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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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031:給仕アイリスと【大空イカのスルメ】

031:給仕アイリスと【大空イカのスルメ】


 長い回廊を抜ける間にも、大ホールからはヴァルガスたちの下品な笑い声が反響して届いてくる。


 だが、エントランスに近づくにつれ、その喧騒すらも「何か」に塗りつぶされるように、静寂と冷気が支配を強めていった。



 エントランスへ続く角を曲がり、その姿が視界の端に掠めた、その刹那だった。

 


 これまで一流の給仕として、数々の修羅場で上流階級の『妖怪』たちを捌いてきたアイリスの生存本能が、全身に最大出力の警報を鳴らした。


 脳が思考を介する暇もなく身体が弾け、気がついた時には通路の極太な大理石柱の陰へ、音もなく神速で滑り込んでいた。



「……な、なによ、今の……っ」

 ふと自分の腕を見れば、人生で一度も見たことがないほど禍々しい鳥肌がたっていた。


「嘘でしょ。何かの見間違いよね? そうよ、そうに違いないわ。そうよ絶対そう」


 そう自分に言い聞かせ、震える膝を必死に押さえつけながら、柱の端から「ひょこっ」と再度エントランスを盗み見る。



 間違いなかった。

 そこには、周囲の物理法則を書き換えるほどの圧倒的な『捕食者』のオーラを纏う異次元の集団が、平然と、優雅に鎮座していた。


 先頭に立つのは、黒絹を流したようなサラサラの長髪を揺らす、長身の美丈夫だ。


 隙のない黒の執事服を纏い、所作の一つ一つが完成された芸術品のよう。

 

 だが、その吸い込まれるような深みを湛え、どこか怪しく輝くアメジストの双眸から滲み出る「圧」は、執事というよりは絶対的な玉座に君臨する魔王のそれだった。



 その背後には三人の少女たちが、これまた凄まじい存在感を放ちながら佇んでいる。


 彼女たちの装いは、今の流行とは一線を画す、数十年、あるいは百年以上前のアンティークなドレスだ。


 だが、そのドレスが湛える「圧」は、アイリスが知る如何なる高級織物とも異なっていた。


 月光を凝固させたような妖しい光沢を放つ生地は、滑らかでありながら、どこかはがねのような強靭さを予感させる。


 一針ごとに刻まれた刺繍は、人間が針と糸で縫い付けたのでは無いと疑ってしまうくらいに見事な物である。

 

 まるで意思を持つ極細の繊維が、あるべき形を求めて布の上を這い回り、そのまま結晶化したかのような、有機的な連続性を帯びていた。



 さらに、首元で揺れる大粒の輝石に至っては、もはや正気を疑うレベルだった。


 子供のおもちゃ箱から放り出されたガラスの塊かと思うほど、デタラメで、暴力的なまでに巨大な石。


 だが、そこから放たれる「本物」だけが持つ底知れないオーラと、魂すら永久に中に吸い込んでしまいそうな魔性の輝きは、それが世にある如何なる至宝をも「偽物」へと貶めるほどの、圧倒的な格差をせせら笑っていた。



(……待って、待って、待って! ヤヴァイ! ヤヴァイ! ヤヴァイ!! 普通じゃないわ、あの人たち! あの服、あの宝飾品……どれ一つとっても、ヤヴァイ輝きを持ってるじゃない!! どこ? どこの国の王族よ!?)



 アイリスの脳内にある『生存本能』という名の警報機が、けたたましく鳴り響く。


 彼女は一瞬で「最高級の営業用仮面」を顔面に張り付かせると、隣でガタガタと震えるメイの肩に優しく手を置いた。



「あらメイさん、確かに素敵なお客様ね。……じゃあ、あとは任せたわよ。私は3番テーブルのワインのお代わりがあるから、申し訳ないけど、仕事に戻りますわね。ウフフ。」



「ひっ!? ア、アイリスさん、待って、行かないでぇ!!」

 アイリスが音もなく背を向けようとした瞬間、メイが火事場の馬鹿力でその袖を掴んで離さない。


 その目は涙が溢れかけていて、鼻水すら出かかっている。



「離せ!離しなさいメイ! 私はお仕事があるのよ!」


「嫌です! 死ぬ! 私、今あの方達と目が合ったら魂吸われる気がしますぅ!!」

 メイは涙目になりながらアイリスの腰にしがみつき、最高級のシルクがミシミシと悲鳴を上げるほどの猛烈な力でその袖を握りしめた。



「ちっ……! 分かった、分かったから! 袖を離しなさい、シルクが傷むわ!」


 アイリスはメイの必死の形相に舌打ちを漏らすと、その耳元で、低く、しかし断固とした口調で命じた。


「……いい、メイ。私はこれから全力でオーナーを呼んでくるわ。オーナーなら、断ってくれるはず! あの狸、伊達にこの店のオーナーはやっていないわ、きっとこの状況を何とかしてくれるはずよ! だから、それまで何としてでもここで持ちこたえなさい!」


