第三話 戯言か
◆作中の単位
・寸:約3㎝
・尺:十寸。約30㎝
・貫:約3.75㎏
酉の刻が迫り、鴨川を吹き過ぎる風はますます冷たさを増した。朱とも金ともつかぬ光を帯びて揺らめく水面へ向けて、正近は手近な小石を拾って投げた。氷の張った岸辺を越えて、石は流れのただ中で飛沫を上げ、それきり見えなくなる。正近はそれを眺め、そしてまた石を探す仕事に戻った。地蔵の頭のように丸い石を拾ってはまた棄て、冷たい川風の吹きすさぶ河原をとぼとぼと歩く。まばゆいほどの光を放ちながら五条の橋の上へと落ちていく夕日に目を細め、正近は足を止めた。そういえば、母が身を投げたのはこの辺りであったらしい。清水寺の急な参道を、坂の傾きに誘われるままふらふらと下り、擦り切れた草履の片方が脱げ落ちても構わぬ様子であったと、あとで百姓女が言ったそうだ。
「仏は常にいませども、現ならぬぞあはれなる……」
川べりを歩きながら、母はこの今様を口ずさんでいたという。故人に倣ってかすかに歌いながら、正近は足を引きずってさらに数歩進み、爪先に触れた丸い石を拾い上げた。何かで包めば、正近の拳くらいにはなりそうな大きめの石だ。それを二つほど拾った彼は草履を解いた縄を巻きつけ、石の肌が見えぬほどに覆った。打ち捨てられた木簡の切れ端をそれに括り付け、小刀で文字を刻み込んでいく。『平清盛』『平重盛』とそれぞれ刻み終えた正近は石を懐に入れ、右手に長い影を引きずりながらまた歩きだした。鴨川の水を吸った母の単衣の生臭いにおいと、懐から落ちた重石の戸板を転がる音が、彼の後ろを延々とついてきた。
◆◆◆
鞍馬に戻った正近は托鉢姿のまま、遮那王を捜して境内を巡った。今日も本堂の前では僧兵たちが長刀の修練をしており、そこに遮那王の姿はない。正近はあっさりとそこを通り過ぎ、僧正ガ谷へと続く暗い杉林の坂を上った。黄昏時の林はかなり暗く、まだ金色を帯びた夕空の下に濃い闇が沈殿していた。その闇の奥から、木切れで生木を殴るような乾いた音がかすかに、だが絶え間なく聞こえてきた。正近はほの白く輝く積雪を灯明代わりに、疲れを感じさせない足取りで山道を進んだ。蛇行する細い道を曲がったところで急に人影が前から飛び出し、正近はその者と正面からぶつかった。
「あ、失礼」
「ああ、こちらこそ、正門どの」
おどおどとした様子で挨拶を返してきたのは、遮那王の世話役をしている和泉という僧だった。ひょろりと痩せた彼がよろめいたところを掴まえて、正近は和泉がぬかるみに足を突っ込まないよう道の方へと引っ張った。助け上げられた和泉は安堵の息をつき、正近に合掌してみせた。
「ありがとう存じます。……托鉢にお出でになったきり、お戻りが無いので何事かあったのではと」
「それは、お騒がせいたしました。一条の辺りで草鞋の紐が切れたもので、近くの軒先を借りて修繕を。……あの、和泉どの。その傷は」
正近が指したのは、肉の薄い和泉の頬に走った蚯蚓腫れのひっかき傷だった。血の固まりかけた傷は、まだ新しい。指摘された和泉は恥じるように傷を手拭いで覆い隠し、気弱そうな笑みを血色の悪い口元に滲ませた。
「今日は遮那王様のご機嫌が特に悪いようで……、あちらの、ご神木の影においでです。正門様をお待ちになっているようでしたので、お早く」
「かたじけない」
正近は合掌し、和泉の指した杉の大木の方へと小走りに走った。枝で木を殴る音が一足ごとに近くなる。正近は持ち主の苛立ちを表すような音を聞きながら、昨日と同じ杉の大木の間に分け入った。その足音に気づいたらしい遮那王がいちど動きを止め、正近を振り返ったその直後、脅しつけるように背後の木を殴った。甲高く乾いた音と共に枝が折れ、飛んできた木屑が正近の袖を掠めた。立ち止まった彼の正面に、ぎらついた一対の目が立ち塞がる。こちらの顔も殆ど見えていないはずだが、遮那王はまっすぐに正近を見返し、怨念を煮詰めたような怒声を上げた。
