第一話 いますとは
◆作中の呼称
・遮那王:鞍馬寺に引き取られた後の、稚児としての名。
『義経記』では、秘密の剣術稽古がばれて覚日坊へ移された際に牛若から改名
・正近:鎌田三郎正近。法名は正門
・左馬頭:源義朝の官職名
・左兵衛尉:鎌田正清の官職名
・陸奥守:藤原秀衡
・大蔵卿:一条長成。遮那王の母・常盤御前の再婚相手
・六波羅:平家の拠点。
・入道相国:平清盛。太政大臣を引退して出家し、福原京を造営中
・東光坊、ほか〇〇坊:僧侶の住居。後に、高僧が寺院内に作った自分の寺としての性格も現れる
「もし、別当様はおいででしょうか」
山門に分厚く積もった雪を掻き分けていた正近は、溌溂とした男の声に呼ばれて振り返った。直衣姿の男が、門の傍に立っている。正近は箒を傍の壁に立てかけ、彼の方に近づいて行った。
「ただいま、東光坊で写経をしておいでと承っております。……お約束のお客様で?」
正近は男の前に立つと、改めてその顔を見た。貴族か物持ちかと思った烏帽子の下の顔は思いのほか険しく、まるで武士の顔だった。戸惑いを押し隠して合掌した正近に応え、男はしおらしく頭を垂れる。再び顔を上げた拍子に彼はにっこりと笑い、答えた。
「吉次が参りましたとお伝えくだされば、お分かりになります」
厳めしい顔が和らいで、端を上げた大きな口がとたんに人懐こさを醸し出す。己の姿かたちの使いようをよく心得ている者のふるまいだった。男を案内して、正近は別当の居る東光坊へと急ぎ足に向かった。本堂の前庭では、僧形の男たちが長刀の稽古をしている。荒々しい唸りや雄叫び、打ち合わされる柄と刃の間を通り過ぎ、急な斜面に埋め込まれた石段を駆け上がって、僧坊を取り囲む杉の木立に飛び込む。随従を引き連れた客人を置いて、先に行くのにはわけがあった。今日の別当の世話係は遮那王だと、ゆうべ和泉から聞いていたのだ。案の定、凍った雪で滑りやすい石段を半ばまで上ったところで、木の幹を殴る甲高い音がくり返し正近の耳に届いていた。残りの石段を上がり、僧坊に至る階の脇を覗けば、童水干の稚児が一人、木刀を振り回して杉の幹にしつこく切りつけている。神々しい大木の木肌は、剥げて疵だらけになっていた。正近は顔をしかめてその稚児に何度か声をかけたが、少年は振り向きもしない。止む無く正近はその肩に手をかけ、木刀を握った細い手首を掴んでこちらを向かせた。
「遮那王様、お客様がお見えです。吉次様と仰せられる方が。別当にお取次ぎくだされ」
「放せ」
遮那王は正近の手を振り払い、己よりも四、五寸高いところにあるその目を睨みつけた。正近は意に介さず、へそを曲げた少年の眼光を見返した。
「別当のお世話が、本日のお務めでございましょう。急ぎお取次ぎを」
「俺に指図するな。お客様だと? 金売りの吉次風情にへいこらして、貴様それでも武士の子か」
遮那王は地面に唾を吐き、木刀を放り捨てて階を上がって行った。正近はその背を見送り、投げ出された木刀と、脱ぎ散らかされた草履を順に拾った。それらを客の目に触れぬ物陰にどけた時、石段の向こうに吉次の烏帽子が見えた。正近は客人の許へと駆け戻り、雪で滑った年嵩の男へと手を差し出した。
「失礼いたしました。新参の稚児が掃除を済ませたか、確かめておりましたので」
「いや、久方ぶりにこちらへ参りましたが、やはり鞍馬の山は険しい。さすが多聞天のおわす霊山ですな」
吉次は弾んだ息を吐き出し、正近の手を借りて最後の段を上った。握った手に力が込められた拍子に、小指の付け根に残った固い胼胝が触れる。正近がわずかに目を見開いたことに、吉次が気づいた様子はなかった。正近は客人を坊に招き入れ、板敷の床に畳を重ねて座らせた。
「すぐにご案内いたしますので、しばしこちらで火鉢をお使いください」
