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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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033:給仕アイリスと【店名刺繍入りおしぼり(レモン香る繊維の果実仕立て)】

033:給仕アイリスと【店名刺繍入りおしぼり(レモン香る繊維の果実仕立て)】



 厨房からホールへと戻る回廊で、アイリスは深呼吸をして己の精神を「プロ」へと再調律した。


 カートの中には、『ル・ドラゴニア』の職人達の魂とマッシュの変態的執念とが結晶となった、黄金色に輝く澄み切ったコンソメスープ『星屑茸の宝石箱』だ。

 スープの中で銀色の蜘蛛の巣が揺らめくその様は、まさに飲む芸術品。


(……よし、最高の二皿目が用意できた。隣のゴミどもが気になるけど、私は私の仕事を全うするだけ。この至高の一皿を、あの方たちに届けるのよ!)

 アイリスはカートを推しながら大ホールを突き抜け、下品なヴァルガス達の集団を極力目に入れないように頑張って、黒い紳士四人組の元へ向かう。


 そして、衝立を回り込み、柔らかな、しかし凛とした声を響かせた。

「――大変お待たせいたしました。二皿目のスープでございま……」


 そこで、アイリスの言葉は物理的に凍りついた。

 わずか数分。

 彼女が厨房へ「さら」を補充しに行っていたその短い間に、テーブルの上は「文明の墓場」と化していたのだ。


「あ、お姉さん! お帰りなさい!」


 長女とおぼしき、天真爛漫な笑みを浮かべる赤い髪の少女が、ソースのついた指先をぺろりと舐めながらアイリスを振り返る。

 一皿目の『火竜の冷製グリル』は、影も形もなかった。

 それは良い、それは良いのだが……


「これ、凄くおいしかった! お野菜が全然苦くないの! これを作った人、天才だね。……量が少なかったから、ついついすぐ食べちゃった!」


 彼女の指先はテラテラと脂で輝き、皿の上にはナイフもフォークも使われた形跡がない。

 と言うか、ナイフもフォークも見当たらない。

 どうやら彼女は、王都随一の高級料理を「素手」で完食したらしい。


 可愛らしい口周りと、豪奢なフリルに赤茶けたソースの跡がベッタリと付いているが、本人は全く気にしていないようだ。

 いたるところが汚れたまま、椅子に座って足をぶらぶらさせながらアイリスをニコニコと笑顔で見ている。


 ふと視線をずらせば、先ほどまで椅子に座っていたはずの、知的な雰囲気を纏う次女の姿がどこにもない。

「……え?」

 アイリスが困惑し、お手洗いかな?と疑って視線を彷徨わせた――その刹那、天井から「カサッ」という微かな紙の音が響いた。


 恐る恐る顔を上げたアイリスの視界に飛び込んできたのは、物理法則への冒涜だった。


 黒髪の少女は、そこにいた。

 高さ五メートルはある大ホールの天井、豪華なシャンデリアの真横に、まるで当然の権利であるかのように「立って」いたのだ。

 

 清楚なスカートの裾は、まるで見えない糸で脚に縫い留められたかのように、逆さまの状態でも彼女の身体にピタリと沿って微動だにしない。

 しかし、ただ一点、彼女が一つに束ねた長い髪だけが、抗えぬ世界の理に従い、真っ逆さまに床へと向かって垂直に垂れ下がっていた。


 彼女の眼前に鎮座するのは、巨大なシャンデリアの『心臓部』だ。

 彼女は、豪奢なクリスタルの煌めきよりも、無骨な金属の接合面をキラキラした瞳で、顔を近づけて詳細をスケッチしているようだった。


 彼女が鉛筆を走らせるたび、その黒い髪の束がゆらゆらと振り子のように揺れる。

 微動だにしない衣服と、重力に引かれて揺らめく髪。その矛盾した視覚情報こそが、そこが五メートル上空の「天井」であることを残酷なまでに強調していた。


(え?……天井。……立ってる。……逆さまなのに、スカート、めくれてない……???)


