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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第一章 深淵レストラン開店前夜
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008:防衛長官グレンと【悪魔の溜息コーヒー】

008:防衛長官グレンと【悪魔の溜息コーヒー】


 双子の月が不気味なほど紅く輝く夜。

 アマルガム領の最前線、対魔獣防衛砦「鉄血関てっけつかん」の作戦司令室は、張り詰めた空気と男たちの低い声そして報告書の擦れる音だけが支配していた。

 部屋の中央には、周辺地域の詳細な立体地図が置かれ、それを囲むように屈強な武官たちが眉間に深い皺を刻んで盤面を睨んでいる。


 地図の上には、様々な色と形の駒が置かれ現在の戦力配置と予測される脅威の侵攻ルートを示していた。

「――依然、北東方面、黒曜の森より魔獣の活性化反応多数。小規模な『怪獣』の群れが散発的に確認されておりますが、こちらは遊撃部隊にて対処可能と判断します」

 参謀の一人が長い指示棒で地図の一点を指し示しながら報告する。

 その声には、疲労と緊張が滲んでいた。


 この砦の最高責任者、防衛長官グレン・マクシミリアンは、腕を組み、厳しい表情でその報告を聞いていた。

 齢五十を数えるが、その体躯は鍛え上げられ、歴戦の勇士であることを物語っている。

 しかし、その額に刻まれた皺と、僅かに白髪の混じった髪が、彼が背負う重圧の大きさを物語っていた。

 傍らには、銀縁の眼鏡をかけた怜悧な印象の女性武官――副官のセラフィナが、グレンの指示を待っている。


 この世界は、決して人間だけのものではない。

 太古よりこの地を支配してきたのは、強大な力を持つ「獣」たちであった。

 人々は、それらを便宜上いくつかのカテゴリーに分類している。

 一般的な動物に近い「獣」。

 それらが巨大化したり、特異な能力を持ったりした「怪獣」。

 さらに進化し、炎や雷を操り、軍隊規模でなければ対処できない「超獣」。

 そして、超獣が知性と不可思議な力――魔法や結界――までをも身につけた「魔獣」。

 その魔獣すらも超越した存在が「神獣」である。

 神獣の中には、古の契約や気まぐれから、限定的ながらも人類に生存圏を与えている友好的な者もいる。

 我々人間はその神獣たちの広大な縄張りの片隅で、かろうじて生存を許されているに過ぎない、か弱い存在なのだ。


「黒曜の森の件は了解した。警戒を継続。だが、より注視すべきは嘆きの荒野方面だ」

 グレンが低い声で呟いた、その時だった。

  司令室の扉が乱暴に開け放たれ、血相を変えた斥候が転がり込んできた。


「長官! 緊急報告! 第三監視所より緊急伝令獣きんきゅうでんれいじゅう帰還、主要街道に魔獣出現! 目標は大型蜘蛛型、魔紋確認、脅威度『極めて高し』と判断! 推定移動速度、時速約2リーグ(牛馬よりもやや遅い程度)、現進路を維持した場合、当砦への到達予測時刻、三日後の午前三時!」

 司令室の空気が、一瞬にして凍りついた。

 他の全ての議題が吹き飛ぶほどの衝撃。


「蜘蛛型の魔獣だと…? この時期に、主要街道からか…!」

 グレンの顔から血の気が引いた。

 最悪のタイミングで、最悪の報告だった。

 魔獣の出現自体は、この世界では悲しいかな日常茶飯事だ。

 だが、通常、魔獣は自らの縄張りから滅多なことでは出てこない。

 ましてや、整備された主要街道を、これほど堂々としかも単独で進行してくる魔獣など、前代未聞であった。

 まるで、天災が意思を持って進軍してくるかのようだ。


 一体何が起こっている?


「被害状況を報告せよ!」

「第三監視所からの定期連絡途絶! しかし、別ルートの斥候によれば、監視所施設への直接的被害は現時点では確認されておりません。目標は、時折、空に向け紫色の怪光線を放射、また、意味もなく巨岩を粉砕するなど、理解不能な行動を反復。斥候部隊は、目標を刺激せぬよう最大限の注意を払い、安全距離を確保しつつ監視を継続中です!」

  斥候の言葉に、グレンは奥歯を噛み締めた。

 セラフィナ副官が冷静な声で進言する。

「長官、ご決断を」


「うむ…! 全隊に通達! 現時刻をもって第一種戦闘配置に移行! 本件、他の全ての案件に優先、最優先事項とする!対魔獣障壁、最大出力! 弩弓隊、投石隊は特殊徹甲弾装填、攻撃準備! 斥候隊は引き続き敵情を報告せよ! セラフィナ! 行政庁及びハンターギルドに至急連絡、A級以上のハンターの緊急派遣を要請! 本件、我々の戦力だけでは対処困難と判断する!…いや、対処不可能かもしれん」

 矢継ぎ早に指示を飛ばすが、グレンの額には脂汗が滲んでいた。

 この世界に、人間が扱えるような都合の良い魔法など存在しない。

 我々が頼れるのは、先人たちが血と汗で築き上げた超獣素材の兵器と、神獣様が気まぐれにお与えくださった防衛設備、そして、同じくか弱い人間同士の結束だけなのだ。

 これだけの組織力と兵力を有していても、一個の魔獣を前に、我々はかくも無力なのか…


(魔獣…それも、これほどの強力な個体が、なぜ今、この砦を目指す…?)