「無理です! 私には何もありません!」


「あるでしょ! その無駄に大きい胸が! それを最大限に寄せて上げて、相手の意識を逸らすのよ! 何ならそこにメニュー表でも挟んで、オーダーでももらっておきなさい!!」


「そんなぁー!!」


 メイの絶望的な叫びを背に、アイリスは風を斬るような速さで回廊を逆走した。


 オーナー室の扉を蹴り破らんばかりの勢いで開くと、そこには欠員リストを眺め、「こいつら無断欠勤で幾ら給料減らしてやろうか?」と嬉々としてそろばんを弾いている脂ぎった中年男の姿があった。



男は口に『大空イカのスルメ』を咥え、クチャクチャと下品な音を立てながら、まるで獲物の骨でも噛み砕くかのように執拗に咀嚼している。


 室内に漂うのは、王都随一の格式を自称するレストランの品格を真っ向から汚染するような、安っぽい発酵香と加齢臭の混じった不快な空気だ。


「オーナー! エントランスに『ヤバいお客様』が来ました! 私の給料30年分を合わせても足元に及ばないようなドレスを着た、生ける深淵みたいな四人組です! 早く、早くなんとかしてください!」


「な、なんだと!? 予約はどうした! うちは一見さんお断りだぞ! 丁重にお引き取り願え!」


「そんな正論が通じる相手じゃないんですって! ほら、早く!」



アイリスはオーナーの背中を強引に押し、再びエントランスへと戻る。


そこでは、半泣きで胸を強調しようと不自然なポーズをとっているメイの前で、黒絹の紳士が、理解不能な生物を見るような冷徹な瞳で彼女を見下ろしていた。



 案の定、オーナーも紳士たちが目に入った瞬間、その、ふくよかな体から想像もできないような身のこなしで柱の陰に身をひそめた。



「あれは何だ?ちょっと意味が解らないぞ!?アイリス君、君に任せた!絶対、機嫌を損ねないよう、丁重にお断りするんだぞ!!」



 アイリスは、すでにそのセリフを予想して、オーナーのセリフが終わり切る前に、華麗なヤクザキックでオーナーを柱の陰から追い出した。


「――ぐはっ!?」


 床を転がり、あろうことか『歩く天変地異』の目の前まで射出されたオーナーは、絶望のあまり白目を剥きかけた。


 しかし、そこは腐っても『ル・ドラゴニア』のオーナー。


 「い、いらっしゃい……ま、せ……ッ!」

 命の危険を感じて脂汗を噴き出しながらも、腰を四十五度に折ったままプルプルと硬直する。

 

「……うむ。迷惑をかけて申し訳ないが……予約というものが必要だったかな?」


紳士の声が響くだけで、オーナーの顔面が恐怖で引き攣った。


だがオーナーも伊達に狸と呼ばれてはいない。

彼は目の前の美丈夫の覇気にビビり散らしながらも、プロの微笑みを張り付かせた。


「……大、変申し訳ございません。本日はあいにく料理人の半数が病に伏せておりまして……。大切なお客様に、当店の誇る最高のおもてなしをすることが叶いません。本日は、何卒……」


