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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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030:給仕アイリスと【火竜のグリル〜ボルグ流~屍(かばね)の境地〜】

030:給仕アイリスと『火竜のグリル〜ボルグ流“かばねの境地〜』


 窓の外には、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。

 柔らかな陽光が王都の街並みを照らし、並木道を行き交う人々は穏やかな昼下がりを謳歌している。

 まさに、平和を絵に描いたような昼どき。


 ここ、王都の貴族たちですら溜息を漏らす瀟洒なレストラン『ル・ドラゴニア』の厨房は、今や酸素すら枯渇した地獄の釜底まっただ中だった。


 アイリスが厨房に足を踏み入れると、数人の男たちが人を殺し慣れた暗殺者のような顔で、ひたすら肉を叩き、野菜を刻み続けている。

 

「ボルグ!!……12番のキノコソテー、まだなの?」

「……うるせえ、潰すぞ!今やってる、話しかけるな、ボケカスシネ!!」

 副料理長のボルグは、欠勤した者たちへの憎悪を燃料にして、業火に包まれたフライパンの中の食材に向かい狂ったようにヘラを叩きつけている。

 

「……料理長め……。ジェニファーちゃん(料理長の愛竜)がくしゃみをしたから休むだと? ふざけるなよ……。あのトカゲ・マニア!!、戻ってきたらジェニファーちゃんとやらと一緒に、この大鍋でじっくり煮込んでやる。料理長死ね。トカゲも死ね。この世のドラゴン全部死ね」