「かたじけない。今日はとりわけ冷えますのでな」
手早く室礼をした薄闇の中に、火鉢の炭が赤く光る。そこに翳した手を揉み合わせ、人心地ついた吉次の両目が改めて正近を向いた。親しみやすい笑顔にも関わらず、品定めしてくる眼光はぞっとするほどに冷たかった。
「はあ、極楽極楽。……ところで、上人様は近ごろ鞍馬においでになったのでしょうか。失礼ながら、お目にかかるのはこれが初めてかと」
「実は、私は四条室町の寺の者で、正門と申します。こたびは別当のご厚意に甘えまして、こちらの冬安居に加わりました」
正近は用心深く答え、吉次の様子を窺った。手に剣胼胝を持つ商人などどう考えても只者ではない。正近の答えに何度か頷き、吉次はおもむろに袂に手を入れた。そこから出てきた錦の袋から、じゃらりと銅の擦れる音がした。
「それはそれは、お若い方が殊勝なお心がけですな。上人様、こちらは私が奥州の砂金を商った銭の一部でございます。どうぞ、四条にお戻りの暁には、ご本尊の供養にお役立てくださいませ」
錦の袋が床板を滑って手元に届く。正近は深々と頭を下げ、合掌してそれを手に取った。錦の布越しに、一貫文では済まないと思われる銭の重さが伝わった。押し頂いて銭を懐に収めた正近をじっとりと見つめて、吉次はまた頷いた。几帳を足で蹴り払った遮那王が、立ったまま客人を呼びつけたのはその時だった。
「おい、吉次。別当が会うと言うておる。さっさと来い」
「お……おお、それはどうも。いま参ります」
「大変失礼いたしました。あとでよくよく言い含めますので。まずはこちらへ」
戸惑って顔色を白くした吉次に慌てて詫びを入れ、正近は立ち上がった。客人の為に几帳をどけた彼は遮那王とすれ違いざま、声を潜めて少年を叱りつけた。
「無礼ですぞ」
「俺は左馬頭の子なのだろう。たかが商人ごときになぜ媚びねばならぬ」
遮那王は口を歪めてそう吐き捨てた。正近はもう何度目か分からぬため息を飲み下し、その脇を通り過ぎた。
◆◆◆
吉次の訪いを別当はことのほか喜び、茶と菓子を出して丁重にもてなした。吉次は慣れた様子で餅に張り付いた椿の葉を取り、頬張って茶を啜る。その合間に随従が別当へと漆の盆を差し出すのを目で追いながら、正近は退出の頃合いを計っていた。余所者が布施のやり取りの場に居座るのは、三方ともにきまりが悪い。だらだらとここまで付いてきた遮那王を連れ帰ろうと、正近は別当に目配せした。だがその返事は意外なものだった。
「いや、三郎どの。そなたもご挨拶なさるがよい。これなる吉次どのは陸奥守様の使いで、たびたび鞍馬へご寄進をして下さっておる。源氏再興にも欠かせぬお方だ。遮那王をこれへ」
「ははっ」
三郎、と呼ばれた正近は口調を改め、武家らしい機敏な仕草で立ち上がると、柱の陰にだらしなく座った遮那王の腕を取り、部屋の中央へと引きずってきた。手向かいする間もなく別当と吉次の間に押し出された遮那王は、やむなくその場に胡坐を組んで頬杖をつく。正近はその後ろに座り直し、別当と吉次の顔を交互に盗み見た。眉根を寄せた別当も、牛馬を値踏みするように眺める吉次も、表立っては何も言わない。だが彼らの気色に滲む色合いを、正近は確かに見てとった。別当は気を取り直し、まず吉次に正近を紹介した。
「吉次どのは、三郎どのにお会いになるのは初めてであったな。俗世にあっては左馬頭様の乳母子、鎌田左兵衛尉どののご子息であられたお方だ。寺の者らは『正門どの』とも『四条の上人』ともお呼びしておるが、東光坊においては、三郎どのと」
「正近にござりまする。以後、お見知りおきを」
「おお、そういうことでしたか。僧兵どもの稽古に加わらぬのに、手に剣胼胝がおありでしたからな。立ち居振る舞いといい、たしかに只のご出家ではない」
