004:深淵の蜘蛛と【食べかけの冒険者携帯クッキー】
004:深淵の蜘蛛と【食べかけの冒険者携帯クッキー】
人間の里への道中、森の木々が次第にその密度を減じ、遠くに陽光を反射する何かの建造物らしきものが見え隠れし始めた。
鼻腔をくすぐる風も、深淵のそれとは異なり、どこか生活の匂い――焼けたパンのような、家畜の匂いのような、複雑で、しかし生命力に満ちた香りを運んでくる。
「おじちゃーん、あれが人間の街だよね? 美味しいもの、いっぱいあるかなー!」
長女アンが、我が背の剛毛を掴んで身を乗り出し、キラキラとした瞳で遠くを指差す。その元気な声に、次女ドゥも「色々な建物見てみたい」と知的な好奇心を覗かせ、三女トロワは「…甘い匂いがすると、いいな…」と、小さな声で期待を呟いた。
(ふむ、あの伊勢馬場という男も大概おかしな人間であったが、これから出会う者たちはどうであろうか。姪っ子たちが無用に怖がらせぬよう、少しは言い含めておくべきか…いや、我が姪に限ってそのような不手際はないと信じよう)
そういえば、深淵に挑んでくる人間というのも、大概は上層部をうろつくだけで、滅多なことでは中層、ましてや我らが住まう下層まで降りてくることはない。
あの伊勢馬場のように、単身で深淵の最奥近くまで到達するなど、異常中の異常と言えよう。あれは一体何者だったのか…。
そんな思索に耽っていた矢先、森の奥から複数の女性の甲高い悲鳴と、怒号、そして金属が激しくぶつかり合う喧騒が響いてきた。
「む、騒がしい。人間同士で争っておるのか?」
我は音のする方へ悠然と八本の脚を進める。
姪っ子たちも、何事かと興味津々で後に続いた。
そこでは、見るからに悪辣な風体の盗賊数人が、二人の若い女冒険者を囲み、剣を突きつけていた。
女冒険者の一人は金髪、もう一人は栗色の髪。
多勢に無勢、明らかに分が悪い。
(むぅ…これは、人間の雄が雌に交尾を迫っておるのか?なんと野蛮な。我ら蜘蛛の一族では、雄が希少で、むしろ雌が雄を巡って争うのが常。我の立場的に、あの人間の雌どもに少し同情が湧いてしまう。…いや、待て!あの人間の雄どもの瞳に宿る光!あのギラギラと妖しく光るあの光、どこかで…そうだ、義兄が姉上のつがいになる以前、時々、姉上が我に向けていたあの目そっくりではないか…!)
我の脳裏に走馬灯のように過ぎる、姉上の行動やセリフ、散らばったパズルのピースのような欠片たちが何か触れてはいけない一つの答えに組みあがろうとした瞬間
「あー!悪い人たちがお姉さんたちをいじめてる!おじちゃん、やっつけちゃって!」 アンの憤慨した声が、我の思考を断ち切った。
「おじちゃん、女の人は嫌がってるみたいだよ助けてあげるの?」
ドゥが冷静に状況を分析する。
その冷静な声色が、完成しかけた一つの真実を記憶の底に沈めていった。
「…あの人たち、お菓子とか持ってないかなぁ…」
トロワは、緊迫した状況にも関わらず、食い意地を発揮している。
その声で、我の意識は日常へ完璧に戻ってこれたような気がした。
我は大きく溜息を一つつくと、「やれやれ、我が姪たちの前で無様な姿を晒すでないわ、人間どもめ。少々、場を掃き清めてやるとしよう」と、盗賊たちに向けて威嚇の意を込めて一本の魔糸を放つ。
糸は盗賊のリーダーの足元に深々と突き刺さり、地面を僅かに震わせた。
同時に、木々の影から我が巨躯がヌッと現わす。
背には三匹の小さな魔獣(姪っ子たち)。
一瞬の静寂の後
「ひぃぃぃぃっ!」
「な、なんだこいつはぁ!?」
「で、でたぁぁぁ!魔獣!?なんで?なんで魔獣がこんなところに!!?」
「お、お助けー!」
盗賊たちは武器も何もかも放り出し、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
