E04-01 契約書
空中庭園を後にした三人は、長い回廊を抜け、大公の執務室へと足を踏み入れた。
執務机にはすでに契約書が用意されており、レイヴの前にすっと差し出される。
用意周到もここに極まれり、である。
「じゃあ、これに署名してね」
高天井に嵌めこまれた水晶硝子の窓から、柔らかな陽光が降り注ぐ。
その光が、エルの銀糸のような髪に反射し、きらきらと舞うように散った。
「もう一度聞くが、本気か?」
低く放たれた問いに、エルは一瞬たりとも目を逸らさない。
紅玉を思わせる薔薇色の双眸が、まっすぐレイヴを射抜く。
「もちろん」
深いため息とともに、レイヴは契約書に目を落とした。
魔術式が組み込まれた『婚姻契約の書』。
縁には精緻な文様が施されており、それ自体が淡く発光している。
婚姻時に契約を交わすことがあるとは聞いていたが――
この魔術式の構造は、どこか妙に複雑で、見慣れない。
(……まあ、婚姻契約なんざ初めてだし、こういうもんなのか?)
一瞬の疑念を飲み込み、レイヴは内容を確認する。
だが、書かれていることも普通ではない。
魔術師であれば垂涎ものの貴重な触媒素材に、希少鉱石。
上位精霊結晶に至るまでが報酬の欄に明記されている。
さらには、金貨五百枚、極上の宝石類、名工の鍛えた魔術具や武器――
財宝と呼ぶに相応しい品々がずらりと並ぶ。
そして、ひときわ異彩を放つ最後の一行。
「甲・魔術師レイヴは、乙・ノーラ公国第七代・大公エルシア=ノーラを妻とすること」
「そう。この中でいちばん良いところでしょ?」
「どこがだよ……」
「ほかに欲しいものがあれば追加していいよ。あと、期間はとりあえず三年でいいかな?」
「長い」
エルが反論するより先に、カシアンが口を挟んだ。
「申し訳ありませんが、そこはご辛抱ください。殿下は父の喪に伏しており、一年ほどは再婚ができません。その前に戴冠式も控えておりますし……。諸侯の反発を抑えるには、本来であれば五年はほしいところです」
レイヴは眉をひそめ、再び契約書へと視線を戻す。
「ってことは、この契約が有効になるのは、戴冠式の後ってことか?」
「はい。こちらの補足事項にございます」
カシアンが別紙を手渡す。
そこには、これよりエルの戴冠式までは婚約期間となる旨、レイヴは王配の立場となり、実権はすべてエルにあることなどの詳細が記されている。
どこまでも周到なことである。
レイヴはペンを持ち直した。
署名する寸前、ふと思いついたように口を開く。
「――で、アドリアンとは寝たのか?」
その場の空気が一瞬固まる。
腹芸の得意なカシアンでも、突然の質問に返答がほんの一拍遅れた。
エルは否定とも肯定とも取れない表情になる。
それだけで十分である。
レイヴは喉の奥でくつくつと笑った。
「やっぱりな。アドリアンとも契約結婚だったわけだ」
「……どうして、そう思ったの?」
「わからいでか。あいつのこと話すとき、なんかこう――『お父さん』って感じなんだよな」
エルは吹き出した。
「鋭いなぁ!かなわないよ。まあ、魔術師さんにはもとから隠す気もなかったんだけどね。そう、アドリアンはわたしにとって父親がわりだったの」
先の大公アドリアンは享年四十七。
息子カシアンとのほうが年齢的にはよほど釣り合っている。
それなのに、わざわざエルと結婚したことが、レイヴにはずっと引っかかっていた。
何より、エルからは亡き夫への思慕の気配が微塵も感じられない。
「だから、わたしとカシアンも兄妹みたいなものだよね」
「少し強すぎる妹ですが、まあ、可愛いところもありますよ」
カシアンが苦笑しながら付け加える。
「若さと美貌を売りにした平民の娘が、王侯貴族に見初められるというのは、ままある話ではありますが……」
「そうそう。一年前に結婚したときなんて、『これほどの名誉に恵まれるとは、なんという幸運の持ち主なのでしょう』って、いろんな人に言われたよ」
元の身分がどれだけ低かろうと、奥殿で礼儀作法を学び、特権階級の夫に仕えて子を成せば、女としての務めは立派に果たしたとされる。
レイヴは鼻を鳴らした。
「どう考えても、おまえはその枠には収まらないだろ。それにアドリアンは、ガキは趣味じゃなかったはずだ」
「もう、そうやって子ども扱いしないでってば。でも、そうだね。アドリアンはわたしをそういう目で見ることはなかったよ」
言葉とは裏腹に、エルの頬には笑みが浮かんでいた。
エルがアドリアンの名を口にするときは、絶大な信頼と、弱みもすべて見せたことのある相手という空気が伝わってくる。
「アドリアンの病気がわかったのが、ちょうど一年前。その時にまず『妻』という立場になった。あのひとが亡くなった後に継承権を確実にするためにね」
「回りくどい真似してるな。そこまでして、おまえを後継者にしたかった理由はなんなんだ?」
沈黙が落ちる。
エルとカシアンの間に、言葉にしがたいものが流れるのを感じ取って、レイヴは小さく息を吐いた。
エルはまだすべての手札を見せてはいない。
本来であれば理由を問いただしても良いはずだった。
なのに、なぜかそうする気になれない。
エルが私利私欲のために自分を利用しているとは到底思えない。
何かほかに理由があるのだと、レイヴの勘が告げていた。
「……ほらよ」
署名を終えた契約書を差し出すと、カシアンはそれを恭しく受け取った。
そして含むような視線を残し、そのまま退室する。
「……?」
眉を顰めたところに、エルが気まずそうに告げる。
「婚姻契約の履行には、魔力の交換が必要になるけど……いい?」