さらにテーブルの一角では、末っ子の銀髪の少女が無言で「作業」に没頭していた。

 彼女は自分たちの分だけでなく、美丈夫や姉たちの分、さらには予備のカトラリーまでも全て回収し、鋼鉄のナイフやフォークを素手でぐにゃぐにゃと編み上げていた。


「…………銀、硬い。でも、私の指のほうが、もっと強い。……八本目。……脚、完成」


 メキメキとフォークの先端が鋭く曲げられ、ナイフの柄が複雑に絡み合う。

 テーブルの上には、もはや食事の道具としての機能を完全に喪失した、銀色に輝く『超精密なシルバー・スパイダー』が不気味なほど美しく鎮座していた。


「これ、おじちゃん。世界一、強くて、カッコいい……」

 薄い胸を張って誇らしげに、シルバースパイダーを掲げる、どうやら褒めて欲しいらしい。


「……こら、我が至宝たちよ。給仕係を困らせてはいけない。さぁ、席について、続きの料理を楽しもうではないか」


 上座の席に優雅に座る男が、低く甘い声を響かせた。

 美丈夫が、慈愛に満ちた瞳で娘たちを諭したのだ。

 そのあまりに気品溢れる佇まいに、アイリスは一瞬「あぁ、やっぱりこの人が一番の良識人なんだわ」と救われた気持ちになった。


 直後。


 美丈夫は、皿の横に置かれていた「おしぼり」を優雅な手つきで一口大に引き千切ると、熟したブドウへ口づけるような官能的な所作で、そのレモン香る布切れを迷いなく口内へと滑り込ませた。


「……ふむ。味は薄味だが、噛み応えがあって退屈しないな。流石、村長が進めるだけは有るな。次の料理までの短い間も、客を飽きさせない工夫が大事というわけか。」


 そう言って、美丈夫はフィンガーボールを片手にもって、優雅な仕草で中の水をあおって飲んだ。


(一番困惑させてるのお前だろぉぉぉ!!)

 アイリスの心の中のポンポコ(オーナー)が、ちゃぶ台をひっくり返して絶叫した。


 アイリスはプロのはずだった。

 大抵のトラブルには笑顔で対応出来るように叩き込まれている。

 だがしかし、人間の脳には「処理限界」というものが存在する。


 最上級のドレスなのに手掴みで食事する長女、天井に張り付いて髪を垂らしながら構造美を写し取る次女、カトラリーを魔改造して銀蜘蛛を産み出す末娘、そして「レモン香る布」を優雅に食す執事姿の魔王みたいな雰囲気の美丈夫。


 あまりにも情報の暴力が過ぎた。

 アイリスは微笑みを浮かべることすら忘れ、カートの取っ手を握ったまま、魂が抜けたような顔でただその光景を凝視していた。


 そんなアイリスの「完全停止」を見て、まず動揺したのは長女のアンだった。

「あ……あの、お姉さん? どうしたの? もしかして……私、何か悪いことしちゃった?」


 アンはソースのついた指をペロリと舐め、不安そうにアイリスの顔を覗き込む。

 その純粋な瞳には、自分たちの「普通」がこの場の「禁忌」に触れてしまったのではないかという、子供のような怯えが混じっていた。


 娘の不安げな声に、おしぼりを咀嚼しかけていた美丈夫も、ハッとしたように動きを止めた。

 彼は口元を隠しながら、ごくりと「布」を飲み込むと、コホンと軽く咳払いをして体裁を整えた。

 万の軍勢をひと睨みで跪かせる覇王のような威厳を保ってはいるが、その紫水晶の瞳はわずかに泳いでいる。

 それは自らの行いをかえりみて、一体何が粗相だったのかを必死に考えているようにアイリスは感じた。


「……すまない、給仕係のお嬢さん。どうやら我らは、知らず知らずのうちに貴殿を深く失望させてしまったようだ」

 彼は椅子の上で居住まいを正し、少しだけ肩をすぼめる。

 その態度は、尊大さを維持しつつも、初めて訪れた異国の地でマナーを間違えた旅行者のような、どこか謙虚な響きがあった。


「我らは、この地の文化を知るためにやってきたのだが……何分、こちらの作法には不慣れでな。よければ、何が間違いだったのかを教えてはもらえないだろうか。我らは、此度の食事を、学びの機会だとも捉えているのだ。」