「遅い! いつまで待たせる気だ」
「申し訳もござりませぬ」
正近は背負っていた荷物を脇に置き、地面に膝をついた。遮那王は枝を放り捨て、正近に詰め寄ってその胸倉を掴んだ。
「どうせ俺には出まかせを申しておいて、遊び女の所にでも行ったのであろう。やはりお前の言うことなど信じるのでは無かったわ!!」
「遮那王様に、お方様よりのご餞別を預かって参りました」
遮那王をまっすぐに見返したまま、正近は淡々と答えた。はじめ遮那王は何を言われたか分からず、目と口を開けっぱなしにして動きを止めた。しだいに正近の襟元を握った拳が震えだし、細かく震える息遣いが聞こえた。正近は闇の向こうにある遮那王の両目をまっすぐに見据えたまま、脇に置いた太刀の布包みを手元に引き寄せ、結び目を開いた。
「亡き左馬頭様ゆかりの袿をご下賜くださりましたので、それを元手に東市にて太刀をもとめて参りました。この二振りは稽古の為に、そして来月、拵をしたひと振りを受け取りに参りまする」
金属の擦れる音を聞いた遮那王の影が下を向き、正近にかかる指の力が緩んだ。正近は手早く火を灯し、その明かりで太刀を照らして見せる。遮那王は太刀を見下ろして何度か瞬きをしたのち、急に我に返って正近を問い詰めた。
「それで、母上は何と」
見栄と臆病、愛着と軽蔑。少年の瞳は灯火よりもよく揺れる。浅くせわしない吐息を繰り返し吐く薄い唇は、哀れなほどに青ざめていた。正近は答えを聞いた少年がどのようになるか知っていて、あえて淡々と答えた。
「お方様におかれましては、これを最後に、二度と一条の屋敷に参上することまかりならぬと。次は検非違使に訴えると」
「あの鬼婆ぁ!」
正近が言い終える前に遮那王は彼を突き飛ばし、土塊が舞い上がるほどに地面を蹴りつけた。凍った土に手をついた正近は何事も無かったかのように体勢を立て直し、無表情のままもとの場所に控えた。遮那王は正近の様子にはまるで気づかず、己が蹴り荒らした足元を睨んだままこれまでの鬱憤をぶちまけた。
「どうせ一条の跡取りが生まれたゆえに、前の夫の子を厄介払いしたいのだ。里に居た頃から、何事かあればいつも俺のせい。検非違使だと? 訴えられるものならやってみろと言うのだ! たかが雑仕女上がりが、源氏の御曹司の俺にでかい口を叩きおって!!」
恨み言のひと言ずつが暗闇に反響し、杉の清げな香りをまとった夜気を震わせて消えた。正近は遮那王が疲れるまで喚かせておくことにして、懐に手を入れた。縄で包んだ石二つは、僧衣の下でまるで晒し首のように静かに並んでいる。その手触りを確かめた正近は、再び顔を上げた。肩で息をしている遮那王は、まだ掠れ声で母への呪詛をぶつぶつと呟きながら、しつこく殴って露出した杉の木肌を泥塗れの草鞋で蹴りつけた。反動で蹈鞴を踏んだ遮那王に、頃合いを見た正近は声をかけた。
「お気は鎮まりましたか」
「はあ、っ、鎮まるわけがない。あのあま、殺してやる。あのぼろ屋敷に火を点けて、端女まで皆殺しだ。死体は裸にひん剥いて大路に晒し、末代までの恥をかかせてやるのだ」
遮那王はこめかみを伝う汗を手の甲で拭い、正近を睨み返した。火明かりを映した瞳にはまるで火花が散っているようだったが、睨みつけられた正近は平然として答えた。
