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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第一章 深淵レストラン開店前夜
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007:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】後編

007:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】後編


 我は深淵の狩人。

 先ほど仕留めた岩猪は、まぁまぁの抵抗を見せてくれた。

 深淵の魑魅魍魎どもに比べれば赤子同然であったが、姪っ子たちの良い暇つぶしにはなったであろう。

「おじちゃーん、この猪、すっごく大きいね!」

「うん、これなら村のみんな、お腹いっぱい食べられるね」

「…お肉、美味しいかなぁ…」

 頭上で姪っ子たちがはしゃいでおる。

 ふむ、期待に胸を膨らませているようだな。


 さて、この岩猪どう運ぶか。

 我は自慢の魔糸を放ち、岩猪の巨体をあっという間にグルグル巻きにしていく。

 まるで獲物を繭で包むように、丹念に、そして確実に。

 うん、この感覚だ。

 獲物を完全に支配下に置き、己の力で運ぶ。これぞ蜘蛛としての本能が満たされる瞬間よ。

 よっこらしょと猪の繭を担いで、ノッシノッシと意気揚々と村へ帰路につく。


 村の入り口に近づくと、家々の窓や戸の隙間から何やらこちらを窺う視線を感じる。

 無理もない。

 我のこの巨躯と、背に乗る姪っ子たち、そして担がれた巨大な岩猪。

 さぞかし異様な光景であろう。


 村に着くと、老婆が我らの姿をいち早く見つけ駆け寄ってきた。

 その目は、以前の淀んだ光ではなく、確かな輝きを宿しておる。

「まあ!蜘蛛様!それに、なんと立派な岩猪!これで…これで村は救われます!」

 老婆は涙ながらに我に感謝し、村人たちを呼び集めた。

 村人たちは、最初こそ家の中から恐る恐る様子を窺っていたが、老婆の言葉と何より巨大な岩猪を見て、一人また一人と姿を現し始めた。

 中にはまだ腰が引けておる者もいるが、飢えの恐怖よりはマシといったところか。

 やがて村長らしき男が、死人のような顔色で、しかし意を決したように我々の前に進み出た。


「こ、これは…蜘蛛様…この度は、誠に…」

 言葉も途切れ途切れだ。

 無理もない。

 しかし、我らが紳士的に振る舞い、ただ純粋に「美味い料理」を求めているだけだと分かると、村長も村人たちも少しずつ警戒を解き、安堵の表情を浮かべ始めた。

「さあ、蜘蛛様、どうぞこちらへ。この岩猪、私たちが腕によりをかけて調理いたします!」


 村人たちは手際よく岩猪を解体し始めた。

 その姿は、まさに職人技。

 血抜きをし、皮を剥ぎ、内臓を綺麗に取り出して行く。

 そして、村の中央に組まれた大きな焚き火で、豪快に姿焼きにし始めたのだ。

 村人が調理を進める間、我は彼らに調理工程の説明を求めた。

「ふむ、そのハーブは臭み消しか。なるほど、臭みという概念があるのだな興味深い」

「ほう、残った骨からも出汁を取ると?」

 なるほどなるほど、無駄がない。実に合理的だ

 そして、村長がおもむろに取り出したのは、黒々と光る数本の木々であった。

「蜘蛛様、これは当村に古くから伝わる『燻しいぶしぎ』でございます。この木を燃やすと、えもいわれぬ芳香が立ち上り、肉の味を格段に引き上げるのでございます。特に猪のような獣肉との相性は抜群でして」

 村長はそう言うと、燻し木を焚き火にくべ始めた。


 パチパチと音を立てて燃える木からは、確かに、今まで嗅いだことのない、深く、そしてどこか甘露な香りが立ち上り始めた。

 それは森の香りとも違い、花の香りとも違う、複雑で奥深い、まさに「燻された香り」であった。

 その香りが、焼ける岩猪の肉の匂いと混じり合い、我々の食欲を強烈に刺激する。

 じゅうじゅうと肉の焼ける音、香ばしい匂い、そして燻し木の独特な芳香。

 これは…我の知る「焼く」とは次元が違う。

 火加減、串の打ち方、時折塗られる謎の液体タレというらしい、そしてこの燻し木。

 全てが計算され尽くしておる。

(ふむ、これが人間の「料理」か。奥が深い…)