 その言葉は、アイリスの思考の霧を少しずつ晴らしていった。

 求められれば応えなければならない、頭のどこかで警鐘が鳴り始めた気がするが、アイリスはプロの給仕係として、目の前のお客様達の要望に真摯に向き合う事にした。


「……お客様。……誠に恐縮ながら、こちらの白い布は……食べるものではなく、お指の汚れを拭うための道具でございます。……そして、こちらの銀の道具フォークは、彫刻の材料ではなく、お料理を召し上がるためのもの……。また、お肉もお野菜も、こちらの道具を使って召し上がるのが、この地での『作法』となっております。あと、店内での奇術の類は許可をとってから行っていただけると助かります。」


 アイリスは、あくまでも優しく、子供に言い聞かせるように、しかし毅然と諭した。

 出来る限り、柔らかく伝えたつもりだが、頭の警鐘は最大限の音量で鳴り響いている。

 

(言ってしまった…もしかして、私、無礼打ちされちゃうのかな……)


 一瞬、空気が凍りついたように冷えた気がした、その一瞬の沈黙が永遠に感じられる。

 アイリスの背筋に冷たく大きな汗が伝いおちた。


 だが、返ってきたのは意外なほどに素直で、紳士的な言葉だった。


 美丈夫が、穏やかで、耳心地の良い低音の声で応えた。。


「……なるほど。『地の底の理は、空の上では無力』という奴だな。よければ、また何かおかしな点があれば教えていただけるとたすかる。」


「あ、ごめんなさいお姉さん! 次からはちゃんと道具を使うね!」

 赤毛の少女が、脂のついた指を申し訳なさそうに引っ込める。


「……失礼いたしました。人間の視界に入らない角度を計算していたつもりだったのですが、つい、この建物の構造美に目を奪われて……」

 天井から音もなく「着地」した黒髪の少女が、スケッチブックを抱えて深々と頭を下げた。


「…………銀色のおじちゃん。……壊さないと、ダメ? ……かわいそう……」

 末っ子のトロワが、ぐにゃぐにゃに編み上げられた銀色の蜘蛛(元・フォーク)を愛おしそうに撫でながら、不安げにアイリスを見上げる。


 どこかシュンっと小さくなっているような美丈夫と三姉妹の、あまりにも純粋で謙虚な態度。

 アイリスの張り詰めていた心が、温かな日差しに触れたかのようにふっと軽くなった。


「いえ、滅相もございません! 私の方こそ、差し出がましいご忠告をいたしまして……。異文化圏からのお客様ですもの、戸惑うのは当然でございます。なにかございましたら何なりとお申し付けください。……あ、そちらの『銀の彫刻』は、お代金の中に入っております、どうぞお持ち帰りくださいませ」


(……あぁ、よかった。話せばわかる。見た目はちょっと、というか相当アレだけど、この人たち、ものすごく『育ちのいい人』たちだわ……!)


 アイリスは安堵とともに、カートからクロッシュ(カバー)に包まれた、スープを4人の前に配膳した。


「……では、改めて。二皿目のスープ、当店自慢のコンソメスープ『星屑茸の宝石箱』でございます」


 黄金のコンソメの中で、0.01ミリにスライスされた星屑茸が銀色の蜘蛛の巣を形作っている。

それを見た四人は、「……おお!」「これは凄い!」「……綺麗」と、一斉に感嘆の声を上げた。


「こちらのスープは、熟練の職人が三日三晩、一秒の油断もなくアクを取り続け、雑味を一切排した黄金の液体でございます。そして、そこに浮かぶのは新月の晩、深い洞窟の中でしか収穫できない『星屑茸』。その繊細な繊維が織りなす輝きと、芳醇な香りをお楽しみください」


