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序 仏は常に

◆作中に登場する単位

・間:約1.8メートル(時代、地域によって異なる)

少年は笑っている。大男の長刀(なぎなた)が飛び上がった足の下に残像を走らせ、欄干から橋に降り立ったその背後を逆袈裟に切り上げられても、楽しそうに笑っている。


「ははっ、どうした()()()()! 俺はここだぞ!」

「この餓鬼(がき)が! ひっ捕らえて尻が腫れるほど打ってやる。そこを動くな!!」


前に転がった少年へ、大男はさらに長刀を突き込んだ。右に踏み込んでかわしながら、少年はとうに脱げた草履の片方を掬って相手の顔に投げつけ、その隙に立ち上がる。飛んできた草履を避けた大男は一歩進んで長刀を振り上げ、少年のこめかみに振り下ろした。闇夜に束ねた黒髪が翻り、固い物のぶつかるくぐもった音が深更(しんこう)の闇を震わせた。水無月の分厚い雲をすり抜けた月光が一筋差し込み、少年の小さな頭に打ち下ろされた長刀の刃と、間合いに飛び込んでその柄を受けた刀の、鞘からわずかに引き出された刀身を照らし出した。


「……はは」


正近はぞくぞくと体を這い上ってくる武者震いを押さえ、橋の袂の湿った土につく右膝を左に替えた。振りかぶった長刀の一撃を受けてさすがに一歩よろめいた少年へ、男は左手を伸ばして襟首を掴もうとする。だが少年はその手をかわし、大男の硬い腹巻に飛び込むように体当たりをした。大男が小さく呻き、一歩、二歩と後ずさる。股間を蹴られたのだと、七、八(けん)離れたところに潜む正近にも分かった。だが頭に血を上らせた大男は、飛び退ろうとした少年の白い袖を掴んで片腕で投げ飛ばした。ほの白く夜闇に浮かび上がる直垂が向かいの欄干に背中を打ち付けると思われた刹那、少年はくるりと後ろに転がり、斗束(とづか)を蹴って元通りに立ち上がった。


(奴は(ましら)か)


正近が内心で呟いた時には、すでに間合いを詰めていた大男が胴突きを仕掛け、少年の腹めがけて長刀の刃が迫っていた。胃の腑を突き破られるかと、正近は思わず腰を浮かせた。さすがに死なれるわけにはいかない。鞘走る腰の刀を振り抜き、橋の半ばへ駆けつけようとした正近は、だがすぐに聞こえた大男の短い叫びを聞いて動きを止めた。叫び声の尻に被さるようにして高く鳴った木の音で、何が起こったのかを正近は悟った。少年は体をかわしざま帯に挟んだ扇を引き抜き、相手の鼻面を打ち据えたのだ。扇を投げ捨てた彼は、たたらを踏んだ大男の緩んだ膝裏に鞘をかけてひっくり返し、続いて倒れたそいつの頭に振り下ろした。中に納められた太刀が暗い影を殴るたびに、男の悲鳴がぶつ切りに闇を震わせた。とっくに勝負はついたというのに、少年は大男をなおも太刀でしつこく殴る。少年の高い笑い声が男の悲鳴の合間に漏れ聞こえ、正近はついにその場へと駆け寄った。闇夜に浮かび上がる白い直垂(ひたたれ)に背中から抱き着き、彼はその小柄な体を哀れな男から引きはがした。


「若君、若君! すでに武蔵坊は倒れましてござりまする。これ以上はどうか」

「無礼者! 放せ正近、勝ったのは俺だ! 負けた者をどうしようと俺の勝手ではないか」


少年は息を弾ませながら手足を振り回して暴れ、正近の脛やこめかみを何度も打った。痩せぎすの童のくせに踵や肘の一撃は妙に骨に響き、正近はわずかにふらついた。


(この山猿が!!)


正近は内心で悪態をつき、さらに頭突きしてきた少年のまだ細い首を腕でがっちりと押さえた。苛立ち紛れに少しばかり力を込めながら、正近がとっさにその耳元で叫んだのは、少年が先ごろ捨てたばかりの名だった。


「どうか、遮那王様! 仁徳を示すのも、主君の道でござりますれば」


どうせこの餓鬼は聞いてはいまい。熱くどす黒い正近の恨み言は、彼の体から束の間立ち上って、生臭い川風にさらわれた。


参考文献

・『義経記』高木卓訳、2022、グーテンベルク21

・『「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質』海上知明、2021、徳間書店

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