 我は姪っ子たちと共に、食い入るようにその様を見つめた。

 姪っ子たちも、目を輝かせて調理の様子を観察しておる。

 これは良い学びの機会だ。


 やがて、燻し木香る岩猪の姿焼きが完成した。

 村人たちは歓声を上げ、我に一番良い部分を勧めてくる。

 遠慮なく頂くとしよう。


 うまい!


 外はカリッと香ばしく、中は驚くほど柔らかくジューシーだ。

 噛むほどに肉の旨味が溢れ出し、鼻腔を燻した木の香りがふわりと通り抜ける。

 この燻し木の香りが、肉の味を一層引き立て、深みを与えている。

 先日姪っ子たちが持ち帰った「婆娑羅曼荼羅蜥蜴ばさらまんだらとかげ」の料理には、正直まだ遠く及ばぬ。

 あれは別格だ。

 だが、我らがただ焼くだけの調理法に比べれば、これはまさにパラダイムシフト!

 人間の力、侮りがたし!

 そして、改めてあの婆娑羅曼荼羅蜥蜴を調理した料理人の腕の凄まじさを再認識させられたわ。


 村人たちも、我も姪っ子たちも、無言で肉を頬張る。

 至福の時だ。

 宴もたけなわとなり、村の長老らしき男が、琥珀色の液体が入った杯を差し出してきた。

「蜘蛛様、これは我らの村の祝い酒でございます。どうぞ、お納めください」

 酒、とな? 人間が飲むという、あの不思議な水か。

 ふむ、少し興味がある。

 一口含むと、喉がカッと熱くなり、芳醇な香りが鼻に抜ける。

 そして、なんとも言えぬ高揚感が体を満たしていく。

(おお…これは…悪くない…!)

 我は勧められるままに杯を重ねた。

 姪っ子たちも、果実を水で薄めたようなものを貰い、ご機嫌だ。

 村人たちとの会話も弾み、心地よい時間が流れていく。


 …そこからの記憶が、どうにも曖昧なのだ。


 次に気が付いた時、我は自室の天井…ではなく、見慣れぬ木の天井を見上げていた。

 そして、体が妙に軽い。

 八本の脚が、だらしなく天を向いておる。

 いわゆる「臍天へそてん」というやつか。


「おじちゃん、起きた?」


 傍らには、腕を組み、明らかに怒りのオーラをまとった姪っ子三姉妹が、仁王立ちで見下ろしておった。

 その小さな体躯からは想像もつかぬ威圧感。

 まるで、深淵の奥底で幾多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の勇士がごとき風格である。…いや、風格というか、完全に我が姉上――冥府の黒百合――が降臨しておられる。

「…お、おじちゃん、正座…」

 アンの静かな、しかし有無を言わさぬ一言。

 我は、深淵の王としての威厳も何もあったものではない、まるで巨大な芋虫のように、のそのそと八本の脚を折り畳み、床に「蜘蛛式正座」をさせられた。


 この巨体で正座をする滑稽さよ。

 まるでムキムキマッチョの大男が、小さな幼女に叱られて縮こまっている図である。

「何があったのだ?」 我の声は、自分でも驚くほどか細く、情けないものだった。

 この状況で威厳を保てというのが無理な相談であろう。


「何があったのじゃないよ!おじちゃん、お酒飲んで大暴れしたんだから!」

 とアンが頬を膨らませる。

 その瞳の奥に、一瞬、我が敬愛する姉上の面影がよぎり、背筋に冷たいものが走った。


「村長の家、真っ二つにしちゃったし…村の御神木まで薙ぎ倒してたよ…」

 とドゥが冷静に、しかし冷ややかに告げる。

 その理路整然とした詰問の仕方は、まさしく姉上が我の失態を糾弾する時のそれと瓜二つではないか!


