005:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】前編
005:深淵の蜘蛛と【燻し木香る岩猪の姿焼き】前編
街道をノシノシと進む我の頭上では、我が心の至宝たる姪っ子三姉妹――アン、ドゥ、トロワが、「あやとり」なる糸の遊戯に興じ、キャッキャウフフと鈴を転がすような、いや、深淵の水晶が共鳴するような美声でじゃれ合っている。
聞けばこの遊戯、我が敬愛する姉上――冥府の黒百合――の無二の親友、「万象の織姫」が、かつて異世界より迷い込みし者から伝授された秘技だとか。
ふむ、あの女傑もなかなかに物好きよのう。
そういえば、かの「万象の織姫」殿、思い返せば一時期、妙に我の行く先々に「偶然」とやらで出くわしたものだ。
あれは確か、我が三十年に一度くらいの脱皮の時期。
霊峰の奥深く、俗世との関わりを断って身を清めていたはずなのだが…。
「あら奇遇ですわね、深淵の君。わたくし、ちょうどこの辺りで希少な薬草を…」
「まあ、こんなところでお会いするなんて!実はわたくし、健康のためにジョギングを…」などと宣い、日に四度も五度も鉢合わせしたものよ。
その度に、「脱皮、順調ですこと?わたくしでよければ、背中の皮を…うふふ」と妖艶に迫られたが、我は、「ご厚意痛み入るが、某も伊達に深淵の王を名乗っておらん!己の皮くらい!自分で何とかいたします」と、百回は固辞した記憶がある。
やれやれ、姉上もそうだが、年上の女子というのは、どうしてこうも年下の男子の世話を焼きたがるものかのう。
…ん? そういえば、あの時脱いだ我が古き皮、一体どこへやったのだったか。
確か、脱皮を終え、霊峰の清水で喉を潤し、さて一息つこうと洞に戻ろうとした折、遠くの岩陰を、どこかで見覚えのあるような黒い影が、風のように走り去っていくのがチラリと見えたような…いや、気のせいか。
脱皮直後はどうも視界が霞んでいかんな。
「おじちゃん、見て見てー!」
ハッと我に返ると、いつの間にか三女のトロワが、小さな手で一本の糸を巧みに操り完成させた「あやとり」を誇らしげに差し出していた。
おお!これは…!なんと見事な造形美であろうか!
一本の糸が複雑に絡み合いながらも、絶妙な均衡を保ち、一つの生命体としての躍動感すら感じさせるこの糸の芸術!
これは、まさしく我が雄姿! 天を衝くが如き八本の脚、深淵の闇を凝縮したかのような黒曜石の体躯、そして何よりも、この世の理すら見通す我が魔眼の輝きまでをも、見事に表現しきっているではないか!
「ト、トロワよ…!お前は…お前は天才かッ!? この宇宙の真理の一端を、この一本の糸で掴み取ったというのか!? なんという慧眼! なんという指先の魔術! おじさんは…おじさんは感動で言葉も出ないぞ!」
我は、危うく感動のあまり魂の一部が抜けかけそうになるのを、必死でこらえた。
…あれ? いかんいかん、トロワの作品のあまりの素晴らしさに、さっきまで何か別のことを考えていたはずなのだが、すっかり頭から抜け落ちてしまったわい。
まあ、良いか。
姪っ子たちの笑顔に比べれば、些事などどうでも良いことである。
そうこうしているうちに、我らは人間の小さな集落の近くを通りかかった。
先ほどの「クッキー」の味が忘れられず、もしや似たような美味にありつけるやもしれぬと、ほんの軽い気持ちで立ち寄ることにしたのだ。
「よいか、姪っ子たち。万が一ということもある。我が許しなくば、決して頭上から動くでないぞ」
「「「はーい!」」」
素直でよろしい。先ほど我が勇姿(と姪っ子たちは思っているらしい、模擬戦での大人気ない勝利)を見せつけた効果であろう。
しかし、村に足を踏み入れてみると、奇妙なほど静まり返っていた。
人の気配はあるものの、家々は戸を固く閉ざし、まるでゴーストタウンのようだ。
道には物が散乱し、家畜小屋の豚や鶏ですら、隅でプルプルと震えているか、あるいは腹を天に向けて完全に思考を放棄している。
「ふむ、これはどうしたものか。人間の巣(家といったか?)を一つ一つ破壊して、住人を引きずり出すのは少々骨が折れる。
何より、これから『クッキー』を恵んでもらう相手に、あまり手荒な真似はしたくないからのう」
我が高尚なる悩みに、次女のドゥがおずおずと、しかし目ざとく何かを見つけたようで、我が剛毛をちょいちょいと引いた。
「おじちゃん、あっち、戸がちょっぴり開いてるよ?」
おお、そうかそうか、ドゥは賢いな。
よくぞ見つけた。
ドゥが指差す先には、確かに一軒、他とは異なり人の気配がする家があった。
ただし、どこか手入れが行き届いていないような、寂れた印象を受ける。
「よし、まずはここから交渉してみるか」
我は家の前に進み出て、できるだけ穏やかに声を張り上げた。
「おい、誰かおるかー? 我らは旅の者、いや、旅の蜘蛛じゃが、少々尋ねたいことがある!」
しばしの静寂の後、家の中から、しゃがれた、そしてどこか疲れ切ったような女の声がした。 「…はい、どなた様でございましょうか…?」
そして、戸がゆっくりと開き、決して若くはない、人生の労苦がその顔に深く刻まれたような人間の女が、壁に手をつきながら、おぼつかない足取りで姿を現した。
