……これは報告が必要ですね)
常人であれば震え上がっていたかもしれないが、フィリオンは魔自動機械である。
ごく冷静に通信領域を起動させる。
だが、繋がらない。
(……!? 通信障害……会場全体が、遮断魔術式で覆われている!?)
この場所にいないフィリオンの片割れは、今はレイヴの言霊獣と行動をともにしているはずだった。
言霊獣を媒介として通信ができるのは会場に着いた時点で確認済みだったはずだ。
マナの感知領域を広げようと試みるも、それも上手くいかない。
(異常事態発生)
エルとレイヴはどこかの国の大使と思しき人物と談笑中である。
簡単には動けない。
創造主に伝えるべきか、今は見送るべきか。
ほんの一瞬だけ迷いが生じる。
フィリオンは、静かに酒杯を置いた。
誰にも気づかれぬまま忍び寄る異変を、創造主に代わって迎え撃つ。
フィリオンは音もなく動き始めた。