 おお、頑張ったじゃない、とアイリスが内心で感心した、その時だった。


「先ぶれを出さなかったのはこちらのミスだ。だが、困ったな。話に聞いたこちらのレストランの味を、姪たちが楽しみにしていたのだが……」


 紳士が困ったように呟き、懐から「それ」を取り出した。


「コレで、簡単な物でも構わない。何か食べさせてもらえないか?」


 ゴトリ。


 カウンターに、生々しい重量感と圧倒的な存在感を持って出現したのは、拳ほどもある純金の塊だった。


 紳士にとっては、道端の石ころでも差し出すような、あまりにもぞんざいな態度。


「…………ッ!! アイリス君! メイ君! 何をボサッとしている! すぐにお席を用意するんだッ!! 最高の、最高にVIPな席を!!」


 オーナーの行動は早かった、音もなく金塊を回収し、瞳を金塊の形にしたまま、あろうことか、この瞬間一番発してはいけない悪魔の言葉を発したのだ。


 アイリスは、自分の上司のあまりの現金さに白目を剥きながら、その襟元を掴んで柱の影に連れて行き、耳たぶを引っ張りながら至近距離で怒鳴りつけた。


「ちょっとオーナー、正気!? あんた馬鹿なの?どこの個室も予約で埋まってるのよ! 物理的に空きなんて一席もないわ! 断って! 今すぐこの金塊を突き返して、土下座してでも全力で断りなさいよ! あの人たちを店に入れたら、今日がこの店の命日になるわよ!!」


「バカモン、金だぞ金! この重厚感と存在感!それにこの輝きを見ろ!この輝きこそ全てをひれ伏させる圧倒的な力なのだ!!」


「気が付け!!馬鹿!圧倒的にひれ伏しているのはオーナーお前だ!!」

 アイリスの血を吐くような正論を、オーナーは金塊の眩しさで完全にシャットアウトした。


 彼はもはや恍惚トランス状態に陥り、法悦の表情で金塊を愛で回し始めた。


 瞳孔はコインの形に開き、耳の奥ではジャラジャラという強欲の賛美歌が鳴り響いている。


 黄金の魔力に脳を焼かれ、もはや強欲の神から直接電波を受信しているかのような、危うい表情の強欲タヌキ。

 意識が『強欲の極致』へと接続されたその瞬間、彼はブルッと体を震わせ、最悪の『天啓』をひねり出した。


「ひらめいたぞ!……大ホールの一角だ! あ、そこなら衝立で区切れば柱の死角になって他のお客様からの視線を遮ることができる! あのブルーライセンスの冒険者様の近くだ! わしって天才! わしって最高!!」


 オーナーは自らの「黄金の啓示」という名の劇薬に完全に酔いしれ、アイリスの反論を待つことすら忘れて独走を開始した。


 彼は全ての面倒事をアイリスの肩に積み上げたまま、ふくよかな体躯からは想像もつかない爆速で厨房へと突進していった。


 残されたのは、嵐が去った後のような静寂と、丸投げされた難題を前に立ち尽くすアイリスだけだった。


 今の状況で、副料理長のボルグに新しいお客様用の料理を作れなんて言ったら、殺されても仕方ないのだが、今のオーナーならきっと生き残って説き伏せるに違いない。


伊達に、この店のオーナー狸をやっているわけではないのだ。


アイリスは天を仰いだ。


 かくして、偽物の英雄と、本物の怪物が、衝立一枚を隔てて相まみえることとなったのである。



「お待たせしました、こちらがお席になります」


 アイリスは、人生で最も丁寧な、一ミリの狂いもない完璧な所作で彼らを大ホールの一角へと導いた。


 だが、その内心は「生きた心地がしない」を通り越し、逆に変な高揚感すら覚え始めている。


 しなりしなりと歩いている自分の後ろを静かについて来る圧倒的な存在感。


 アイリスは何故だかわからないが、自分が大軍を率いている将軍のような不思議な心持に満たされていた。


「……申し訳ございません。あいにく個室はどうしてもご用意できず……。こちらに衝立ついたてをご用意しましたので、どうかこちらでお寛ぎくださいませ」


 アイリスが指し示したのは、大ホールの特等席。


 だが、衝立一枚隔てた向こう側からは、ヴァルガスたちの「ギャハハ!」という品性の欠片もない笑い声が漏れ聞こえてくる。


 アイリスは冷や汗を流しながら、今すぐ土下座して謝りたい衝動を抑えていた。


「いや、よい。急な来訪にも関わらず、真心のこもった対応、いたみいる。簡単な物でも構わないので、この娘たちに何か食べさせておくれ」


 黒衣の美丈夫は、不満一つ漏らさず、むしろ感心したように周囲を見渡して椅子に腰を下ろした。


「ねえお姉さん! 村の人たちが、王都に行くならココが一番美味しいって教えてくれたの。私、すっごく楽しみにしてたんだよ!」


「待ってる間、このお部屋を見て回っても良いですか? 人間たちの調度品って、すごく精巧で興味があるんです。壊さないように気をつけるから!」


「わたし、キノコが食べたい……。あと、すっごく甘いものも……」


 少女たちが瞳を輝かせながら、期待に満ちた声を上げる。


 仰々しすぎるドレスや、この世のものとは思えないオーラに身を構えていたアイリスだったが、彼女たちの無邪気な反応に、毒気が少しずつ抜けていくのを感じた。


(……あら? 何これ、可愛い。ドレスは死ぬほど威圧感あるけど、中身はただの『良いお家のお嬢様』じゃない。しかも「調度品」を見て回りたいなんて……言い方はちょっと引っかかるけど、この純粋な好奇心、悪い気はしないわね)


