006:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】中編
006:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】中編
俺は岩猪。
この森の古株よ。
長年にわたり過酷な自然を生き抜いてきた。
そこらの軟弱な猪共とは訳が違う。
体躯は小山のように巨大に育ち、全身を覆うこの剛毛は、森の奥に潜むという岩礫蜥蜴が吐き出す岩の礫すら弾き返すほどだ。
ひとたび突進すれば大木すらへし折り岩をも砕く。
この発達した牙は、森の肉食獣どもですら震え上がらせる恐怖の象徴よ。
そして何より、この頭脳だ。
そこらの獣とは比べ物にならんほど思考が回る。
人間どもが俺様を「森の厄災」と呼んで恐れおののくのも無理はなかろう。
そんな俺は考えた。
今までは森でセコセコとミミズやキノコを掘り起こして腹の足しにしていた。
それに比べて人間の里はどうだ?
縄張りからちょっと遠いが、そこには手塩にかけられた、見るからに美味そうで、土の汚れ一つない綺麗な野菜どもが、まるで「どうぞお食べください」とでも言わんばかりに陳列されているではないか!
愚かな人間どもめ、奴らは自分たちの食い物を、わざわざ俺様のために育ててくれているようなものよ。
ぐふふ、今夜もまた人間たちが明日収穫するであろう、一番美味そうな野菜たちをいただくとするぜ。
月明かりが雲に隠れ、絶好の夜盗日和だ。
鼻を鳴らし、土の匂いを嗅ぎ分ける。
よし、あそこの畑だ。一番瑞々しく、甘い匂いがする。
人間どもが丹精込めて育てた作物を一夜にして食い荒らし、奴らが翌朝絶望にくれる顔を想像する、腹も満たして心も満たす、これこそ最高のエンターテインメントディナー!!
柵など、この俺様にかかれば無用の長物。
軽く鼻先で押し上げれば、パキリと音を立てて折れる。
しめしめ、今宵も大漁!!
まずはあの丸々と太った大根から…ん?
なんだ、この微かな違和感は。
獣の勘が、チリリと警鐘を鳴らす。
風向きか? いや、違う。
何か、得体の知れない気配が…。
その瞬間、足元に言い知れぬ圧力がかかった。
しまった!罠か!? だが、こんな原始的な罠でこの俺様を捕らえようなどと片腹痛いわ!
全身の筋肉を爆発させ、強引に脱出を試みる。
しかし、足に絡みついたソレは、ただの蔓や縄ではない。
粘り気を持ち、異常なまでに強靭だ。
何か変だ!
俺は牙を剥き、暴れ狂った。
絡みつく糸を引きちぎり、大地を蹴って森の奥へと逃走を図る。
この森は俺の庭だ。地の利はこちらにある。
瞬間、空気が震えた!!
三方向から同時に気配が迫る、よく見ると小さな蜘蛛達が伸縮自在の糸を使い凄いスピードで飛来してきていた。
小賢しい!
俺は急旋回し、最も手薄に感じた方向へ突進する。
多少の障害など、一撃で吹き飛ばしてくれるわ!
蜘蛛の一匹が、俺の突進を紙一重でひらりとかわすと、逆に俺の側面に飛びつき、鋭い糸で一瞬動きを鈍らせる。
次の刹那、右翼から回り込んできたもう一匹の蜘蛛が、粘着性の高い糸を俺の脚に絡ませてきた。
くそっ、足がもつれる!
だが、俺様を舐めるな! 強引に脚を引きちぎるように力を込め、粘糸を断ち切る。
同時に、頭上から迫る最後の蜘蛛の気配を察知し、背中の剛毛を逆立てて防御する。
バチバチと音を立てて糸が弾かれる。
再び気配がする。
近い! いつの間に回り込まれた!?
背後から、先ほどとは比べ物にならないほどの太さの糸が、鞭のように飛来する。
咄嗟に身を捻り、紙一重でかわす。
だが、それは陽動だった。
頭上から、無数の細いが鋭利な糸が雨のように降り注ぎ、俺の動きを封じようとする。
「くそっ、小賢しい!」
俺は最後の力を振り絞り、近くの巨大な岩盤に向けて突進した。
蜘蛛達が俺を追いかけてくる気配を感じる、計算通りだ。
俺はさらにスピードを上げ、目前の巨大な岩盤に向かって全力で跳躍し、体の筋肉を最大限にひねって三角飛びの要領で、岩盤を蹴って空中で身を翻す。
狙うは背後に迫る蜘蛛たち。
着地と同時に全身の筋肉を爆発させ、自慢の牙を剥き出しにする。
迎え撃つは、追跡してきた小蜘蛛ども。
岩猪の誇りをかけて、一匹残らず噛み砕いてくれる!
しかし、蜘蛛たちは、俺の動きを読んでいたかのように、岩盤を蹴って宙を舞い、再び俺を包囲する。
その連携、まるで一つの生き物のようだ。
作戦は失敗、状況を立て直す!まだ負けてはいない!まずは一匹!!
冷静になり、作戦を頭の中で組みなおそうとした瞬間、背骨に氷柱を突き刺されたような感覚に襲われた!
目の前に、巨大な影が立ちはだかったのだ。
八つの複眼が、深淵の闇を湛えて俺を見据えている。
巨大な蜘蛛。
その体躯は俺の数倍はあろうか。
そして、その背には、先ほどの気配の主であろう、三匹の小さな蜘蛛が乗っている。
「ふむ、なかなかの悪あがきであったな、岩猪よ。だが、それもここまでだ」
蜘蛛の、地響きのような声が響く。
その瞬間、俺の全身に、見えざる糸が幾重にも巻き付き、身動き一つ取れなくなった。圧倒的な力。
理不尽なまでの捕縛。
俺の知恵も力もこの深淵の獣の前では赤子の手をひねるようなものだった。
意識が遠のいていく。
最後に見たのは、俺を見下ろす巨大な蜘蛛の、どこか満足げな顔だった。
ああ、こんなことなら、森で大人しくミミズでも食っておけばよかったか…
いや、やはり里の野菜は美味かったんだ…。