 アイリスがドキドキしながら見守る中、四人は教えられた通り、慣れない手つきながらも優雅にスプーンを口へと運ぶ。


 刹那、四人の動きが止まる。

 そして次の瞬間、まるで魔法にかけられたかのように、それぞれが口に手を当てて驚きに目を見開いた。


「凄く! 凄く美味しい!! 身体の芯までポカポカして、お星様を飲んでるみたい!」

 亜鏡の少女が頬を紅潮させ、弾けるような笑顔を見せる。


「……計算不能です。素材の旨味が完璧に調和していて、どうやってこの透明度と濃度を両立させているのか……。このスープの設計図、人類の至宝ですよ」

 黒髪の少女が、スケッチブックを置いて真剣な眼差しで皿を凝視する。


「…………私、この香り、好き。……おじちゃんの家の70階くらいに、たまに生えてる。……落ち着く」

 銀髪の少女が、フォークで作った蜘蛛をそっと傍らに置き、うっとりと目を細めた。


 そして、美丈夫が静かにスプーンを置くと、深く、重厚な感銘を口にした。


「……これは、ここまでお忍びで来た価値があったな。あのジャン=ピエールも凄まじい男だったが、彼以外でも、私をこれほど驚かせてくれる者がいようとは。……やはり人間とは、実に面白い、凄いものを作るな」


 それぞれの言葉には、純粋な敬意と感動が籠もっていた。

 この瞬間を見るために、私はこの仕事を続けているんだ。

 アイリスは、プロとしてこれ以上の喜びはないと感じ、思わず目頭が熱くなる。


(……よかった。ボルグ、マッシュ。あんたたちの料理、ちゃんと届いたわよ……!)


 極上の静寂と、至福の吐息。

 このまま、この美しい時間が続けばいい、アイリスがそう願い、再び深く一礼しようとした、その時だった。


 衝立の向こう側から、全てをぶち壊す「汚物」の叫びが響いた。


「カイン、貴方はもう不要なの!!明日からは貴方より優秀なレンジャーが私たちの仲間になる予定なの!だいたい、貴方は前から生意気だったのよ!貴方の用意する食事は毎回似たような物ばっかりだし!節約しろ!節約しろ!ってもう!うんざりなのよ!」


 ミラの、カインを一方的に糾弾する金切り声が響く。


 その瞬間、スープの余韻に浸っていた美丈夫の紫水晶のような瞳から、スッと熱が消える。


 アイリスは、自分の背筋が物理的に凍りつくのを感じ、同時に給餌役としての矜持が心の底で奮い立つのを感じた。

 料理を堪能する幸せな時間に、他人を糾弾する金切り声は余りにも無粋。

 アイリスは、心の底から、目の前の4人に純粋に料理で幸せになる時間を楽しんで欲しかったのだ。

 

「……皆様。どうぞ、冷めないうちにその『輝き』をご堪能くださいませ。私は……少し、向こうのお騒がせを鎮めてまいります」


 アイリスは、まるで戦場へ赴く騎士のような悲壮な決意を背負い、再び『黄金の牙』サイドへと向かって歩き出した。



【店名の刺繍入りおしぼり(レモン香る繊維の果実仕立て)】

評価:★★★☆☆(深淵の蜘蛛視点) / ☆☆☆☆☆(一般人視点)


「おしぼり」という概念を持たぬ者にとって、この一品は「温かいうちに供され、清涼な柑橘類の香りを放ち、銀の器に載せられた何か」でしかない。

 つまり、それは「料理」の定義をすべて満たしてしまっているのである。

 本来は指先を清めるための道具だが、鋼鉄さえ引き千切る指先と、繊維を「食感」として享受できる強靭な顎を持つ者の前では、それは「噛みしめるほどに瑞々しい、新感覚の温かな前菜」へと昇華されてしまう。

 高級店ゆえの質の高い綿素材と、完璧な温度管理が、皮肉にも「食用としての完成度」を高めてしまった、文化の衝突が産んだ悲劇(あるいは喜劇)の逸品である。




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