吉次の言葉に恥じ入ったように顔を伏せながら、正近はひやりとした。石段で手を貸した時に勘づかれたか、それとも布施を受け取った時か。なるほど奥州の間者は油断ならない。その間に吉次はいざって茵を降り、少しばかり大仰に哀惜を示した。
「別当様が左馬頭様のためにご祈祷をなさっていたご縁で、左兵衛尉どのには何度かお会いしたことがございます。忠勇を兼ね備えた、ご立派な武士であらせられました。……まさか、お父君があのようなことになろうとは」
「……武門の、習いにござりますれば」
正近は口の端だけにごくかすかな笑みを滲ませた。別当は数珠を手繰り寄せ、吉次は袖で目元を押さえた。声変りの掠れを残した大仰な溜息が、やおらその神妙さを火鉢のぬくめた空気ごと消し飛ばした。
「こやつの父は弱かったゆえ死んだのだ。男のくせに酒が飲めず、酔うて騙し討ちに遭うとは情けない。俺ならそのような死に方はせぬ」
「遮那王、それが元服間近の男子の申すことか。配下の死にようを嘲笑う将に、付き従う者などおらぬぞ」
「子供騙しはよせ。血筋がよく強ければ何をしても許されるゆえに、平家がのさばるのではないか。俺は源氏の棟梁の子で、こやつの主君だ。それより他に言うべきことがあるか」
別当に言い返した遮那王は肩越しに正近を睨み、何の口答えも返ってこないところを見て己の勝ちと思ったようだ。得意げに頬をゆがめた遮那王には目もくれず、正近は他の二人に目を向けた。
「して、吉次どの。陸奥守様のご意向は」
「そろそろ遮那王様もご元服のお年頃であることを書き送り、ただいま主の返事を待っております。しかしあいにく、家中にいささか不穏の気配があり、文が参るにはいましばらくかかるかと」
「どうしたものか。六波羅への申し開きのことを考えるなら、遅くとも次の正月には遮那王を受戒させねば道理が通らぬ。奥州からの文が参るまで、いずこかに遮那王を隠さねば」
別当は禿頭を抱え、吉次は眼を瞑って沈黙した。正近は年長者二人の顔色を窺いながらも、肚を決めて言葉を重ねた。
「では正近が遮那王様を拐かしたことにして、山科へお連れいたしましょう。源氏にゆかりのある醍醐寺も近く、また街道から奥州に下ることもたやすくなりまする」
「それは有難いが、三郎どの。そなたの里に類が及ぶことにはなるまいか」
「妹は京を出て、鎌田の祖父の許に居りまする。今の正近は気楽な身の上にて」
蔀戸の格子を塞いだ御簾から雪明りが差し込み、思案に暮れていた男たちの眼に光の点を打った。彼らにとって願っても無い申し出だと、正近は分かっていて言ったのだ。彼は身を乗り出し、交換条件のようにして続けた。
「それよりも、案ずるべきはご元服のことかと。お父君のない遮那王様には、何としても奥州に下る前に、良き烏帽子親を付けねばなりませぬ。こればかりは、若輩者にはいかんともしがたく。別当、吉次どの、どなたかお心当たりはござりませぬか」
京に居るうちに、奥州と渡り合える後見を遮那王につける。源氏再興を本気で願うのなら、反論するはずのない提案だった。正近は体の底からこみ上げる震えを抑え込み、年寄りどもの返事を待った。まず答えたのは吉次だった。
「さて、吉次のような田舎者には、そのような伝手はとても。三郎どの、遮那王様のご元服のことはわが主が何より案じておりましょう。どうぞ安んじて、返事をお待ちくだされ」
正近は唇を噛んで沈黙し、応とも否とも答えなかった。確かに陸奥守の祖父は、遮那王の高祖父の力添えで奥州藤原氏の長となった。遮那王の継父である大蔵卿は陸奥守の遠戚で、奥州とも縁がある。だが、奥州が旧年の恩義のみで遮那王に近づいたと思うのは、いささか夢想が過ぎるだろう。正近は助けを求めて別当に目を向けた。別当は曖昧な笑みでそれを受け流した。
