E01-01 プロローグ―婚姻契約―
※初日は数話連続で投稿予定です。
「じゃあ、これに署名してね」
男の前に一枚の契約書が差し出される。
それを手にしているのは、絵画の中から抜け出たような世にも美しい少女だ。
高天井に嵌めこまれた水晶硝子の窓から、執務室に柔らかな陽光が降り注ぐ。
少女の銀糸のような髪に光が反射し、きらきらと舞うように散った。
「もう一度聞くが、本気か?」
低く放たれた問いに、少女の瞳がまっすぐ男を射抜く。
紅玉のような薔薇色の双眸には、一切の迷いはない。
「もちろん」
深いため息を吐いて、男は契約書に目を落とす。
魔術式が組み込まれた『婚姻契約の書』。
縁には精緻な文様が施されており、それ自体が淡く発光している。
婚姻時に契約を交わすとは聞いたことがあるが、この魔術式の構造は、妙に複雑で見慣れない。
しかも、その内容も普通ではない。
報酬の欄には魔術師であれば垂涎ものの貴重な触媒素材、希少鉱石、上位精霊結晶に至るまでが列挙されている。
さらには、金貨五百枚、極上の宝石類、名工の鍛えた魔術具や武器――財宝と呼ぶに相応しいありとあらゆる品々が糸目なく羅列されているのだ。
それらすべてが、たった一枚の紙切れへの署名によって手に入ることになる。
破格にもほどがあるというものだ。
しかし問題は、契約書の最後に書かれた一行だった。
「甲・魔術師レイヴは、乙・ノーラ公国第七代・大公エルシア=ノーラを妻とすること」
「そう。この中で一番良いところでしょ?」
にっこりと微笑む少女こそ、次期大公エルシアその人だ。
男――レイヴは「どこがだ!」と机を叩きそうになる衝動を押さえ込み、無言でペンを握り直した。
「婚姻契約の術式の発動には、魔力の交換が必要になるけど……いい?」
魔力の交換には様々な方法があるものの、婚姻契約の場合は通常、口吻で媒介する。
「おまえこそいいんだろうな?」
「だから、もちろんだってば」
署名を終え、レイヴの琥珀の瞳が少女を見据えるとエルは身動ぎした。
はあ、とレイヴは頭を掻いた。
「全然、覚悟できてないじゃねぇか。まったく、お子様のお守りかよ……」
「子供扱いしないでくれる?……ねぇ、早く済ませよう?」
そして、唇が触れたのは一瞬。
だが魔力が流れ込んだその瞬間、胸の奥がわずかに熱を帯びた。
触れた唇の感触が、驚くほど長く残る。
それは術式を起動させるだけの行為に過ぎないのに、なぜか心臓がうるさく鳴った。
「……これで契約成立だな。後悔してないだろうな?」
陶器のような白い肌を上気させたエルは、胸を抑えながら、潤んだ瞳のまま男を見上げた。
「……当たり前でしょ」
「よく言うぜ……まったく」
そう言いながら、自身の鼓動が早くなっていることにレイヴは気づかぬふりをする。
「何やってるんだか、俺は」
一体、なぜこんなことになったのか――?
レイヴは数日前運命が狂い始めたその瞬間を思い起こしていた。