「そのようなことをして何になりましょう。家柄のない女性の懐事情は夫の器量と情しだい。お母君が遮那王様をどのようにお思いであろうと、どのみち旗揚げの足しにはなりませぬ。源氏の御曹司ならば、道理をお弁えなされませ」
「道理なぞくそくらえだ。俺の心持ちはどうなる。生みの母からしかめっ面で顔を背けられ、事あるごとに『お前さえ居らねば』と言われて生きてきた不幸が、お前などに分かるか」
少年の叫びは、心ある者が聞けば『血を吐くようだ』と思うようなものだったかもしれない。だが正近の心とやらは、とうの昔に鬼に喰われた後だった。正近は立ち上がり、遮那王を無表情に見下ろした。
「恐れながら、さようなことは不幸のうちにも入りませぬ。母とはそうしたもの」
己が聞いても冷淡と思うほどの声音で正近が答えると、言われた遮那王は夜目にも分かるほどに震えだした。彼は一歩踏み出すと、闇に浮かぶわずかな輪郭を頼りに正近に掴みかかろうとした。
「正近、いま何と言った」
だが正近にとって、その手を逃れることは赤子の手をひねるようなものだ。体をかわしざまに足払いをかけると、遮那王の小さな体は面白いほどに転がる。正近は少年を助け起こしもせず、縄にくるんだ石を近くの木の枝に一つずつ吊り下げた。それぞれに『平清盛』『平重盛』と刻まれた札の文字から影が立ち上り、亡霊のように揺らめいた。正近は遮那王が身を起こすのを待ち、その顔に滲んだ怯えの色を静かに確かめた。
「母に疎まれたなどという繰り言は、男子の申すことにあらず。親に要らぬと言われたならば、世の中に求められるお方となりなされ」
「……世の、なか」
子供を操るには、怯えと戸惑いの中にいるうちが好機だ。正近は吊るした石を指し、遮那王の耳にゆっくりと毒を流し込んだ。
「いまこの国は、平家のために乱れに乱れておりまする。左馬頭様亡き後の平清盛の暴虐は、秦の趙高、漢の王莽もかくやという有様。平家を滅ぼし、百姓の愁いを除かば、これまで遮那王様を侮ってきた者どもは皆、ひれ伏してあなた様の御気色を窺うこととなりましょう」
正近の話は、彼が京の町で見聞きしたこととはまるで違っていた。だが正近にとっては大したことではない。政の良し悪しなど、きっと遮那王にはどうでも良いことだ。その証左に、憎い者を見返せると聞いたその時から、少年の目の色が明らかに変わった。
「あなた様の敵は清盛、そしてその傀儡たる平重盛の両名のみ。たかが雑仕女上がりのお母君など、いっそ捨て置かれませ」
正近は灯火を地面に置くと、持ち帰った太刀の鞘を掴んで片方を遮那王に放り、自分は残った片方を構えた。鞘の下から現れた刀身は歪に欠けて錆まで浮いていたが、稽古用としてはちょうど良い。幼い頃から手の皮に刷り込んできた太刀の重さを両手に感じながら、彼は木に括り付けた二つの石を背に、太刀を正面に構えた。淡く月明かりを弾く刃の先で、放られた刀を受け止めた遮那王がゆっくりと立ち上がるのが見えた。
「平家を討つには、遮那王様が大将のご器量であると天下に知らしめねばなりませぬ。金策については吉次どの、遮那王様のお暮らしについては別当はじめ鞍馬の方々が受け持っておられますので、正近は弓馬のことをお教えいたしまする。まずは私を平家の雑兵と思うて、打ち込んで来なされ」
正近に促されて、遮那王はおっかなびっくり鞘を引き、覗いた刀身を目にした。長刀を構えることもままならぬ非力な遮那王は稽古では爪はじき者で、蔵に残った古い刀を盲滅法に振り回しては僧兵たちの袋叩きに遭っていた。たしかに戦で役に立つのは長物の方だが、これほど聞かん気の遮那王には、まずやりたいようにやらせるのが良いだろう。遮那王は何度か助けを求めるようにちらちらと正近を見たが、彼が助け舟を出さぬと分かると太刀を頭上に大きく振りかぶり、こちらに突っ込んできた。正近は体をかわしざま、刀の峰でがら空きの少年の胸を叩いた。遮那王は刀を振り下ろしきらぬまま崩れ落ち、地面に這いつくばって繰り返し咳き込んだ。