「吉次どのが正しかろう。いま入道相国の面前で源氏の子を元服させようなどと、大それた企みに付き合う者はおらぬ。三郎どの、やはり奥州からの文を待とうではないか」
「……かしこまりました」
鞍馬は遮那王を担ぎ上げて、平家と事を構える気は無い。正近は先ほどとは違う震えが、胃の腑の底で煮えたぎるのを感じた。このままでは遮那王は、奥州で飼い殺しにされる。所領でわが世の春を謳歌する為に、陸奥守は隣り合う関東へ、いつでも打てる手駒がほしいのだ。最も安い値で手に入りそうな駒が、後ろ盾のない子供にすぎぬ遮那王。裸一貫で奥州に下ったが最後、遮那王は源氏再興を手掛けることはあるまい。
「俺は奥州などには行かぬぞ」
いきなり遮那王が言い放ち、別当の脇息が床を引っ掻いた。正近が顔を上げると、遮那王は身を乗り出して別当と吉次を睨み上げていた。とっさに言葉を返せぬ大人たちへ、遮那王はさらに言い募った。
「白河の関の更に向こうだと? 蝦夷の住まう未開の地ではないか。かような所に下って、いったい何をしろというのだ」
遮那王は血の熱くなったままに床を拳で殴り、脅しつけるようにしてまた二人を睨んだ。細かく爆ぜる火鉢の炭を除いて静まり返った室内に、少年はまた己が勝ったと思っていることだろう。だがそれは、状況をひっくり返されるための沈黙だった。脇息についた肘を上げて、別当が手を叩く。現れた別の稚児に、別当は静かに命じた。
「覚日をこれへ。弟子への教導が足らぬようだ」
「くそ爺! 都合が悪いとすぐ覚日だ、その禿げ頭かち割ってやる! いいか、俺は奥州のような地の果てには決して行かぬからな!」
「遮那王様、御免」
別当に掴みかかろうとした遮那王を、正近は取り押さえた。腕の中で暴れる少年の体は、十六という年頃を抜きにしても細く小さい。その手足を無茶苦茶に振り回す遮那王の腕を纏めて脇に挟んだ正近は、何度も脛を蹴られながら少年を床に押し倒し、体重をかけてその胸にのしかかった。大人の体に押し潰された小さな体はたちまち軋み、遮那王は息を詰まらせて呻き声を上げる。正近が体をどかすと、少年は床に這いつくばって激しく咳き込んだ。ちょうどその時、几帳を蹴り倒すような勢いで現れた大男が手を伸ばし、まだ咳き込むその襟首を捕まえた。
「別当様、またこやつが不始末でもしでかしましたか」
「少しばかり行儀を忘れておるようだ。思い出させてやりなさい」
「うっ……いやだ、はなせ」
「かしこまりました」
「嫌だ、俺は何もしておらぬ! 因業爺め、じきに殺してやるから覚えておれ!!」
無理やり立たされた遮那王は身を捩って逃れようとしたが、覚日は少年の髪を掴んで床に引き倒し、両の足首を捕らえて歩き出した。遮那王は床板の隙間に爪を立てて抗おうとしたが、覚日はものともせずに彼を引きずって坊を出て行く。二人の姿が妻戸の向こうに消えた後で、殴打の音と少年の金切り声が聞こえた。それを最後に、室内はしんと静まり返った。
「……山猿めが。左馬頭どののご子息でなければ、とうに破門しておる」
別当の心底うんざりしたような呟きを、正近も吉次も聞かなかったふりをした。正近は恐縮して顔を伏せ、床板の継ぎ目を睨んだ。
「夏安居の頃にご出自のことをお伝えしたのは、私の軽挙でござりました。里のお母君に文を送り、諭して頂くように」
「里の方にはとうに見限られておる。宿下がりのたびに悶着を起こし、実の母君から二度と敷居は跨がせぬと言い渡されたそうな。大蔵卿より直々にご寄進を頂いた手前、追い出すわけにも行かぬし、難儀なことよ」
別当が茶を啜る間、吉次は少し黙って外の雪景色を眺めていた。杉の枝に積もった雪が滑り落ちる音を聞いた彼は深く息を吐き、何かを誤魔化すように鬢の上の辺りを掻いた。