 通常、神獣様が展開してくださっている対魔獣障壁は、超獣以下の存在に対しては絶大な効果を発揮する。

 しかし、魔獣クラスとなると話は別だ。

 奴らは、いとも容易くその障壁を乗り越え、あるいは無効化してくる。

 そうなれば、我々人類に打つ手はほとんどない。

 文字通り、蹂躙されるだけだ。

 斥候の報告にあった「魔紋」という言葉が、グレンの胸に重くのしかかる。

 それは、魔獣の中でも特に強力な個体、あるいは特殊な能力を持つ個体に現れるとされる紋様だ。


(まさか…「アレ」が関わっているのか…?)


 グレンの脳裏に、一人の人物の顔が浮かんだ。

 このアマルガム領の若き女領主、エヴァ・アマルガム――人々からは敬愛と畏怖を込めて「奥様」と呼ばれる、美しくも底知れぬ女性。

 そして、その奥様に影のように仕える、謎多き執事長、伊勢馬場。

 あの二人が関わると、常識では考えられないような事態が、いとも容易く発生する。

 今回の魔獣出現も、あの二人が何かを引き起こした結果なのではないか…?

 いや、今は憶測で動くべきではない。


「長官、いかがなさいますか? 奥様には…ご報告を?」

 セラフィナ副官が、グレンの苦悩を察したように、静かに尋ねる。

 グレンは、苦虫を噛み潰したような顔で、しばし沈黙した。

 奥様への報告――それは、この砦の防衛長官にとって、最も胃の痛む仕事の一つだった。

 彼女は、確かに聡明で、時には驚くほど大胆な決断を下す、優れた領主だ。

 しかし、その思考回路は常人の理解を超越しており、彼女の「お戯れ」や「気まぐれ」が、とんでもない大騒動を引き起こすことが、これまでにも度々あった。


 今回の魔獣が、万が一、奥様の「何か」に釣られてやってきたのだとしたら…?

 報告したところで、「あら、わたくしの可愛いペットかしら? 丁重におもてなしなさいな」などと、平然と言い放ちかねない。

 いや、あの奥様なら絶対に言う。

(だが、報告しないわけにはいかぬ…万が一、この鉄血関が突破されるような事態になれば…)

 その先の想像は、グレンを深い絶望へと引きずり込む。

 民の命、砦の兵士たち、そして何よりも、このアマルガム領の安寧。

 その全てが、彼の双肩にかかっている。


「…報告は…いや、この状況、隠蔽は不可能だ。セラフィナ、非常に言いにくいが…奥様へ、大至急連絡を。内容は…『鉄血関、正体不明の強力な蜘蛛型魔獣の接近を確認。詳細は追って報告する』とだけ伝えろ。…ああ、胃が痛い。まるで薬と毒を同時に呷る気分だ」

 グレンは苦渋の決断を下した。

「各部隊長、これより作戦会議を行う! 地図の前に集まれ!」

  その声には、いつもの厳しさに加え、悲壮な覚悟が滲んでいた。

 部下たちが地図盤の周りに集まり、喧々囂々の議論が始まる。

 グレンは、その喧騒の中で、そっと懐から小さな革袋を取り出し、中から白い錠剤を数個取り出して、水なしで飲み込んだ。

 気休めにしかならないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

 彼の胃は、もう何年も前から、この重圧に蝕まれ続けているのだ。

(神獣様…どうか、我らをお見守りください…そして奥様…どうか、これ以上厄介事を増やさないでいただきたい…!)


 グレンは、誰にともなく、心の中で切実に祈るのであった。

「セラフィナ、私にコーヒーを。いつもの…いや、今日は特別に『悪魔の溜息デビルズ・サイ』を頼む。砂糖もミルクも無しで、熱いやつをだ」

 彼の苦悩は、まだ始まったばかりだった。



『悪魔の溜息デビルズ・サイ

 評価:★☆☆☆☆(星評価マイナスがないのが悔やまれる)


 鉄血関に配属された者が必ず一度は耳にする伝説の飲料。

 疲労困憊の兵士を叩き起こし、意識朦朧の哨兵を覚醒させるというその”効能”はあまりにも有名。

 錆びついた鉄を舐めたかのような鋭利な酸味と脳を直接殴りつけるような暴力的な苦味が襲い来る。


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