盗賊が消え去った後には、女冒険者たちにとって、さらに絶望的な存在が残された。
目の前の巨大な蜘蛛たちを見て、二人の女冒険者は腰を抜かし、声も出せず、ただただ震える。
「ああ…神よ…わ、私たちはここで、生きたまま喰われるのですね…」
金髪の剣士が力なく呟いている。
「ふむ、静かになったな。これで姪っ子たちも落ち着いてピクニックの続きができるだろう」と我は満足げ。
「お姉さんたち、だーいじょうぶ? 悪い奴らはアンたちがやっつけたからね!」
アンが女冒険者たちの前にぴょんと降り立ち、胸を張る。
しかし、その言葉は女冒険者たちには理解できない。
彼女たちには、小さな魔獣が威嚇するように何かを叫んでいるようにしか聞こえない。 金髪の女は顔面蒼白だ。
茶髪の女に至っては涙で顔をぐちゃぐちゃにして、何か祈りだした。
ドゥは、人間自体を近くで観察したいのか二人の女の周りをうろうろしながら視線を送っている。
トロワは、女冒険者たちが持っているリュックサックの隙間から、甘いものの包み紙がチラリと見えているのを発見し、その匂いに誘われるように、リュックの周りをクンクンと鼻を鳴らしながらソワソワと回り始めた。
女冒険者たちは、姪っ子たちの無邪気な行動を、自分たちをどう調理するか相談しているのだと完全に誤解し、恐怖のどん底に突き落とされているようだ。
我は、トロワの訴えるような視線を受け、姪っ子たちが何かを欲しがっているのを察し、尊大な態度で女冒険者たちに問いかけた。
「おい、人間。何か食べ物を持っているな?それを寄越せ」
その言葉は、女冒険者たちにとっては死刑宣告に等しかった。
「は、はいぃぃぃっ!ど、どうぞ!これしかありませんが、全て差し上げますので、ど、どうか命だけは…!」
二人は、恐怖のあまり、リュックをひっくり返し、持っていた携帯食のクッキーを全てを、まるで供物を捧げるかのように、地面に両手をつき、土下座に近い体勢で恭しく差し出した。
「「「わーい!お菓子だー!」」」(実際には、人間には理解できない喜びの鳴き声)
姪っ子たちは、差し出されたクッキーの山を見て大喜びし、人間の女たちの周りをピョンピョンと飛び跳ねる。
その無邪気な姿は、女冒険者たちには全く届いていない。
彼女たちは、自分たちの命が助かるのかどうか、それしか考えられないようだ。
姪っ子たちの喜ぶ姿を見た我は、ふむ、と一つ頷いた。
(これほど喜ぶとはな。ならば、こちらも何か礼をせねばなるまい。人間どもは、深淵の魔鉱石を有り難がって持ち帰ると聞く。我らにとってはありふれた石ころだが、奴らにとっては価値があるのだろう)
我は懐から、深淵では道端に転がっているような、しかし地上では希少とされる魔鉱石の塊を一つ取り出し、女冒険者たちの前に無造作に置いた。
「礼だ。受け取れい」
そして、簡単な感謝の意を示すと、姪っ子たちを促し、再び人間の里へと踵を返した。
道中、アンが「おじちゃんもこれ食べる?」と、食べかけのクッキーを差し出してきた。
一口齧ると、サクサクとした食感と、素朴な甘さが口の中に広がる。
(む…!これは…!美味いではないか!)
深淵では味わったことのない、洗練された甘味。
(こんな旨いのなら、もっと良い物をくれてやればよかった…)
頭上では、我が魂の至宝たちがクッキーの残りをかけて何やらワイワイと騒いでいる。
あれ?我の分は?
まぁ、人の里にさへ行くことが出来れば、このような甘味はいくらでも手に入るであろう。
我は、姪っ子たちと共に、未知なる人間の里への期待に胸を膨らませるのであった。
『冒険者携帯クッキー』
評価★★☆☆☆(2~3回で飽きる味)
長期保存のために硬く焼き締められた、素朴な味わいのクッキー。
味は二の次で、木の実や穀物を凝縮したその一枚は、見た目以上に栄養価が高い。
ベテランは黙ってこれを懐に忍ばせる。多くの冒険者が旅の供として携帯する。