「正直なところ、わが主も大蔵卿のてまえ後見を申し出ましたが、あの癇癪にすっかり尻込みしておりまして。我らにとり、遮那王は転ばぬ先の杖のようなものです。杖が人の足を踏むならば捨てるまで。あれの二人の兄のいずれかを還俗させ、奥州へ迎えた方がいくらかましではないかと」
「いやいや、それはさすがに」
「どうか陸奥守様におとりなしを。いま奥州にも見放されれば、遮那王様は僧となるより他にござりませぬ。あのご気性に仏弟子など務まりましょうか」
正近が食い下がると、吉次は半笑いの表情のままゆっくりとこちらを振り返った。両の眼に影が差し、黒目と瞳の境が沈んで見えなくなる。まるで化生の目だ。息を呑んだ正近に、吉次は尋ねた。
「三郎どのは、何ゆえ遮那王に肩入れなさいます。童とはいえ、あのようにお父君を侮られてなおも庇うというのは、吉次には奇怪でなりません」
図星を指されて肺腑が軋んだことを、正近は悟られぬよう肚に力を込めた。汗が背筋に滲んでくる。もはや後戻りはできないことを、彼自身が誰よりもよく知っていた。
「ご承知の通り、私は十一で父母に死に別れました。遮那王様はさらに幼い齢で鞍馬に参られ、寂しい御心を持て余しておいでであると、正近には見えまする。吉次どの、後生でござる。なにとぞ」
本堂の前庭から、さらに熱の入った打ち合いの音が聞こえてくる。おそらく覚日に引きずり出された遮那王は、あの中でさんざんに打ち据えられていることだろう。長刀も太刀も上達は修練次第。小柄な上にやる気にも乏しい遮那王は、精強な鞍馬の僧兵たちにとって毬杖の毬のようなものだ。あとで捜して、息をしているか否かは確かめねばなるまい。正近は手をついた床板から染みてくる冷気の痛みをやり過ごし、吉次の答えを待った。
「三郎どのは、たしかに左兵衛尉どのの子であるな。落ち目の主君を守って尾張まで逃げ延び、果ては死出の山路も踏み越えて。……その忠義が、そなたの命を縮めるもとにならぬかと、この年寄りには案ぜられてならぬ。吉次どの、三郎どのがこれほど申すからには、遮那王にも何か見込みがあるのであろう。私からも頼む」
別当の口添えが聞こえた時、正近は首の皮一枚で望みがつながったことを悟った。吉次は参ったと言わんばかりにゆっくりと頭を振り、腕を組んだ。
「……やれやれ、これは骨が折れますな。私もかなう限り主の機嫌は取りますが、三郎どのにもひとつ大仕事をしていただかねば。せめて半刻は口を閉じておけるように、あの山猿を躾けてくださいませ。あれが主の前では奥州を『蝦夷の地』などと申した日には、私は首を斬られてしまいます」
「ははっ、必ず」
正近は剃り上げた額を床板に打ち付け、吉次に深々と平伏した。勝ったとはこういうことを言うのだと、ここに居ない遮那王に説いて聞かせたいほどだった。法衣の下の単衣にじっとりと滲んだ汗が冷えるのを、正近はどこか心地よいとさえ感じていた。
◆◆◆
酒が運ばれたのを見計らって正近は東光坊を辞し、まだらに積もった雪を踏んで遮那王を捜した。灰色の空にまた細かい雪が舞い始め、凍った土に落ちては染みていく。正近は本堂の前庭をひと通り見て回り、その北側の森へと分け入った。荒い籠目のように組み合った木の根をまたぎ、窪みに積もった雪に爪先を沈めながら、暗い森の奥へ奥へと進む。貴船神社へと続く僧正ガ谷の急な坂を滑り降り、正近は息を弾ませながら立ち並ぶ杉の大木の間を捜した。薄闇に淡く浮かび上がる雪に紛れるようにして、遮那王の白い水干が木の根元に見える。正近は用心深く近づき、丸まった小さな背中に声をかけた。
「遮那王様。手当を」
「うるさい、触るな」
肩に触れようとした正近の手を、遮那王は身を捩って振り払った。その拍子にこちらを向いた顔には痣があり、腫れた唇には血の痕があった。衣に隠れたところはもっと酷いだろう。痛みをこらえるぎこちない動きで幹に縋り、立ち上がった遮那王は、自分を見下ろす正近を睨み上げて吐き捨てた。