「かしこまりました。ご期待に添えるよう、厨房一同、命を懸けて 、いえ、全力を尽くしてご用意いたします。……展示品などは、他のお客様のご迷惑にならない範囲でしたら、どうぞお好きにご覧くださいませ」


「うむ、頼む」


 アイリスの返答に、「わーい!」とキャッキャッと華やぐ娘たち。


 その様子を、黒い美丈夫は、氷をも溶かすような、どこまでも深い慈愛に満ちた眼差しで見つめている。


 その横顔があまりに優しく、あまりに絵になりすぎていて。

 アイリスは、心に浮かんだ言葉を、つい、無意識にこぼしてしまっていた。


「……可愛らしいお嬢様たちですね。皆様に愛されているのが、見ていて伝わってまいります。」


 それを聞いた瞬間、男の顔が、パァッと花が開くような、さらに眩い微笑みに変わった。


「あぁ、ありがとう。……自慢の姪っ子たちなのだ。彼女たちの笑顔こそ、われにとっての至宝なのだよ」


 嬉しそうに、そして誇らしげに呟くその声には、一切の虚飾がなかった。

 

(……っ!?)


 アイリスは、至近距離から「最上級の慈愛」と「美貌」の直撃を受け、脊髄が全部解けてしまいそうな感覚に陥った。


 心臓が爆発しそうなほど跳ね上がり、顔面が沸騰したように赤くなる。


「――っ、し、失礼いたしますッ!!」


 アイリスは、プロの給仕であることを忘れそうになり、逃げ出すようにその場を後にした。


 厨房に戻る回廊を走りながら、彼女は必死に自分を律しようと拳を握りしめる。


( 危なかったわ、仕事を忘れそうになってたわ! ……ああもう、ボルグ! マッシュ! 全力でキノコ料理を作りなさい!もう腹を括ったわ!全力でおもてなしして、絶対ご満足して帰ってもらうんだから!)


 アイリスの給仕魂に火が付いた、先ほどまでの恐怖をはるか彼方に追いやって、今はただ、この奇妙な四人組に最高の時間を堪能してもらいたいと心の底から思ったのだ。


 だがその時、衝立の向こう側で、ヴァルガスが下品に鼻を鳴らす音が聞こえた。


「おい、なんだぁ? 隣、ガキ連れの成金か? けっ、高級店の空気が台無しだぜ……。おいカイン、あいつらの顔見てこい。可愛い女だったら俺が教育してやる」


 地獄へのカウントダウンは、すでに始まっていた。




【大空イカのスルメ】

評価:★☆☆☆☆(ただし愛好家からは★★★★☆)


 体内の細菌が生成する浮遊ガス(=高濃度の腐敗ガス)で空を泳ぐ『大空イカ』を、あえてそのガスごと乾燥させた王都最凶の珍味。


 袋を開封した瞬間に解き放たれるのは、「数年放置されたドブ」あるいは「熟成を極めたゲロ」と形容される、凄まじい悪臭である。


 初心者が無防備に吸い込めば、文字通り目の前が暗転し、膝から崩れ落ちるほどの衝撃を受けるだろう。


 しかし、その臭気の壁を乗り越えた者だけが辿り着ける、魔性の旨味成分は、もはやスルメの形をした麻薬と言っても過言でない中毒性がある。


 この領を守護する神竜アマルガムが、公の場では「あのような野蛮で下品な供物は二度と持ってくるな」と激怒しつつも、毎年お忍びで神殿へ大量発注しているのは、王都のギルド職員たちの間では「絶対に触れてはいけない公然の秘密」である。


 なお、スルメよりは香気が弱い【大空イカの塩辛】もあるが、「加齢臭のする酒飲みの代名詞」として若い女性から忌み嫌われている。


 しかし、稀に父親の晩酌から英才教育を受け、禁断の扉を開いてしまった「隠れ大空イカ女子」が存在し、よなよな同級生に隠れて一人でイカのキモをすすっているという悲しい話が伝えられている。


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