 ここは、王都の貴族ですら予約に数か月を要する伝統と格式の殿堂『ル・ドラゴニア』。

「竜を愛し、竜に仕える」プロフェッショナルたちが集う、一見さんお断りの完全会員制超高級レストランだ。


 だが本日、その誇り高き伝統はその尊厳をかろうじて保ちながらも、今にも倒壊寸前の様相を呈している。


 現在、この国で猛威を振るう『ドラゴンインフルエンザ』。

 人間に害はないが、竜種には高熱と頻繁なくしゃみ、そして致命的な倦怠感をもたらす流行性疾患である。

 よりにもよって満員御礼の当日、毎年恒例のこの季節風邪が、最悪の形で現場に牙を向いたのだ。


 あろうことか、料理長や古参のウェイターたちが、「愛竜ちゃんがくしゃみをした」という私情を優先し、看病のために職務を放り出して帰宅してしまったのだ。

 後に残された数少ないスタッフたちは、押し寄せる客と崩壊した現場の狭間で、殺意にも似た精神の境地に達していた。


 「――アイリス!4番のデキャンタ、8番の皿。さっさと消せ。次が詰まっている、殺すぞ!」

「だまって料理作ってろ!ホールの仕事にしゃしゃって来んな!!この陰毛野郎!! 12番のスープ、まだなの?このクズ!!」


 アイリスは、コンロから上がる地獄のような熱気と、飛び散るソースの飛沫を紙一重でかわしながら、カウンターに叩きつけられた熱々の皿を奪い取るように銀盆に乗せた。


 「アイリスさん、12番の客、ワインが遅いって嫌味言ってます! 泣きそうです……!」

 新人のメイが、震える手で空のグラスを抱えながら訴える。

 その頬には、客に浴びせられたであろう冷ややかな言葉の傷が透けて見えるようだった。


 「あ? 殺すぞ? メイ!お客様にはお前のその無駄にデカい乳でも吸わせて黙らせなさい! あと、9番の皿をそろそろ下げに行きなさい!もぐぞ?」


 アイリスは新人のメイに言葉のナイフで声援をおくりながら、ボルグが仕上げたばかりのスープに鋭い視線を落とした。

 ワゴンに乗せる寸前、彼女はプロの嗅覚でその「綻び」に気づく。


 「ボルグ、このスープ、香りが弱い気がするわよ!」

 アイリスは、カウンターの上にある皿を指さしながら、射殺すような視線でボルグを睨みつけた。


 「あ?……チッ! マジかよ! ちょっと見せろ!」

 副料理長のボルグは、右手に持った肉切り包丁をまな板に深々と突き立てると、即座にスープのボウルを覗き込む。


 その顔は返り血のような赤ワインソースで汚れ、目は血走っているが、指先だけは外科医のように精密な動きでスープの油分をチェックしている。


「本当だ!…チッ!今季の紅玉テングダケは香力が弱めなのか? おい! ロリコンマッシュ! 何とかしろ!」


 厨房の隅、キノコとハーブの棚で一心不乱に瓶を振っていた優男のマッシュが、遠くからでもわかる舌打ちを繰り返しながらやって来た。


 「死ね、死ね、死ね!!(わかった、星屑茸のオイルで香りを整えておく、あと、死ね!)」


 マッシュは呪詛を吐きながらも、迷いのない手つきで瓶の蓋を開け、スポイトで「星屑茸ほしくずだけの濃縮オイル」を抽出した。


 スープの表面にわずか三滴、正確な二等辺三角形を描くようにオイルを落とす。


 その瞬間、厨房の重苦しい熱気と脂の臭いを一変させるような、豊潤で神秘的な森の芳香が鮮烈に立ち昇った。


 「よし、合格だ! さっさと持っていけ、このドブネズミ女!!」

 ボルグは鍋を振り、火柱を上げながらアイリスを追い払う。

 その炎は、これから提供されるメインディッシュの表面を、完璧なキャラメリゼ状に焼き固めていた。

 「あんたこそ、その脂ぎった顔をコンロで焼いてなさい!!」


 もはや罵倒なのか、激励なのか分からないセリフを吐き捨てて、アイリスは銀盆を盾にするように、戦場ホールへと舞い戻る。

 背後からは相変わらず「死ね!」「殺すぞ!」という罵声が響いていたが、彼女の手にある盆からは、この王都で最高級の、一切の妥協がない美味の香りが漂っていたのであった。


 ◇


 「――がははは! おいカイン、何を震えてやがる。もっと注げ! ブルーライセンスの勇者様へのお酌だぞ! ケチケチするな、もっと波々と注げ! このノロマが!」


 冒険者パーティー『黄金の牙』のリーダー、ヴァルガス。

 彼の品性の欠片もない怒鳴り声が、優雅な身のこなしで凄まじい密度の仕事をこなし、ホールを疾走するアイリスの神経を逆撫でする。


 見れば、雑用係の少年カインが、重い銘酒のボトルを震える手で持ち上げようとしていた。

 ヴァルガスの無茶な要求と威圧感に、今にも中身をこぼしてしまいそうな危うさだ。


 (……ちょっと、やめてよ。そんな落としそうな手で、うちのワインに触らないで)

 アイリスは流れるような動作でカインの横に割り込むと、彼の手から滑らかにボトルを奪い取る。


 「失礼いたします。旦那様、当店の銘酒は、熟練の給仕が最高の状態でお注ぎするのが決まりでございます」


 アイリスは完璧な角度で一礼し、ヴァルガスのグラスに黄金色の銘酒『竜の溜息』を注ぎ入れる。

 表面張力ギリギリまで注げという野蛮な要求を、優雅な手つきで受け流し、香りが開くのに最適な量でピタリと止めた。


 (……この、トカゲの餌(ウネウネ蟲)にも劣るノータリンが。ワインは香りを楽しむものだって、教わらなかったの? 波々と注いだら、せっかくの熟成香が台無しじゃない。銘酒が泣いているわよ)


 心の中で毒を吐き散らしながらも、アイリスの表情には微塵も動揺はない。

 仄かにはにかむような柔らかな笑顔で返す。


 この『黄金の牙』は、最近王都を騒がせている新進気鋭のパーティーだ。

 難攻不落と言われる『深淵ダンジョン』の十層に到達したと新聞を賑わしている。

 その功績によって、ハンターのランクで高位を意味する『ブルーライセンス』を授与されたばかりの、いわば「時の人達」である。


 (……10層到達ねぇ。確かに記録だけは一流かもしれないけど。でも、所作の端々に滲み出ているのは、下層の人間を見下す厭味な選民意識、とてもこの店の格に合わない下品な空気を感じるわ。特にあっちの女……)


 アイリスの視線の先には、優雅に髪をかき上げながら、カインを冷たく見下ろしている弓使いの女、ミラがいた。

 彼女が纏っている装いは、一級品の竜鱗加工が施された特注品だ。

 それもそのはず、彼女の父親は防衛局のトップであるグレン長官の腹心だという噂がある。

 いわゆるお貴族様だ。


 「やだヴァルガス。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。この子、ただでさえ頭が悪いんだから、驚いてこぼしちゃったらどうするの? 私の特注のブーツが汚れちゃうわ」

 ミラは優雅に足を組み、磨き抜かれた竜鱗のブーツの先を、わざとらしくカインの目の前まで突き出した。


「ギャハハ! 全くだぜミラ。こんなウスノロ、次の『深淵』探索までに叩き出さねぇとな!」

 下品な笑い声を上げ、副料理長ボルグの渾身の一品『火竜のグリル』を骨ごとバリバリと噛み砕いているのは、重戦士のガルダだ。


 女だてらに岩のような体躯を持ち、返り血か脂汚れか判別もつかない何かの体液が染みついたタンクトップ姿で、格式高いレストランの空気を物理的に汚染している。


 ドレスコードという言葉はこの女の辞書には存在しないのだろう。

 本来なら門前払いの不潔さだが、ドラゴンインフルエンザによる人手不足の弊害で、受付のチェックを素通りしてきたに違いない。


(……ねえ、何その格好? うちをどこの冒険者ギルドの酒場だと思ってるわけ? その服から漂うドブネズミと腐った肉の臭い、今すぐこの店の芳醇な香草の香りと入れ替えてやりたいわ……!)