「そんな目で見るな。いい気味だと思っておるくせに」
「そのようなことは思いませぬ」
「話はついたのか? 俺は次に誰に押し付けられるのだ。この寺の者どもも、乳母も、母上も、そしてお前も、誰も彼も俺が邪魔でならぬのだ。はっ、遮那王を片付けたと今は喜ぶが良い。奴らの顔は残らず覚えておるからな」
遮那王が口元に滲んだ血を袖で拭うと、掠れた血が紅のように唇を彩り、彼のまだ男になり切れぬ面差しを際立たせた。ふらついた遮那王の肩を支えて、正近はその顔を覗き込んだ。
「……恐れながら、今の遮那王様はおん自ら求めて敵を作っておいでのように、正近には思われまする。若輩でありながら居丈高に振舞えば、寺の方々に疎まれるは道理。継子の身で義父君に恥をかかせれば勘当されるは道理。遮那王様にはすでに平家という敵がおありになるのに、このうえ敵を増やしてどうなさる」
「ああ、ああ、ああ!! お前は乳母のように口うるさい。お前が申したのだぞ、俺は誉れ高き源氏の棟梁、左馬頭義朝の子であると。だのに何ゆえみな俺を敬わぬ。変わらず俺を塵芥のごとく扱い、物を言えば下郎に打たせる。父上を殺した平家の者どもは大路で車を乗り回し、小童が恥を受ければ親が仕返しをしてやるそうな。誰も俺の為に動かぬのに、俺ばかり気を遣えというのは間尺が合わぬ。お前らの言う通りにしてやった挙句に兄上たちに乗り換えられては、俺が良い面の皮ではないか」
苛立たしげに地団太を踏んだ遮那王の叫びは、まるで悲鳴のように杉林にこだまする。正近は眉一つ動かさず、あえて厳しく言い渡した。
「お血筋ひとつで人を従えられるなら、どうして今、御所においでの貴い方々が平家に遠慮することがありましょう。お血筋とはあくまで旗印、旗を目指して集まる者どもをお味方とするのは、遮那王様ご自身のご器量にござりまする」
「その器量とやらは何処で贖える? 値はいかほどか。お前とて見たことも無いくせに、何ゆえ俺に求めるのだ!」
遮那王の唇がわななき、ひきつった吐息が白く煙った。雪に濡れた袖と袴がか細い手足にぴったりと張り付き、その姿はさらに頑是なく見えた。正近はその痛ましさに目を伏せ、細い息を吐いた。
(愛されたいのだ。どれだけ己を愛してくれるか全ての者を試すゆえに、却って疎まれるのだ)
身の丈が五尺に届いても、心は童のまま。取るに足らぬ家の子ならば、良くも悪くも捨て置かれたことだろう。だが事ここに至って、遮那王に只人として生きる道はない。正近は一歩、少年に歩み寄り、跪いた。遮那王が半歩後ずさり、身構える。正近は構わず、彼を見上げた。
「かしこまりました。主君に疑いを抱かれたならば、身の証を立てるが臣下の務め。明日、一条のお屋敷を訪ね、遮那王様のご元服の支度を整えて頂くよう、お母君にお願いに参りまする。月が改まりましたら、この寺を出て山科に参りましょう。奥州に下らぬと遮那王様が仰せならば、京での旗揚げのために、正近は働きまする」
「は……、嘘をつけ。母上に会うだと? 雑色に水を掛けられて、寒空の中はだしで逃げ帰るが関の山だ」
遮那王にとっては、旗揚げなど夢幻の話に等しい。彼をたじろがせたのは、縁を切られた母の許に正近が行くと申し出たことだった。また半歩うしろに下がる少年の足音には見向きもせず、正近は駄目押しに言い添えた。
「正近は正直だけが取り柄にござりまする。主君に嘘は申しませぬ」
この少年の最期は骨も残るまい。正近はそう思いながら、遮那王の顔をじっと見つめて頷いた。そのとき少年がどのような顔をしていたか、正近は覚えていない。彼が真に見ていたのは遮那王ではなく、十年以上経っても瞼の裏に焼き付いて消えない一文だった。
『わが父を謀り、殿を討たせた平清盛めの首を刎ね、その子々孫々までも残らず討ち取るべし。果たせぬ時は自害せよ』