「あら…? 外が急に騒がしいと思ったら…まるで、嵐の中から声が聞こえてくるようですわね…」
女は、焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。
この人間、盲目か。
「我らは旅の蜘蛛だ。少々図体が大きいが、危害を加えるつもりは毛頭ない。実はな、この村で『クッキー』なる美味い菓子を探しておるのだ。心当たりはないか?もちろん、タダでとは言わん。相応の対価は支払うつもりだ」
我の言葉に、女は少し驚いたように小首を傾げた。
「蜘蛛…様、でございますか? わたくしの知る蜘蛛は、もっと小さな虫を捕らえる生き物だと聞いておりましたが…。それに、お言葉を話されるとは…。今日は、何やら不思議な日でございますね」
「些事はどうでもよい! それよりクッキーだ! クッキーはないのか、クッキーは!」 我の剣幕に、女は少し怯えたように身をすくめた。
「も、申し訳ございません…。あいにく、この村は近頃『岩猪』という凶暴な魔物に目をつけられておりまして…。畑は荒らされ、蓄えも乏しく、わたくしのような目の見えぬ老婆には、明日の糧を得ることすら難しい状況でございます…。お菓子など、とても…」
女は力なく俯き、その目には諦観にも似た影が落ちているように見えた。
「…ですが、せっかくお越しいただいたのです。何かお口に合うものがないか、探してまいりますわ」
そう言って女が家の中へ戻ろうとした瞬間、足元の何かに躓き、よろけて大きく体勢を崩した。
「危ない!」
頭上で固唾を飲んで見守っていた我が姪っ子たちが、咄嗟に反応した。
アン、ドゥ、トロワの三人が、それぞれ目にも止まらぬ速さで極細の魔糸を放ち、女の体を優しく、しかし確実に支える。
「あら…? まあ…ありがとうございます。どなたかは存じませんが、お優しいのですね…」
女は、何が起こったのか理解できていない様子だが、それでも柔らかな、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべた。
姪っ子たちが、キラキラとした瞳でこちらを見上げてくる。
「おじちゃん、この人間、良い人だよ」とでも言いたげだ。
…やれやれ、仕方あるまい。
「おい、人間。少しその目を見せろ」
我は有無を言わさず、女の顔に近づき、八つの複眼でその瞳を凝視する。
「ひっ…!」
女は突然のことに驚き、ガタガタと震えだしたが、我は構わず診断用の極細魔糸を女の眼球へと慎重に伸ばす。
麻痺毒を微量に含ませてある故、痛みは感じぬはずだ。…多分。
ふむ…眼底の視神経が広範囲に渡って損傷しておるな。
これでは視野も狭く、いずれ光すら感じられなくなるだろう。
人間よ、運が良かったな。
この深淵の王たる我が、たまたま通りかかったことを感謝するがよい。
「動くなよ。少しばかり、お前のその『見えない目』を治療してやろう」
我は女の返事を待たず、治療を開始した。
我が長年の研究と試行錯誤の末に完成させた秘術――再生と補強の概念を付与した特殊な魔糸を、損傷した視神経に寸分の狂いもなく埋め込み、神経回路を再構築していく。
この技術、かつて姉上に意気揚々と披露したところ、
「あら、そんな面倒なことしなくても、傷んだ部分をブチッと千切って、あとは気合と根性で再生させればよろしくてよ?」
などと、のたまいおった。
我が五年に及ぶ血の滲むような努力と研究の成果が、姉上にとっては「気合と根性」の一言で片付けられてしまったのだ!
あの時の屈辱と絶望感たるや…!
…いや、今は感傷に浸っている場合ではない。
おかげで、この程度の治療、我にとっては赤子の手をひねるよりも容易い。
程なくして、治療は完了した。
「…終わったぞ。しばらくは強い光を避け、目を擦ったり、水で洗ったりするのは一週間ほど控えろ。まあ、見えるようになったのだから、そのくらいは我慢せい」
我の言葉に、女は恐る恐る瞼を開いた。
最初はぼんやりとしていたその瞳が、次第に焦点を結び始める。 そして――。
「え…? あ…あかるい…? 色が…形が…わかる…? あなた様のお姿が…み、見える…!はっきりと…!」
女の声は震え、信じられないといった表情で自身の両手を見つめ、そしてゆっくりと我々を見上げた。
その瞳からは、堰を切ったように大粒の涙がとめどなく溢れ出し、乾いた頬を濡らしていく。 「ああ…!見える…!何年も、何年も、闇の中だったのに…!夢じゃないのですね…!ああ、神様…仏様…そして、蜘蛛様…!」
女はその場にへたり込み、嗚咽を漏らしながら、何度も何度も頭を下げた。
それは、長年抱えてきた絶望からの解放、そして予期せぬ奇跡への、魂からの感謝の叫びであった。
ふむ、人間というものは、実に感情豊かな生き物よのう。
そして、その涙は、時に深淵のどんな宝石よりも美しい輝きを放つものらしい。
なまずの方で続けていたまとめをお休みする記念投稿
なまずの方をドカドカ書いていって、生えてくる設定で別作品を書いているのですが、あとがき書くの結構疲れることが分かったので働き方改革的な感じでまとめお休みします。