「…お料理のテーブルも、全部ぺっちゃんこ…トロワ、楽しみにしてたのに…」

 とトロワが涙目で訴える。

 その潤んだ瞳の奥に宿る、静かだが有無を言わせぬ圧力…ああ、これも姉上譲りか!

 こういうところは似てほしくなかった…!


 幾度となく繰り返された、姉上による恐怖の「お説教タイム」の記憶が、鮮明に蘇る。あの時の絶望感と無力感。

 まさか、我が魂の至宝である姪っ子たちから、同じプレッシャーを感じる日が来ようとは…。

 深淵の王も形無しである。

 我は、ただただシュンと小さくなるしかなかった。


 恐る恐るまわりを見ると、確かに村長の家らしき建物が、鋭利な何かで両断されておる。

 村の奥の森の一部が、まるで巨大な獣が暴れたかのように薙ぎ払われており、立派だったはずの御神木が無残に倒れ、広場には宴会の残骸が散乱しておった。

「「「おじちゃんはお酒は絶対禁止だからね!!!」」」

 三姉妹からの、それはそれは厳しいお説教が、雷鳴の如く我が頭上で炸裂した。

 ぐうの音も出ぬ。

 深淵の狩人たる我としたことが…。

 姪っ子たちの前で、これ以上ない醜態を晒してしまった。


 猛省した我は、まず村長の家を、我が魔糸で寸分の狂いもなく補強し、元通り…いや、以前よりも頑丈に修復した。

 御神木も糸で吊り上げ、元の位置に固定し、倒壊した屋台の残骸も丁寧に片付けた。

 そして、詫びの印として、深淵で採れる水晶の中でも特に上質なものを一つ、村長の家の前にそっと置いた。

 村人たちは、最初こそ昨夜の惨状と、今朝の我が姿に恐怖の顔をしていたが、修復された家々や御神木、そして何より深淵水晶の輝きを見て、目の色が変わった。

「す、素晴らしい!蜘蛛様、もしよろしければ、うちの家も…その、少し傾いておりまして…」

「いや、うちの納屋をぜひ!少々手狭で困っておりましたので、いっそ豪快に!」

 おいおい、どういうことだ。

 困惑する我をよそに、村人たちは「うちも壊してください」と詰め寄ってくる始末。

 先ほどまでの恐怖はどこへやら。

 人間の価値観は、時として理解に苦しむ。現金なものよ。


 うむ、色々あったが悪くない一夜であった。

 村人たちに出立の意を伝えると、あの老婆がやってきた。

 手には、燻製にされた岩猪の肉の塊を抱えている。

「蜘蛛様、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。このお肉、少ないですがお納めください。そして…ぜひ、またいらしてくださいましね。お酒は…ほどほどに」

 老婆は涙ながらに何度も頭を下げた。最後の言葉が少し耳に痛い。

(ふむ…魔獣である我を、これほどまでに歓迎するとはな…)

 姪っ子たちも、見送りに来た老婆と村人達に手を振っている。

(まあ、あの酒はもうこりごりだが…また機会があれば、立ち寄っても良いかもしれぬな)

 我は、温かな気持ちと、少々の困惑、そして深い反省を胸に、再び街への道を辿るのであった。

 頭上では、姪っ子たちが、早速燻製肉を巡って小さな言い争いを始めておる。やれやれ、騒がしいのは相変わらずだ。

 そして、当分酒は飲むまいと固く誓った。




『燻し木香る岩猪の姿焼き』

評価★★★★☆(めったに食べれないごちそう)


とある地方に自生する燻し木でじっくり燻しながら焼いた岩猪の姿焼き。

獣肉特有の臭みは消え、えもいわれぬ芳香が肉の旨味を格段に引き上げている。

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