表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/50

E04-01 契約書

空中庭園を後にした三人は、長い回廊を抜け、大公の執務室へと足を踏み入れた。


執務机にはすでに契約書が用意されており、レイヴの前にすっと差し出される。


用意周到もここに極まれり、である。


「じゃあ、これに署名してね」


高天井に嵌めこまれた水晶硝子クリスタル・ガラスの窓から、柔らかな陽光が降り注ぐ。


その光が、エルの銀糸のような髪に反射し、きらきらと舞うように散った。


「もう一度聞くが、本気か?」


低く放たれた問いに、エルは一瞬たりとも目を逸らさない。


紅玉を思わせる薔薇色の双眸が、まっすぐレイヴを射抜く。


「もちろん」


深いため息とともに、レイヴは契約書に目を落とした。


魔術式が組み込まれた『婚姻契約の書』。


縁には精緻な文様が施されており、それ自体が淡く発光している。


婚姻時に契約を交わすことがあるとは聞いていたが――

この魔術式の構造は、どこか妙に複雑で、見慣れない。


(……まあ、婚姻契約なんざ初めてだし、こういうもんなのか?)


一瞬の疑念を飲み込み、レイヴは内容を確認する。


だが、書かれていることも普通ではない。


魔術師であれば垂涎ものの貴重な触媒素材に、希少鉱石。


上位精霊結晶に至るまでが報酬の欄に明記されている。


さらには、金貨オーラム五百枚、極上の宝石類、名工の鍛えた魔術具や武器――


財宝と呼ぶに相応しい品々がずらりと並ぶ。


そして、ひときわ異彩を放つ最後の一行。


「甲・魔術師レイヴは、乙・ノーラ公国第七代・大公エルシア=ノーラを妻とすること」


「そう。この中でいちばん良いところでしょ?」


「どこがだよ……」


「ほかに欲しいものがあれば追加していいよ。あと、期間はとりあえず三年でいいかな?」


「長い」


エルが反論するより先に、カシアンが口を挟んだ。


「申し訳ありませんが、そこはご辛抱ください。殿下は父の喪に伏しており、一年ほどは再婚ができません。その前に戴冠式も控えておりますし……。諸侯の反発を抑えるには、本来であれば五年はほしいところです」


レイヴは眉をひそめ、再び契約書へと視線を戻す。


「ってことは、この契約が有効になるのは、戴冠式の後ってことか?」


「はい。こちらの補足事項にございます」


カシアンが別紙を手渡す。


そこには、これよりエルの戴冠式までは婚約期間となる旨、レイヴは王配の立場となり、実権はすべてエルにあることなどの詳細が記されている。


どこまでも周到なことである。


レイヴはペンを持ち直した。


署名する寸前、ふと思いついたように口を開く。


「――で、アドリアンとは寝たのか?」


その場の空気が一瞬固まる。


腹芸の得意なカシアンでも、突然の質問に返答がほんの一拍遅れた。


エルは否定とも肯定とも取れない表情になる。


それだけで十分である。


レイヴは喉の奥でくつくつと笑った。


「やっぱりな。アドリアンとも契約結婚だったわけだ」


「……どうして、そう思ったの?」


「わからいでか。あいつのこと話すとき、なんかこう――『お父さん』って感じなんだよな」


エルは吹き出した。


「鋭いなぁ!かなわないよ。まあ、魔術師さんにはもとから隠す気もなかったんだけどね。そう、アドリアンはわたしにとって父親がわりだったの」


先の大公アドリアンは享年四十七。


息子カシアンとのほうが年齢的にはよほど釣り合っている。


それなのに、わざわざエルと結婚したことが、レイヴにはずっと引っかかっていた。


何より、エルからは亡き夫への思慕の気配が微塵も感じられない。


「だから、わたしとカシアンも兄妹みたいなものだよね」


「少し強すぎる妹ですが、まあ、可愛いところもありますよ」


カシアンが苦笑しながら付け加える。


「若さと美貌を売りにした平民の娘が、王侯貴族に見初められるというのは、ままある話ではありますが……」


「そうそう。一年前に結婚したときなんて、『これほどの名誉に恵まれるとは、なんという幸運の持ち主なのでしょう』って、いろんな人に言われたよ」


元の身分がどれだけ低かろうと、奥殿で礼儀作法を学び、特権階級の夫に仕えて子を成せば、女としての務めは立派に果たしたとされる。


レイヴは鼻を鳴らした。


「どう考えても、おまえはその枠には収まらないだろ。それにアドリアンは、ガキは趣味じゃなかったはずだ」


「もう、そうやって子ども扱いしないでってば。でも、そうだね。アドリアンはわたしをそういう目で見ることはなかったよ」


言葉とは裏腹に、エルの頬には笑みが浮かんでいた。


エルがアドリアンの名を口にするときは、絶大な信頼と、弱みもすべて見せたことのある相手という空気が伝わってくる。


「アドリアンの病気がわかったのが、ちょうど一年前。その時にまず『妻』という立場になった。あのひとが亡くなった後に継承権を確実にするためにね」


「回りくどい真似してるな。そこまでして、おまえを後継者にしたかった理由はなんなんだ?」


沈黙が落ちる。


エルとカシアンの間に、言葉にしがたいものが流れるのを感じ取って、レイヴは小さく息を吐いた。


エルはまだすべての手札を見せてはいない。


本来であれば理由を問いただしても良いはずだった。


なのに、なぜかそうする気になれない。


エルが私利私欲のために自分を利用しているとは到底思えない。


何かほかに理由があるのだと、レイヴの勘が告げていた。


「……ほらよ」


署名を終えた契約書を差し出すと、カシアンはそれを恭しく受け取った。

 

そして含むような視線を残し、そのまま退室する。


「……?」


眉を顰めたところに、エルが気まずそうに告げる。


「婚姻契約の履行には、魔力の交換が必要になるけど……いい?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