 アイリスが奥歯を噛みしめて我慢する横で、彼女は完璧にサーブされた銘酒『竜の溜息』を一口も味わうことなく、まるで泥水でも啜るように一気に煽り、肺の底から盛大なゲップを吐き出した。


 アイリスのこめかみに、ドクンと太い青筋が走る。

 お客様をもてなすプロとしての自制心と、店の品格を泥足で汚された怒りがアイリスの中で壮絶な激突を起こし、脳内の毛細血管が数本、音を立てて弾け飛ばした。


「おい、この肉、まだ赤みが残ってんじゃねえか! もっと火を通せって言えよ! ブルーライセンスの俺たちが食うんだ、真っ黒に焼き上げやがれ!」


(……この、蛮族女がぁ”!さっきボルグが魂削って『余熱で20秒休ませた』完璧な火入れのステーキを、真っ黒に焼けですって? こいつの舌は死んでるのかしら。)


 アイリスの殺意がさらに一段階跳ね上がる。

 そんな彼女の視線の先で、ヴァルガスが満足げにミラとガルダを交互に眺め、最後に蔑むような目でカインを射抜いた。


「いいか、カイン。俺たち『黄金の牙』は今や王都の英雄だ。これからは見た目も重要なんだよ。俺の隣には、美しい弓使いのミラと、最強の女戦士ガルダ……。フフ、お前みたいな陰気な男の居場所なんて、もうねぇんだよなぁ~」


 ヴァルガスは脂ぎった指先で、カインの頭を小突く。

 

(……死ねばいいのに、あのアホ冒険者たち。王都の貴族すら憧れるこの大ホールで、臆面もなく下劣なイジメを披露するなんて、品性の欠片も持ち合わせていないようね。ブルーライセンス? 笑わせないで。あんな横暴がまかり通る資格なら、ギルドの審査基準を疑うわ。……そこの男の子も、そんなに嫌なら逃げちゃえばいいのに……。)


 アイリスは、ヴァルガスがカインという少年の耳元での嘲笑するかのようなつぶやきを聞いて考える。


 アイリスにボトルを取り上げられたカインは、注ぐ仕事すら奪われた空っぽの両手を震わせながら、ただガタガタと膝を震わせていた。

 カインの顔色は真っ青を通り越し、土気色に染まっていた。


(ん?……待って。震え方が、異常じゃない?大丈夫なのこの子?)


 震えるにしても異常すぎる、さっきから外ばかり気にしているようだし、顔色が真っ青だ。

 アイリスが不安に駆られ、カインと同じように入り口へ視線を向けようとした、その時だった


「――アイリスさん、アイリスさん……ッ!」


 背後から届いた、今にも消え入りそうなその震え声が、アイリスにとってはどんな警報よりも重く響く『絶望の予鈴』となった。


 振り向くと、新人のメイが、まるで幽霊でも見たかのように顔を真っ青にして、震えながらアイリスを呼びに来たところだった。


「ア、アイリスさん……ッ。お、お客様が……入り口に……」


 メイの震える声を聞きながら、アイリスの鍛えられた給仕係としての本能が、かつてないほど激しくざわついた。

 窓から差し込む、穏やかなはずの暖かな陽の光。

 それが氷のように冷たく、鋭い刃のように見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。


 平和な昼下がりの光の中に、混じり気なしの「深淵」が紛れ込んだのだ。


 アイリスの、そして『ル・ドラゴニア』の本当の地獄が、今、静かに幕を開けた。




【火竜のグリル 〜ボルグ流“かばねの境地〜】

 評価:★★★★☆


 かつて冒険者として最前線に立ち、数十体の火竜を屠り、その死体を山ほど捌き続けた副料理長ボルグ。

 彼が「命の終わり」と「美味の始まり」の境界で掴み取った、まさに境地の一皿である。


 火竜特有の強靭な肉に、あえて劫火を浴びせた後に訪れる「二十秒の静寂レスト」。

 これによって組織が解脱し旨味である脂肪と絡み合う、その瞬間、凶暴な肉が至高の抱擁へと変わるのだ。


 ……しかし、この「溶けるような肉質」こそがボルグの到達した極点であるにもかかわらず、無教養な重戦士ガルダは「噛み応えがない、生焼けだ」と一蹴した。


 ガルダが求めたのは、ただの「炭化したタンパク質」であり、ボルグの至芸は彼女の無理解という名の壁に阻まれた。

 食べる者がその価値を知らぬとき、料理はただの餌に成り下がる。

 その絶望が、星一つを奪い去ったのだ。



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