「ごほっ、っ、ぁ……」
「立ちなされ。目が潰れようと腹から血が噴き出そうと、立てねば死ぬるのみ」
「っ、かはっ、この……っ!」
遮那王はまだ咳き込みながら身を起こし、近くに落ちた刀を手さぐりに拾って再び正近に突きかかった。正近はその無防備な手元を脇に挟んで動きを封じ、少年の腹に膝蹴りを入れた。手心は加えたが、それでも大人の男の力だ。遮那王は低く呻いてその場に膝をつき、背を丸めて胃液を吐いた。その後も何度かえずく少年の背を、正近は冷然と見下ろした。
「遮那王様と正近では、背丈で五寸、目方で四、五貫は違いましょう。そのような敵に闇雲に打ちかかってどうなさる」
「うるさいっ!」
遮那王はとっさに怒鳴り返し、また何度か咳き込んだ。だが彼は己に喝を入れるように膝をいちど拳で殴り、取り落した刀を拾って正近に刃先を向けた。おやと思った正近は、構え直した刀の切っ先をわざと右に反らしてみる。あやまたず、遮那王はそのわずかな隙に打ちかかった。力は無いが、目が良く、足も速い。鍛えようによっては使い物になるやもしれぬ。これからの算段を立てながら、正近は打ち込まれた刃を左手の太刀で受け、右腕を伸ばして少年のこめかみを打った。頭が揺れて横倒しになった遮那王が薄目を開き、恨みがましそうに見上げてくるのを放っておいて、正近は少年をゆっくりと抱え起こした。
「しばしお休みなされませ。……遮那王様の手足にいま少し力があれば、正近が右手を空けられるはずも無し。ましてやご元服の後、遮那王様が徒で戦に出ることなどあり得ませぬ。揺れる馬の背にあって、己より一尺も上背のある丈夫と斬り合うことを思えば、おざなりな稽古はできぬはず」
「うるさい、今宵は終いだ……」
擦れた憎まれ口を何とか吐き出した遮那王は頭を押さえ、目を閉じた。正近はやはり無表情のまま、遮那王の震える肩に己の蓑を着せ掛けて抱き上げた。やはり軽い。右肩に少年の肩をもたせ掛け、左手で灯火を拾った正近は、全くの闇に沈んだ僧正ガ谷をゆっくりと東に向かって歩き出した。静かに立ち並ぶ木々の間からは、点在する仏堂を囲んで灯された松明の炎が点々と見えた。他の者らはすでに夕餉も済ませ、各々の部屋に引き取る頃合いだろう。正近は歩みに従ってゆらゆらと揺れる少年の細い手足を視界の端にしながら、曲がりくねった山道に落ちる月光の吹き溜まりを踏んで歩いた。正気を失った母のか細い歌声が、夜風に乗ってかすかに聞こえたような気がした。
『仏は常にいませども、現ならぬぞあはれなる』
遮那王は眠気を覚えているようで、正近の肩を支えにうつらうつらと船を漕ぎ始めた。己の体を預けている男の正体など、この少年には知る由もない。いや、知ったところでどうしようもないだろう。『平家を打倒せずとも源氏の再興は成る』などといった理屈を正近が彼に教えてやることはなく、教えたところで実の母にも見放された遮那王は正近を頼るほかない。そもそも大勢いる左馬頭の息子たちの中で遮那王などに目をつけたのは、側近もおらず後ろ見もなく、一介の僧侶にすぎぬ正近でも思いのままに操れるためだ。ついに眠り込んだ遮那王の頬にかかる後れ毛を小さな耳にかけ、正近は彼を包む蓑の袷を閉じて寒風が吹き込まぬようにした。
(……この世に、仏などおらぬ)
正近は心の中で、吐き捨てた。




